用心深くあろうと、葵は決めた。決めたのは今だけれど、思い立ったのはきっともう随分前のことだった。
 葵には幼馴染がいる。彼の名前は天馬といって、爛漫な性格から人懐っこい印象を受ける割には、特別仲の良い誰かと遊んでいるところを、葵は見たことがない。出会ったのは、実は世間一般が幼馴染にイメージする付き合いの長さに比べれば最近の方なのだろう。自宅はそれほど近くない。いつも同じ公園で、ひとりサッカーのドリブルの練習をしていた。葵と一緒にその光景を眺めていた友だちは、たしか「あんまり上手くないね」と失礼な感想を零していた気がする。上手くないから練習するのではないかと思ったけれど、葵は黙っていた。葵の関心は、その友だちよりも天馬の足もとでたどたどしく操られているボールと、何度も倒れる空き缶の音に移っていた。その場を立ち去ってからも、缶が倒れる音とそれと同時に上手くいかなかったことへの天馬が発する「わっ」だとか「ああ!」という声が、葵の耳には残っていた。
 放課後、葵は被服室にいる。家庭科で、エプロンを作る課題があったのだけれど時間内に終わらなかった。葵の作業の手が特別遅かったわけではなく、元から少ない家庭科の授業数では時間内に完成させられる生徒はほぼいない。だから、この課題は既に月末、最後の授業までに提出するようにと教師によって見切りが付けられている。来週からは、裁縫ではなく調理実習を控えた栄養バランスについての章に教科書は進むことになっている。部活がないので、手が感覚を覚えているその日の内にと、葵は道具を持って被服室にやってきた。ぽつりぽつり、葵を含めて5人の生徒がばらばらに同じ課題に取り組んでいた。その中の誰とも、葵は面識がなかった。
 用心深くあろうと、葵は繰り返し自分に言い聞かせる。縫い針を指に差さないように、待ち針を失くしてしまわないように。じっと手元に視線を落として、余計なことは考えないように努める。自分は裁縫に向いてないのかもしれない。思うように進まない作業に、葵は溜息を吐いた。鼻歌も歌えないこの教室は息苦しい、そう思った。
 幼馴染である天馬宛ての手紙を預かったのは、もう一週間も前のことだ。相手は同性の葵の目から見ても随分可愛らしい子だった。手紙を預かって、葵はそれをその日の内に天馬に渡した。受け取った天馬は、その意味をよくわかっていないようだったので兎に角それは家に帰ってから一人で読むように葵は言い含めて置いた。その時、葵は用心深くあらねばならないと、密かに予感した。
 天馬を、そういう目で見る存在が葵の前に現れた以上は。漫然とした不吉を、葵は凝視している。

「――葵! 課題、俺もここでやる!」
「……いいけど天馬、静かにね?」
「えー……わかってるけど、図書室じゃないんだからちょっとくらいいいでしょ」
「私はいいよ、でも、睨まれたって知らないよ」
「うう〜!」

 騒がしく飛び込んできた天馬は、葵の直ぐ隣の椅子に座った。一週間前の手紙の件など、もう二人の間では旬を過ぎたかのように話題に上らない。ただ葵が心配しているのは、天馬が受け取った手紙を鞄に仕舞いこんで、しわくちゃのまま底に溜め込んでいやしないかということだけ。
 天馬が裁縫箱を取り出す音に、何人かの生徒が不快そうに顔を上げたので、葵は彼のすねを蹴っ飛ばしてやった。あまりダメージは与えられず、天馬は「何?」と首を傾げるだけだった。
 意外なことに――そう前置くと、天馬は不本意だと言うだろう――、課題の進み具合は天馬の方が上だった。授業中、彼の方が友だちと話しながら脱線して教師に注意されることもあったのに。真面目に取り組んでいた自分がバカみたいだと、葵は悔しくなる。手先は、足でプレイするサッカーが得意な癖に器用な方だった。料理も出来る。危なっかしくて、つい世話を焼いてしまう葵だったけれど、幼いころから夢に向かって親元を離れて東京に暮らしてきた天馬は、必要以上に甘やかされて育っていない。愛情を持ってしっかりと導かれて育てられた分、きちんとこなせることも多い。男の子らしい粗雑さがあって、けれど男の子だから葵の手を引っ張ってぐんぐん前に進んでいく。そんな天馬が幼馴染として近しい存在であることを葵は嬉しく思っている。だからこそ、何も間違えたくないのだ。
 いつか天馬に憚りなく告げられる好きの形が変化したとしても、絶対に、周囲の誰かに流された結果であってはならないのだから。

