雨宮太陽が山菜茜を連れ出すのは、決まって茜のトレードマークとも呼べるピンクのカメラを持つ手がだらりと下がってしまっているのを見つけたときであった。
 初めの内は太陽に連れ出されることに驚いて目を瞬かせていた茜も――どさくさに紛れて、彼はよく手を繋いだまま茜を連れ回した――やがて慣れ始めて、彼が行こうと手を差し伸べるときには「ちょっと待って」と制止を促して、喉が渇いたりお腹が空いたりしたときの為にと小さなバスケットを取りに戻ってから並んで歩き出すようになっていた。
 もうきっかけは忘れてしまったけれど、太陽はいつからか茜の元気がない姿を見て黙っていることが出来なくなっていた。雷門でサッカーをするようになって、サッカーを取り戻すという目的にはいつだって真剣に向き合っているつもりだった。その裏側で、太陽は彼個人がサッカーを取り戻していたことに喜びを覚えていて、最高のライバルで最高の試合をした雷門で一緒にサッカーが出来ることは間違いなくプラスの感情を彼に与えていた。だからきっと、あからさまに浮き上がって目に飛び込んできてしまったのだろう。太陽が楽しくサッカーをしている傍らで、時折全身の力が抜けてしまったように呆然と立ち竦んでいる茜の姿が。雷門でサッカーすることが楽しいのに、どうして雷門から茜を連れ出そうと思ったのか、太陽には未だにわからない。直感で済ませておくのが余計なことを考えない一番気楽な選択肢だろう。
 太陽は今日も茜を連れて、稲妻町のシンボル的な存在である鉄塔広場でリフティングをしている。茜はそれを隅に植えられた木々の下で涼みながら眺めていた。元々雷門へは天馬たちから練習は休みだけれど自主練はしているだろうから暇だったら一緒にサッカーをしようという誘いを受けて、わかったと行くとも行かないともどっちつかずの返事をしていた。そうして結局サッカーをする気満々でやってきた雷門中のサッカー棟でカメラを身体の前、腕を下げたまま落としてしまうのではというくらい力なく立ち竦んでいた茜を真っ先に見つけて反射的に連れ出してきてしまった。たぶん、その場に居合わせた他の部員たち――太陽からは誰の顔も確認することができなかった――には見られていないはずだ。彼女の膝の上のバスケットにはサンドイッチと――中身が傷むのが心配だからと、茜は太陽が何度呼びかけてもやんわりと日向に出ていくことを断り続けている――お茶の入ったピンクの魔法瓶だった。部活中に使っているドリンクボトルでも持ち出せばよかったのにと太陽が言うと、茜は至極真面目な顔で部の備品を勝手に持ち出すことの悪よりもその見た目が可愛くなくてバスケットに似合わないからダメだと言いきった。
 頭、膝、足――とボールをコントロールしながら、太陽は何度も茜へ視線を送る。にこにこと微笑みながら太陽の方を見つめている茜がふと遠くを見つめる瞬間を、じっと凝視しているわけでもないのに見逃すことが出来ない目敏さに凹む。茜の内側にある、彼女の表情を曇らせる何かを太陽はまだ引き出せてはいなくて、だからせめてと身体だけでも明るい場所に引っ張り出そうと思った。何も知らないくせにと言われてしまえば本当にその通りで、けれど茜は今まで何も言わずに太陽に全てを任せていた。彼が導く方へ彷徨う方へとただただついてくる。それは勿論自分が彼女の手を引いているからだとわかっているけれど、邪険に思われているわけでもないのだと太陽は信じていたかった。

「太陽くん」

 呼ばれた声は、やけにはっきりと耳に響いた。茜の方を向けば、彼女は続けて何か言っているのだが、それは距離とタイミング悪く吹き抜けた風の所為で聞き取れなかった。
 太陽は足の内側側面で蹴り上げたボールを手でキャッチして、茜の元へと向かう。彼女は太陽が向かってくるのを理解してから、数度自分の隣を叩いてそこに座るよう促した。逆らう理由もなかったので、太陽は大人しく茜の隣へ腰を下ろす。勢い任せとはいえ二人きりで行動し何度も手を繋いでもいるのに、静かな空間で近くに座ると緊張してしまうのは妙な話だろうか。茜は涼しげな表情で、バスケットからサンドイッチを取り出している。

「――はい」
「ありがとうございます」

 差し出されたサンドイッチに、お礼とほぼ同時に噛みついた。いつもよりずっと軽い運動だけれど、身体を動かした後に食べる食事はいつも美味しい。ハムとレタスとチーズのシンプルな具材とパンを黙々と口に押し込んで、それから暫く黙々と咀嚼に集中する。
 茜は隣でお茶を飲んでいる。

