――滑り落ちるしかないと思うのよね。
 さくらの言葉に、鉄角はそうだろうかと首を傾げる。滑り落ちるしかない。時間は絶えず前にしか進まないのだから。過去を振り返って、思い出に浸っている間にも、時計の秒針は容赦なく動いている。勿論、アンタがあたしのことを思い出してくれるのはとても嬉しい、嬉しいのだけれど――。そこでさくらは一度言葉を区切った。正確には、区切らざるを得なかった。

「沖縄って、遠くない?」

 上手い言葉が出てこなかったので、さくらは結局鉄角に尋ねることにした。つまり、沖縄は遠いから、遠いからつまり――。纏まらない気持ちがぐるぐると渦巻いていて、あと少しで思いつきそうな、言葉になりそうな、そんな音が二人の周囲に大量に散らばっている。
 鉄角は海が好きだ。漁師である叔父に懐いていたせいもあり、イナズマジャパンの選考会に召集された際も黒岩に提示した条件は漁船を買い直す費用だった。さくらは、海の向こうからやってきた少女だ。海外というよりは近く、けれど日本という島国の中では、彼女が育ってきた沖縄よりも至近距離で直線を結ぶ陸地があることも真実だ。さくらは「本土って遠いし、言葉が通じるだけで色々違うなって思うところ、あるよ」と鉄角の方を見ないで言う。勿論、季節によってその落差は違うかもしれないけれど。暑くもない、寒くもない、東京で生まれ育った鉄角には丁度いい気候の自分を、沖縄で生まれ育ったさくらはどう感じているのだろうか。支給されたイナズマジャパンのジャージを羽織っている姿からは、取りあえず暑がってはいないのだなということくらいしかわからなかった。

「東京から船で沖縄ってどれくらいかかるの?」
「知らねえ」
「頼りにならないわねー」
「知ってたら頼りになるのかよ」
「ならないけど」

 実際の問題は、かかる時間よりも用いる設備の方だろう。客船ならばあっという間で、ヨットといった小舟では想像するだけで危なっかしい。大人しく空港から飛行機に乗って旅立った方が現代では費用も時間も建設的で済むように世の中が回っている。
 空港は余所行きの匂いがして、さくらは新体操の大会に出るときに何度か使用した。あそこは、忙しない。来る人去る人見送る人がごちゃごちゃと混ざり合っていて、両親の付き添いがないときなどにはひどく心細い気持ちになった。それを理由に立ち竦むさくらではなかったが、空港はあまり長居したくない場所だった。発つにも着くにも、ほっと落ち着く場所ではない。
 鉄角は、さくらの横顔をじっと見ている。ヨットハーバーグラウンドの埠頭から眺める海、真っ直ぐと投げた視線の先に何があるのか、さくらの故郷の陸地がある方角なのか、鉄角は正確なところはわからない。繋がれたクルーザーに持ち主が乗り込んでいるところを、鉄角は一度も見たことがない。自分たちの合宿所としてこのお台場エリア全体が一種占有されている状態であるせいかもしれない。見たところ良い船たちなのに勿体ない。鉄角はそう思っているけれど、それは長年海の傍で育ってきた感覚的なものであって、さくらに沈黙を破る会話の種として思ったことをそのまま言葉にしてもどうせ長続きしないだろうから、結局黙ったままでいる。そしてこれは、あまり居心地のいい沈黙とは言えなかった。出来るなら、賑やかに場が華やいでいる方が好きだ。

「――メールしてね」
「おう」
「電話は、あんたうるさそうだからよっぽどのことがない限りはかけないでよ」
「失礼だな。よっぽどのことって具体的にどんなことだよ」
「えー? うーん、高校に合格したら……とか? でも別にどうでもいいか……受かって普通よね……」
「おい!」
「冗談に決まってるじゃない」
「それは――」

 具体例の方か、電話は掛けるなという刺された釘の方か。どちらが冗談なのか鉄角には判然としなかった。さくらは両腕を持ち上げて、大きく伸びをする。身体の柔らかい彼女の背中が弧を描き仰け反って、折れてしまいやしないかと見ている鉄角は怖くなる。
 大きく息を吸って、吐く。「潮だー!」と急にはしゃいだ声を出して、さくらは笑った。そののびやかな、一連の動作に鉄角の頭も、身体も一切の反応を見せることなくただ彼女を見つめ続けていた。今日はずっとこうだ。上手く言葉が思いつかない。ただ傍にいるだけ。それでは、振り回される一方なのに。反撃するよりも前に、鉄角はさくらに倒され続けている。何せしおらしく見せていても基本的にさくらの口数は賢しい部類に入るのだから。

「海なんて――」

 さくらの不用意な言葉の選択に、僅かに鉄角の眉がぴくりと吊り上がる。なんて――というのは、どうにも粗雑に扱われている心象が拭えない。

「珍しくもないものだけど――」

 沖縄県民の発想だろうか。そう考える鉄角は、彼女が通っている中学校が海のど真ん中に建っていることを知らない。

「嫌いじゃないわ」

 それは「何を?」と聞き返すまでもなく眼前に広がる、どこまでも続いていく海面へと向かって放られた言葉だったけれど。

「アンタの好きなもんだしね」

 小さく添えられた最後の言葉に、鉄角は気恥ずかしくて嬉しくて。ついずっとさくらに注いでいた視線を外して顔を背けてしまう。それでも、すっかり赤くなってしまった耳は隠せなかったので、さくらが鉄角の方を見れば直ぐに彼の直情に対面することが出来ただろう。
 それでも二人の間に余計な言葉が交わされなかったのは、もうさくらから告げられる言葉は言い尽くしてしまったから。後は全部、鉄角が言わなければならないことだった。果たして本当に滑り落ちるだけなのだろうか。こうして二人で話している穏やかな時間が、それぞれの生活の場に離れて行った途端、思い出として語れるだけの、時々振り返って心の片隅から取り出すだけの過去になるのだろうか。確かに、過去は過去だけれど、だからこそ未来を選ぶ決定的なものにだって成り得るのではないか。そう勇む鉄角の気持ちを知らないさくらは、どちからといえば嫋やかに終わらせたい、そんな憶病を抱えて立ち尽くしていた。

「なあ野咲、お前さ――」

 意を決して、引き寄せるように掴んださくらの腕は思っていたよりずっと細くて。

「俺んとこ、嫁に来いよ」

 けれど腕力はそれ以上に予想に反して強いんだよなあなどと、数秒後、視界を海の青から空の青へと埋め変えて鉄角は思う。
 この拳は、照れ隠しということでいいのだろうか。

「ムードってもんがあるでしょーがー!?」

 絶叫しながら走り去っていく、さくらの逆さまの背中を地べたに寝転がりながら見送る。たぶん、拒否されたわけではない。そのことに妙な確信を得て、鉄角は拳を突き上げてガッツポーズした。
 どうやら滑り落ちそうな未来を、捕まえることに成功したようだったので。



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気付くのだけを待っていた
Title by『さよならの惑星』



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