双眼鏡を携えながら、春奈は今日も元気にマネージャー業に精を出していた。ドリンクもタオルも用意済み。救急箱は秋の膝の上。おにぎりはまだご飯が炊けていないけれど、それは夏未が見ていてくれているから慌てる必要もない。いつ振り返っても完璧な仕事ぶりだと、春奈は内心ふふんとほくそ笑む。誰に向けて得意げになっている訳でもないけれど、滞りなく仕事を運べるといつだって嬉しい。
 こうなれば、今行われているミニゲームを眺めることに没頭しても問題あるまい。そう思い、春奈は首にぶら下げていた双眼鏡を手に取りピッチ内に焦点を合わせる。そう遠くない距離の選手達を眺めるのには聊か大袈裟なそれは、春奈の隣に座っていた秋にも奇妙に映る光景だった。隣からの熱い視線を感じて双眼鏡を構えたまま秋の方に体ごと向きを変える。近過ぎる秋の姿はヘアピンと彼女の左目しか映っていない。それだけでも、春奈は秋を可愛いなあと、年上の先輩に失礼かもしれないけれど思った。

「…音無さん?それ、どうしたの?」
「お気になさらず!これの方が皆さんの活躍がよく見えるんですよ!」
「うん、それはそうだと思うけど」
「あ!お兄ちゃんがボール持った!」

 ぐりんと効果音が付きそうなほど勢いよくグラウンドへ体を向き直す。ボールを持った鬼道がゴールに向かって進んでいく。その動きを目で追いながら、彼がパスを出す。そしてそれが通った瞬間、春奈は双眼鏡を握っていた手に無意識に力を込めていた。

「わわ、豪炎寺先輩シュート!」
「ふふ、音無さん、豪炎寺君をしっかり見たかったのね」
「…!ええっと、違いますよ!皆さんのこともしっかり見たかったんですよ!」
「みんなも?」
「うう…意地悪しないでください」
「ごめんごめん」

 時折、秋はこうして春奈をからかった。それは誘導尋問の様な、会話の掛け合いでしかないのだけれど、春奈はどうしても秋に勝てない。たった一つの年の差は、秋と春奈の間に確かにあって、春奈に秋をひどく大人っぽく映してみせるのだ。そういえば、自分の想い人もこの優しくて時々意地悪な先輩と同じように自分よりも大人だったと思いだす。豪炎寺は、秋とは違った意味で優しかった。
秋の優しさは、お母さんの様で、だけど春奈を子ども扱いしたりはしていない。けれど、豪炎寺の優しさは春奈を子ども扱いしてまるで妹の様に接する時があるから、春奈はつまらなくなる。私、女の子なんですけどと至極当然な言いがかりをしたことも、何回かある。その度に豪炎寺は春奈の頭を撫でながら柔らかく微笑む。やっぱり納得いかなくて文句を続けようと思うのだけれど、豪炎寺の笑顔が優しすぎるから、春奈の胸はいっぱいで結局何一つ言えなくなってしまう。だから、今日まで豪炎寺の春奈に対する態度は改善されていない。今更ながらに追記しておくと、豪炎寺と春奈は両想いで、数か月前から晴れてカップルとなった親密な間柄である。

 部活動が終われば、春奈にとって恋のメインイベントともいえる、豪炎寺と一緒に帰るという山場が待っている。山場という割にはこれまで特に劇的なことなど起きていない。本当に一緒に帰るだけである。手を繋いだことはある。だけど初めて手を繋いだのは帰り道では無くて学校の廊下だった。そんな目立つ所でのことだったので、二人の関係はあっという間に周囲に広がって兄には勿論、円堂にもバレた。鬼道は豪炎寺なら安心だと一人しみじみと頷いていた。円堂は、両想いかあと何やら感心しているようでもあり、両想いが何だかよく分かっていないようでもあった。
 とにかく、周囲の人々は豪炎寺と春奈の関係の変化を揃いも揃って祝福してくれた。温かく受け入れてくれた。だけど当の豪炎寺は今でも春奈をしょっちゅう子供扱いする。だから春奈はその扱いから抜け出したくて必死に背伸びをするのだけれど、いつもバランスを崩して倒れてまた豪炎寺に子供扱いをされるというスタート地点へと戻ってしまう。普段からお兄ちゃんである人間が、ここまで厄介だとは、全くの想定外であった。
 部室から豪炎寺が出てくるのを外で待っていた春奈は、豪炎寺が出て来たのを見つけると駆け寄る。方角的には、豪炎寺に駆け寄らずとも彼が春奈の方向に向かって歩いてはくるのだが、そこは、数歩の距離であっても一緒の時間を惜しむ春奈の乙女心だ。

「今日のシュートも凄かったです!」
「ありがとう」
「最近調子良いですね!」
「ああ。ところで、その双眼鏡はどうしたんだ?」
「豪炎寺先輩がよく見えるように持って来たんです!」

 両手で双眼鏡を掲げて見せる。これで毎日豪炎寺先輩の活躍がばっちりチェックできますよ!と勇む春奈を隣りに、豪炎寺は微笑む。その瞬間、また子供扱いされてしまったかと春奈の気持ちが少し萎む。後輩という差を埋めたくて、でもどうあがいても一年という差は変えられない。それを理由に豪炎寺が自分を子ども扱いしているというのなら、自分はいったいどうすればいいのだろう。この人と、お似合いだと言われるにはどう振る舞えば、どんな仕草でどんな言葉で彼に寄り添えばいいのだろう。どんなに思考を巡らせても、いつだって答えは出てこない。自分なりに捻り出した答えはいつも不正解なのだと、春奈はもう知ってしまった。

「音無」
「……はい?」

 無意識に下げていた目線が、豪炎寺の呼び声で引き戻される。顔を上げた瞬間、目の前には豪炎寺の顔が今までで一番近い距離にまで迫っていて、思わずのけぞる。しかし、いつのまにか春奈の両肩には豪炎寺の手が置かれていて後ろには下がれなかった。

「豪炎寺先輩!?」
「双眼鏡なんてなくても、音無は一番近くで俺を見られるぞ」
「…え?」
「……でも最初はやっぱり目は閉じていてくれ」
「はい、」

 この距離と、豪炎寺の言葉で全てが分かる。少し照れながら、春奈は目を閉じた。どうやら自分は、子供扱いされる以上に女の子として扱われていたらしい。きっとこれは豪炎寺が春奈にだけ与える特別。お互いの息が掛かる程近く。首に掛けたままの双眼鏡が、揺れた。



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わたしきっとしあわせ
Title by『にやり』




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