「――いたっ」

 考え事に意識を持って行かれて、手元が疎かになっていた。勢いよく右手の指先を突き刺してしまった待ち針は曲がってしまって、葵はそれを生地から抜いて、新しいものに差し替えた。
 指先からは、血が溢れている。

「葵、怪我?」
「――うん、うっかり」
「うわあ! 血、保健室行く?」
「これくらい平気だよ。大袈裟すぎ。怪我なんて、天馬だっていつもしてるじゃない」
「で、でもそれは葵の怪我でしょ?」
「舐めとけばその内血も止まるよ」

 葵の方が驚いてしまうくらい、天馬が彼女の指先に溜まっては溢れる血に顔を青褪めさせるものだから、変なのと笑った。痛んだのも最初の激痛だけで、あとは何も感じない。
 課題に血痕をつけてしまわないようにと、生地を膝に乗せて手は机の上に避難させる。左手で、スカートのポケットからハンカチを取り出そうとするけれど、座ったままのせいかもたついてしまう。葵が視線を左手に落としているのとすれ違うように、天馬の視線は彼女の右手に吸い寄せられていた。否、吸い寄せられていたのは、視線ではなく。

「――葵、」
「ん? ……ひっ、あ!?」

 素っ頓狂な悲鳴を上げてしまう。天馬は、葵の血に濡れた指先を躊躇いなくその手首を掴んで、彼の口元へと持って行き食んだ。生温かい舌が葵の指の腹を、傷口に押し当てられてぞわりと背筋が粟立つ。
 ちゅっと音を立てて解放された指先が、天馬の唾液の糸を引いていて、それが何だか汚いよりもいやらしくて、葵は怒ることも出来ずに羞恥に震えていた。変な声を出してしまってから、怖くて周囲の視線も確認できない。何より先程から葵の脳裏で、ずっと彼女に手紙を託してきた一週間前の少女の顔がちらついて邪魔だった。

「血、止まった!」

 笑う天馬に、葵は泣いてしまうかと思った。どうしてあなたは、もっと用心深く振舞えないのと叱りつけてやりたかった。こんなことしていたら、妙な勘繰りをされても文句は言えない。自分ばかりが、天馬との幼馴染の関係を大切に思って周囲にとやかく言われたくないと願うくせにその所為で周囲の視線を意識せざるを得ない矛盾に苦しんでいるようで、理不尽だという腹立たしさまで湧き上がってくる。
 ――もう、知らないからね。
 誤解されるようなことをするのは、いつだって天馬の方なのだから。頬を膨らませる葵に、天馬が今度は困ったように「血、止まったよ?」と言い募る。だから葵は――葵も。まるで何でもないことのように「ありがと、」と笑ってみせるのだ。

「ねえ葵――」

 今度はなあに、血の止まった指先を確認しながらぞんざいに尋ね返す。天馬は結局、まだ被服室に来てから一度も針を握っていない。

「俺、この間の手紙断って来たよ」

 何故、今更そんなことを報告するのだろう。

「だってね、葵に頼むんだもの」

 待って。叫び出したくなる。用心深くなってと、咄嗟に天馬の口を塞ごうと伸ばしたては、またあっさりと彼に掴まれてしまった。

「俺の特別な女の子が葵だって知ってて、あんなもの葵に渡すよう頼むんだもの」

 それってすごい性格悪い。そう呟く天馬の言葉は攻撃的なのに、けれど言っている天馬の方が辛くて仕方ないという風に見えて、葵は印象で可愛いと思っていた少女への心象が一気に悪い方へ下がって行くのを感じる。
 先程天馬の口に吸いこまれた指先に、意識が集中してしまう。そこの感覚だけが、今全身の何倍も鋭敏になっている。それを理解しているかのように天馬の視線がその指先に集中して、葵は居た堪れなくなって、逃げ出したい。嗚呼けれど、もっと触れていたい。先程天馬の口腔に唾液と共に嚥下された葵の血液があること、混ざってしまったこと、それがとても愛しい。
 用心深く――それは、どういうことなのだろう?

「葵が好きなんだもの」

 結局、これだけは防ぎようがないのだ。恋に落ちる、その瞬間だけは。

「葵は、俺のこと――」

 誰が見ていたって構わない。明日から噂になるかもしれない。その答えは、唇で教えてあげた。



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単なる恋だった
Title by『告別』



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