※半田が教育実習生
※豪夏←半田←夕香

 ――よく声を掛けられる日だと、半田は思った。教育実習で受け持ったクラスから職員室へ戻る道すがら、やたらと声を掛けられてはみな一様に半田に質素にラッピングされた袋を手渡して去っていく。ズボン、上着のポケットを使っても収まりきらなかったそれらを、仕方なしに半田は授業で使った教科書を脇に挟むことで両手にも抱えながら歩いている。
 調理実習があったのだと、一番最初に半田の元へやってきた生徒が教えてくれた。作ったものはクッキーで、女子は決められた分量よりも少し多めに材料を持ち寄って、みんなで分け合う為に大量に調理したのだという。運動部の男子等のように、昼食までの腹ごなしに自分の腹に収めてしまうなんて、あまりにつまらないでしょうと笑ってみせるその生徒に、半田は曖昧な苦笑で以てしか答えなかった。現実的な男子の空腹と、女子の道楽の比重はどうあっても是非には問えないような、そんな気がしたからだ。礼を言って、一つ目を受け取ってしまってからは、もうあっという間に色んな女子生徒に包みを押し付けられた。中には、焦がして失敗した物を面白半分で持ってくる男子生徒も混じっていて、やはり半田は断ることも出来ずに受け取ってしまった。
 教育実習生というものは、いつの時代も男女問わずモテるものだと、今更実感する。パターン化した退屈な日常の中に短い期間現れるイレギュラー。他の教師達と比べて年齢も近くそう生活態度や成績を口五月蠅く注意もしない。まして元来のとっつきやすさと親しみやすさを持つ半田だから、尚の事。
 漸く職員室にある、自分に与えられた机の上に全部の荷を下ろす。通りかかった女性教師に、人気者ねえとからかわれれば、半田はまた曖昧に言葉を濁した。都合よく利用されているんですよとは、教師を目指して実習をしている身分である半田がいうには、あまりに軽率な言葉だから、噤んだ。生徒達の、単に教師達の目を憚らずにお菓子の贈与を行えることを楽しみたいという欲求の捌け口にされただけだとは思えど、そういったものに付き合うのももしかしたら教師の役目なのかもしれないと自分を納得させる。


 思えば、生徒達と同じ中学生だった頃の自分と言えば、調理実習で女子が何かを作ったとしてもそれを貰えるような人間では無かった。貰ったとしても誰かのおこぼれというか、いるならあげるよという何とも中途半端な感じでしかなかったことを覚えている。だから勿論、好きな女の子の作ったクッキーを貰えるなんて、そんな恋愛漫画のようなイベントも起こりようがなかった。寧ろ、そういったイベントを舞台袖から眺めているような、傍観者でしかありえなかったのだと思い起して、半田は何とも言えない苦い気持ちになる。目の前に積み重なったクッキーの甘い香りが周囲に充満しているのに、半田の口の中には男子が面白半分に押し付けた焦げたクッキーの味が既に広がっているような、そんな感覚。
 雷門夏未という少女を、半田はいつだって鮮明に思い出しては一人時間を止めて過去を振り返る。どこぞの外国の方が仰るには、男というものは初恋を大事にする生き物らしい。それが事実ならば、半田にとって夏未を想ったこの恋が初恋だったのかもしれない。どこにでもいるような一般的な感性を持っていた半田は、きっと夏未に出会う前にも多くの女子に惹かれてきたのだろうけれど、どれもこれも既に記憶に上らない些細な出来事でしかない。きっと、恋と呼ぶには至らない憧ればかりを繰り返してきたのだろう。そんな半田の最初の恋愛対象であった雷門夏未は時折半田に対して微笑んだり、叱咤激励したり、怒ったり、普通の女の子となんら変わらない姿を見せてきた。そしてどこにでもいる女の子同様に、彼女は恋をしていた。相手は半田ではなく、豪炎寺修也という、サッカー部のエースストライカーで、寡黙で優しい、見目も成績も、平凡な半田とは比べる者などいないだろうというくらい、子供だった半田には完璧に映った、そんな彼に、夏未は恋をしていた。
 初恋だったからかもしれない。諦めようとは思わなかった。だけど、伝えようとも、決して思わなかった。たぶん、僻む余地すらないほど、半田はあっさりと豪炎寺と夏未が並び歩く姿をお似合いだと感じた。そして、入り込む余地もまたなく、それなりのドラマはあったのだろうが、その一切に半田は関わることなく二人は結ばれていた。だから、いつまでも。今だって半田は燃え尽き損ねた恋の残骸を抱えてはもう遠い少女に想いを馳せている。