「……私、何してるんだろ」

 思わず零れた言葉なのだろう、茜は自分が何と言ったかも頓着せずにぼんやりと空を見上げている。木々の緑に覆われている視界からは、きっと半分くらいしか青空は覗いていないだろうが。
 太陽は、茜が呆然と内省に耽っていることなど気付かないフリをして、口の中身を嚥下して、指先についていたパン屑を払ってから立ち上がる。そして茜の前に立つと屈んで顔を覗き込んだ。

「太陽くん?」
「サッカーしましょうよ」
「……どうして?」
「折角逃げ出して来たんですから、楽しいことしないと!」
「私、何してるんだろ」
「何だっていいじゃないですか。そんな真面目に考え込まなくても」
「――太陽くんは私を連れ出して何をしてるの?」
「サッカーです」

 茜の言葉が太陽の前ではどれも抽象的に聞こえる。彼女が大切なカメラを構える気力すら失ってしまうほど立ち竦む視線の先にいる相手を、太陽はとっくに知っていた。けれどその相手の名前を茜は太陽の前では一度たりとも出さなかったし太陽もそれに倣った。だからとことん何も知らないフリをする。フリは得意だ。意に副わぬ入院生活が長かったからか、我慢のしどころは多少心得ているつもりだった。しかし物事には我慢が必要なように、踏み出すところではしっかり踏み出さなければいけないこともまた百も承知である。

「サッカー、一人で?」
「茜さんと二人でですよ」
「私何もしてないよ」
「茜さんが見ててくれたら、流石に百人力とは言えませんけど、二人分くらいの力は発揮できますよ、僕」
「……気障だね」

 ――だからいいじゃないですか。ここにいない人のことなんて考えなくても。
 流石に踏み込みすぎると怒られるかなと境界線を見極めて、太陽はにっこりと笑みを作る。
 今までずっと手を掴んで引っ張るように連れ出してきた。呼吸も忘れてしまうくらい全てを見失ってしまう茜を逃がしてあげたくて。しかし初めて、太陽は茜に手を差し出した。意思でもって、選んでくれれば嬉しいと。片腕でサッカーボールを抱えて、もう片方の手を差し出す姿は気さくに「サッカーやろうよ」と誘いをかけているようにも見える。そんな太陽を見上げてくる茜の瞳は、言葉で説明するならば呆然としているのだろう。ただいつも太陽が危機感を持って捕まえてしまうような危うさはなく、純粋に驚いている顔だった。太陽からすれば、どうして驚くことがあるのだろうと逆に驚いてしまうのだけれど。
 始まりは衝動だったとして。特別な親しい関係が元地にない女の子を善意だけで救いつづける男の子なんてそうそういるものではないのだ。太陽は王子様じゃない。王子様だってきっと下心くらい持っているだろう。

「ねえ太陽くん」
「はい」
「私もう、随分前から太陽くんに期待するようになっちゃってたんだよ」
「え」

 今度は、太陽が驚きで目を見張る番だった。差し出した手を下ろしてしまわないようぎりぎりで踏みとどまりながら、太陽の耳には三度目の「私、何してるんだろう」という茜の躊躇いの声が届いていた。
 茜が太陽に出会う前から抱えていた憧れと恋の混じった想いは、彼と出会う直前にほんの少し苦くなってしまった。消えてしまったわけでも、捨ててしまいたいと願ったわけでもない。ただ茜の瞳には真っ白にしか映らなくなってしまった。退けばいいのか、進めばいいのかもわからなくて、そんな時に眩しい太陽が茜の視界を覆ったのだ。優しくされて、絆されて、勘違いしているだけかもしれないのに。何度も掬い上げて引っ張り出してくれるその手がどうしようもあく嬉しかったと、バスケットとその中身が表す期待の大きさを彼は知らないままいつだって輝いて見えた。

「手、繋いでもいいの?」
「そんなの、ずっと前からですよ」
「そっか、知らなかった」

 うっすらと眦に涙を浮かべて茜が握った手を引っ張ると、彼女は太陽がそうすることをわかっていたかのようにすんなりと腰を上げて立ち上がった。ずっと膝の上に乗せていたバスケットが転がり落ちるのも気にせずに、今までで一番の至近距離で見つめ合う。拍子に、太陽の腕からも落ちてしまったサッカーボールが茜の足にぶつかって止まる。

「何だか恥ずかしいね」

 こんな瞳の色なんだと思わず見入ってしまうような瞬きを繰り返して、先に音を上げたのは茜だった。はにかんで、太陽との距離を一歩半開く。それでも繋いだままの手が、もう何処へも離れて行かない二人の関係を示している。
 照れ隠しに茜が蹴り上げたサッカーボールは、思ったよりも大きな弧を描いて飛んで行った。



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一人になんかしない
Title by『にやり』



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