「私、貴方に憧れているのです」

 そう言葉を貰ったその日から、神童拓人は無意識に山菜茜を意識して日々を過ごすようになってしまった。これだから女子はずるいのだと、自分を正当化するように茜を心中で責め立ててみても、彼女を追う視線を止める術など見つけられずに拓人はゆらゆらと揺れる朧気な視線の照準を茜に合わせている。
 憧れと好意は違う物。微妙なラインではあるが拓人はしっかりとその二つの感情を区切って認識していた。だから茜が自分に憧れていると言った以上、彼女は自分を恋愛対象としてではなく憧憬だとか自分の手の届かない領域の何かだと認識しているのだと拓人は思いこんでいる。それなのに、こうして日々彼女を視線で追いかける自分を自覚してしまうと、まるで自分の方が彼女をそういった、好意の対象として認識しているように思えて一人羞恥心に悶えている。兎角、神童拓人は真面目かつ純情な人間であった。

「私、クラシックってあまり好きではありません」

 たまたま廊下を歩いている途中、拓人の耳に飛び込んできた言葉。思わず声のした方向に首を向ければ、そこには教室の入り口で友達と談笑している茜の姿があった。会話に夢中になっている茜は、拓人が自分を見ていることに気付いていない。それでも、毎日のように拓人を映そうとしているカメラだけはしっかりと両手で抱えられていて、そんなことに何故か拓人は安堵を覚えそのまま自分の教室へと戻った。
 拓人はクラシックが好きだった。それは個人の趣味でしかないから、他人に薦めたりしたことはなかった。だが、廊下で聞いた茜の言葉はぐるぐると拓人の脳内を回り続けた。思わず吐いた溜息に、自分ががっかりしていることに気付いて、そんな軟弱な自分にやっぱりがっかりした。
 拓人は茜についてあまりに知らな過ぎる。好き嫌いは勿論、名前以外の何もかもを知らなかった。知りたいと思う理由すらない。それが、いつのまにか百八十度入れ替わった世界に放り出された。自分に憧れていると言ってくれた彼女の好きなもの。自分の好きな物を好きではないと言った彼女の嫌いなもの。得意なこと、苦手なこと。どんな時に笑って、どんな時に泣くのか。彼女と親しく関わらなければ知ることのないようなことを、気付けば拓人は知りたいと思っている。しかしいくら思考しようともそれが実行に移されることはなかった。兎角、神童拓人は慎重かつ臆病な人間であった。

「私、このカメラがとても大切なんです」

 そう茜が呟いたから、拓人は無言で彼女にそれは大事そうに抱えられたカメラを眺めた。クラシックを好きでないと話していた時と同じように、彼女はカメラを抱えていた。にっこりと微笑みながら、茜はカメラを構える。レンズには、きっと自分が映っているのだろう。そんなことを考えている内に、彼女は素早く二度シャッターを切った。突然のフラッシュの光に思わず目を瞑る。写真の自分はきっときつく目を閉じているだろうと、拓人は思う。茜は、がっかりしただろうかと目を開けて彼女の様子を窺う。ふと、視線がかち合う。すると茜はやっぱり微笑んでいて、目を閉じているシン様を撮ったのは今日が初めてかもしれませんとどこかご満悦な様子だった。だから、拓人はそんなものかと毒気を抜かれた面持ちで、だけどどこかほっとした気持ちで胸を撫で下ろした。
 茜が、自分にとってこのカメラは大切だと教えてくれたから、拓人は自分の大切なものについて考えてみる。まずは、サッカー。そしてサッカー部と仲間のみんな。あとは家族と付き合いの深い何人かの友達。こうして挙げてみると案外多いものだと、自分で自分に感心してしまう。たった一つを大切だと取り上げた茜もきっと本当はもっと沢山大切なものがあるのだろうと想像してみる。その中に、果たして、あの日自分に憧れているといった、その気持ちも含まれているのか。含まれていたら、嬉しいと思う。そんなことを考えるくらい、拓人は既に茜のことが大切になっていたのかもしれない。大半が無自覚で、ほんの少しの自覚しか伴わない感情は、ひどく曖昧でふらふらとその場その場で行ったり来たりを繰り返して、拓人自身を振り回す。
 何とはなしに、拓人は茜が胸の前に抱えているカメラに手を伸ばした。当然、取り上げるつもりなどなく、触りたいという強い意思があった訳では無く、本当になんとなく手を伸ばしただけだった。だが、茜はあっさりと拓人の前からカメラを自身の後ろに隠した。そして言うのだ。駄目ですよ、と。拓人は少しの動揺と、どこか冷静な思考で以てそうかと力なく答えて伸ばした腕をだらりと下ろした。それを見届けて、茜はもう一度カメラを自身の前に取り出した。
 茜曰く、他人の大切なものに、そう易々と触れようとしてはいけないのだという。例えば、茜が、拓人の大切なサッカーに関われども同じ舞台に立つことが叶わないように。拓人は、茜のカメラに映ることは出来ても触れることは出来ないらしい。理に適っているような、実際ただの屁理屈のような言葉に、拓人は頷いて、自分の行動の軽率さを彼女に詫びた。茜はやはり、微笑んでそれを許した。兎角、神童拓人は単純で礼順な人間であった。

「俺は、君が好きなのかもしれない」

 茜から、「憧れ」という言葉を貰ったその日から、拓人はずっと考えてきた。目と耳と思考を以て茜を探して知って理解しようとしてきた。無意識がいつの間にか過剰な意識に変わって、それでも止まることなど出来ないまま拓人は茜を求め続けた。少しずつ、少しずつと集めた彼女の日常の欠片は、自分とそう大差ない平凡な、珍しくもないものばかりだ。それでも落胆することもなく拓人はその欠片を抱えたままこれからも茜に向き合っていくつもりである。興味では、縛りきれなくなった感情の行方を、拓人は「憧れ」よりも「好意」に分類した。それを、間違っているとは思わない。
 一方、神童拓人を振り回し始めたきっかけの一言を放った張本人である山菜茜はぽかんと口を開けて、まじまじと拓人の顔を見詰めていた。動揺や疑いではなく、意外という感情が一番大きかった。それでも頭よりも心が彼の言葉を理解した瞬間、彼女の胸は温かく緩やかに満たされた。だから、やっぱりいつもの様に微笑みながら、告げるのだ。

「私も、貴方に惹かれているのです」

 兎角、神童拓人と山菜茜は、随分青臭い恋をしている、そんな人間であった。


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その心を受けとめるためだけに駆けていくということ
Title by『ダボスへ』






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