「半田先生!」

 職員室中に響くような、子供らしい声に、半田の意識が引き戻された。机に向けていた視線を、声の方に向ければそこには予想と違わず、一人の少女が立っていた。初めて会った時から変わらない、少し高い位置から結われたおさげが微かに揺れる。走って来たのだろうか、息がまだ整っていなかった。

「…廊下は、走らないように。豪炎寺さん」
「二人の時は昔みたいに“夕香ちゃん”でいいのに」
「ここは職員室だからね」

 豪炎寺夕香は、こうして半田の元を訪れては稀に結論の見え透いた我儘と問答をする。憎くもなく、素知らぬ顔で半田の初恋の少女を手に入れた恋敵の妹は、不思議なほど自分に懐いている。邪険に扱う理由がないからと、半田はいつだって夕香を可愛がってきた。可愛がってきたというのはあくまで周囲の評であって、半田自身は可愛がったといよりも無邪気な夕香に流され続けてきたというだけのことである。こうして教育実習先で久しぶりの再会を果たしても、彼女は相変わらず、どころか以前以上に半田への接触に対して積極的だった。
 職員室までやってくるくらいだから、個人的な用件ではないのだろうと思ったのだが、彼女が持っている包みに目が止まると思わず溜息を吐きたくなる。夕香が抱えているのは、つい数分前に大量に押し付けられたクッキーと同じである。

「ちょっと焦げたんですけど、あげます!」
「…焦げてるの?」
「ちょっとだけ、本当にちょっとですから!」
「ん、ありがとう」

 手を出して、受け取る意を示せば頬を赤くして焦っていた夕香に、途端に喜色が滲む。そんなに嬉しいものだろうかと、半田は内心訝しいのだけれど、何も言わずに彼女からクッキーを受け取った。半透明な袋から覗く中身は、確かに少し焦げ付いているようだった。
 そういえば、夏未も料理が苦手だったのだと思いだす。調理実習の度に憂鬱そうな顔をして、不安げにエプロンの裾を握りしめていた。それでも逃げだしたり手を抜いたりなんてことはしない彼女だったから、見た目も、恐らく味もよろしくないであろう出来あがった料理の皿を手に立ち尽くしていた。だけど、豪炎寺は彼女の作った料理を、いつも通り眉ひとつ動かさずに完食して彼女の努力を誉めていた。嘘は吐かない。出来ないならこれから練習すれば良い。そう、夏未を励ます豪炎寺を遠目に眺めながら、半田はモテる男はこういうところが違うのだと一人頷いていた。こんなんだったから、半田は中学三年間で、部活動のおにぎり以外、夏未の手料理を食べたことはない。

「…半田さん?」
「夕香ちゃんさ、おにぎり得意?」
「はい?おにぎりですか?」
「クッキーは焦げてても全然いいからさ、おにぎり、上手に作れるようになってよ」
「はあ…」

 得心しない夕香は首を傾げるしか出来ない。だが、半田が思う以上に敏い彼女は何となく悟っている。どうせまた過去を懐かしんでいるのだろうと。大人になるにつれ過去は増える。だが、二十歳を少し過ぎたばかりの青年が、誰も彼もこうして頻繁に昔を懐かしむものだろうか。埋めようのない年齢の差を持つ夕香には、どうにもぴんとこない。今、一緒に暮らしている兄と、その恋人である夏未には、そんな様子は見られないから、尚更。
 半田が中学時代、夏未を想っていたように、夕香は今、半田を想っている。それは彼が教育実習生としてこの学校に現れるよりもずっと前に始まった恋だった。自分が近付けば、実習生という立場を楯にして距離を取ろうとする半田を、夕香はいつだってずるいと思い、愛しく思う。想われることに慣れない半田は、伝えられた好意に返す言葉を知らない。中途半端に、曖昧に、焦らせば霧散するような淡い気持ちだと見くびれば、夕香は容赦なく半田への間合いを詰める。子供だと侮れば、彼女は寂しそうに微笑むから半田は自分の対応が如何に幼稚だったかを思い知らされる。結果、背を向けて逃げ回るしか、今の半田には出来ない。

「おにぎり上手に作れるようになったら…」
「うん?」
「半田さんは、出て来てくれますか」
「――…、」
「昔じゃなくて、今、私の気持ちと向き合ってくれますか」

 夕香はちゃんと知っている。半田が未だに誰への恋心に未練を垂れ流して引き摺っているのかを。それを、当人へは未来永劫伝える気などありはしないことも。にも拘わらず、彼はその気持ちを自覚し、抱え夕香の恋心と真正面から向き合うことを避けている。それを、夕香は責めようとは思わない。でも、気持ちには、何らかの言葉や態度を返すべきだと思う。捨てろとは言わない。ならば、自分が半田へ差し出した気持ちを叩き落とさなければならないと思う。勿論、そうなりたい訳ではない。拒まれたからといって簡単に諦めるつもりも毛頭ない。

「…そろそろ、次の授業始まるから戻りな」
「ずるいですね、半田さん」
「うん、ごめん。クッキーありがとう。ちゃんと食べるから」
「当然です!」

 狡獪なものだと、自嘲する。のらりくらりとありきたりな成長を遂げてきたつもりだったが、思いの外自分の都合の良いように場を誘導する術もしっかり身に付けてきたらしかった。開き直り同然の半田の態度に、漸く夕香は年相応の子供らしい態度で応じた。クッキー一つでここまで場が緊迫するなど、二人とも予想だにしていなかった。
 夕香は、自分がまだ幼いことを自覚している。それは、身に纏う制服だったり、月々の小遣いだったり、兄からの自分への態度だったり、様々な場面で現実を痛感している。だから、焦らないと決めたのだ。どうあがいても埋まらないのなら、埋めようとなどしない。未熟な料理の腕だって、気長に上達させて行くつもりである。
 こんな夕香の決意を半田は当然知らない。彼女の内側の葛藤など気にも留めず、彼はふとしたきっかけでいつだって昔を懐かしんでいる。じりじりと、ちゃくじつに夕香が自分に迫っていることに、彼は気付かない。意識しないと、もう彼女を豪炎寺さんとは呼べなくなっていることにも、夕香が半田を先生と呼ばないことにも耳が自然と慣れ過ぎて注意を忘却していることにも、気付かない。気付いた時には、きっともう遅くて、逃げられないだろうに、半田は昔から変わらずぼんやりと歩いている。

「おにぎり、上手に作ってみせますからね!」
「はは…、そんな真面目に受け取らなくてよかったのに…」
「夏未お姉ちゃんには負けないんだから!」
「ぶっ…!!」

 職員室でなんてことを、という半田の抗議が始まる前に、彼女は職員室を駆け足で出て行った。取り残された半田は暫く立ち尽くして夕香が出て行った入口を見つめ呆気にとられていた。が、直ぐに次も授業だと気付き慌てて準備を始める。手に取った教科書が、机に置いたクッキーにあたって音を立てる。一番手前の、夕香がくれた、少しだけ焦げ付いた、クッキー。半田は、それだけを引き出しにしまうとそのまま職員室を出た。
 恐らく、夕香は明日にでもおにぎりを作って半田の元へ持ってくるだろう。調理実習もないのに、彼女だけが自分におにぎりを差し出してくるのだ。そんな姿が容易に想像できて、半田は自分の発言への後悔を込めて俯いた。だが少しだけ楽しみな部分もあって、だからにやけない様に唇を引き結ぶ。きっと彼女の作るおにぎりは、半田が中学時代に味わった初恋の少女の作る味とは違うのだろう。そんな当たり前のことを思って、半田の胸は少しだけ痛んだ。


―――――――――――

彼はそれきり影を歩く
Title by『ダボスへ』





「#オリジナル」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -