そういえば、泣き虫だった。
 神童の瞳からぼろぼろと零れ落ちる涙の粒を見送りながら、茜は彼が泣き虫であることを過去として、思い出の中から掘り返した。それでも一度としてこんな至近距離で見つめたことはなかったと、両肩に置かれた神童の手の大きさと力強さ、熱と感情を諸々に受け止めて、自分が随分とか細くなってしまったように茜は感じる。或いは、神童の方が茜を置き去りにするように逞しくなったのかもしれない。それはいいことだ。神童のサッカーを――遠巻きにその姿を眺めていた頃とは違い――好きだと言えるようになったこと、それは茜の中で微かな誇らしさとなって根付いているから。それさえわかっていれば、神童を見つめることに茜は落胆することも疲労困憊することもない。けれどときめくだろうか。恋をするのだろうか。その疑問には、正直にわからないと首を振る。神童拓人に恋をしたこと、そのとき自分はどんな風に彼と距離を取っていたかよく思い出せない。それが茜には不思議だった。撮り溜めた写真の遠近で割り出そうか。考えたこともあるけれど、決定的な線引きの一枚などそれこそ覚えていないのだから無理な話だと早々に諦めた。諦めるのは簡単だと茜は思う。期待するのをやめればいいだけだ。ただ、初めから期待しないようにしようと心に徹底してきた場所に落ちてきた幸福は、果たして素直に受け取っていいものだろうか。茜が知りたいのは、それだけだった。


 お付き合いをしている。神童との関係を聞かれたら、こう答えればいいのだと茜は水鳥と霧野から教わった。

「神童に好きだと言われたんだろう?」

 聞かれる度に、言われたけどと頷く茜の歯切れの悪さを二人は訝しんでいた。茜も訝しんでいた。神童が、自分を好きだと言ったこと、その現実を。
 神童が好き。それが茜の気持ちで、真実だった。誰に聞かれても否定はしない。だから同じ言葉を突き付け合った神童と茜の関係はお付き合いしているということになるのだと、そういう理屈。

「けど私、付き合いたいとか、思っていたわけじゃないの」

 神童が自分を好きになるなんて、思ってもいなかったのだと茜は何度も説明するのに周囲にはわかってもらえない。謙遜ではなく、初めから何処へ向かうことも期待しない想いだったのだとわかって欲しかった。差し出すこともなく、ただ抱えているだけで満足の恋だったと。
 それでも神童が一緒に帰ろうと誘えば茜は応じたし、手を差し出されれば自分のそれを重ねたし、抱き締められれば彼の背中に自分の手を回した。勿論好きな人とそんなことをするのだから、恥ずかしさと高揚と、うるさいくらいの心音を茜は自覚していて、それはたぶん神童にも伝わっていたと思う。そこまでしても、やはり茜の内側にはこれ以上の期待はしてはいけないという自制ばかりが働いて、折角生まれた幸せを端へと追いやろうとしてしまう。これは一体どうすればいいのだろう。茜にはわからなかった。


 神童が茜と向き合って、その両肩を掴んで「ごめん」と呟いて泣き出したとき。だから茜は、とうとう穴が開いてしまったのだと思った。あとはもうそこから零れていくだけだと。怖くなんかない。
 ――気にしないで、シン様。何も悪くないの。謝らなくていいの。いいの、いいのよ、だって、だって私は――。
 想っているだけなら容易くて、繋がってしまえば渡せるものが少なすぎた。気持ちだけならいくらでも。そうは思いながら、やはり、けれど、そんな言葉を繰り返し全てを躊躇ってきた。拒まれなくても、飽きられてしまえばそれまでだと。
 ――嗚呼、私結局。
 怖かったと、それは音になって神童の耳朶に触れた。弾かれたように、とっくに決壊した涙腺から落ちて行く涙を堪えようと俯きがちだった視線が茜の瞳へと帰ってくる。彼女は微笑んでいる。けれど泣いていて、肩に置かれた神童の左手を、彼女の両手で包むようにして「怖い、怖かった、ごめんなさい」と繰り返す。

「シン様と幸せになるの、怖かった」

 こんな私の所に、貴方がいてくれるのは奇跡だから。神童が告げた茜への好意は本物で、それに対する返答もまた偽りのない恋だったけれど。憧れという隠れ蓑があったことを、茜は覚えている。これからもずっと。日の当たる、幼い二人には大仰に響く愛という気持ちに手を伸ばすには脱ぎ捨てなければならない、安寧とした場所。
 だけど本当は、いつだって行きたかったのだ。期待しないように、すり抜けても、零れ落ちても、失っても傷付かないように。そんな言い訳を捨て去った場所に、神童の隣に、何にも怯えることなく立ちたかったのだ。だって好きだから。それだけの気持ちで、茜は生きたかった。

「ごめん」

 再度、神童が繰り返した言葉に茜の肩が震えて――けれどその肩は神童が掴んでいるのだから、今更に怯えても逃げ出すことはできなかった――、彼は慌てて「違う、山菜が思っているようなことが言いたいんじゃない」と言い募った。
 茜が思っているようなこと、さよならとか、そういう言葉。

「気を使わせたんだと思ってた。俺といても、山菜はあんまり楽しそうに見えなかったから。俺も、勝手がわからなくてぎこちなくなったりしたけど、山菜のは、そういう理由じゃないんだろう?」
「――うん」

 勝手所ではなくて、神童が自分に好きといったことすら理解できないことだと思っていた。

「それでも、俺はやっぱり山菜が好きだなって思って、だから、山菜が楽しそうじゃないってわかっててもだけど――」
「うん」
「別れたくないんだ」
「……うん」
「ごめん」
「ううん、謝らないで」

 とうとう神童は、茜の肩に顔を押し付けて泣く。か細く震える身体は、それでも茜よりずっと逞しい。そんな背中をさすりながら、茜は何度も念じている。
 謝らないで、何一つ、貴方は悪くないから。
 優しく、伝わるように、押し付けられている神童の顔に頬ずりするようにくっつけば、柔らかな彼のくせ毛が触れた。この距離は、茜だけが手に入れたものだと、今ならば不思議と怯まずに受け止められる。

「私、シン様のものでいいの」

 それがいいの。いつまでも、貴方のものでいたいの。こんな風に、抱き締めて貰っていたいの。
 突然わがままになってしまったら、神童は困るだろうか。案じるけれど、効果はない。これまで抑え込んで来た期待が願望に変わって、茜の口を割って出ようとする。これ以上はと眉を下げる茜を救ったのは、顔を上げた神童が押し付けた彼の唇で。ああこれがキスなんだなと、ファーストキスを茜がぼんやりと認識する頃には肩に置かれていた手はがっちりと彼女の腰に回されていて、神童が嬉しそうに目を細めて、愛しいという気持ちを隠そうともしないものだから茜はちょっと恥ずかしい。
 くっつきそうな額と、その至近距離に堪えかねた茜は目を瞑って、今度は自分から唇を神童のそれに押し付けた。渡されて、渡した。
 これで私は貴方のもの。いつまでも、ずっと。
 茜の気持ちが通じたのか否か、神童の「ありがとう」という言葉が紡がれたとき、茜は微笑んで、それから一筋だけ涙を零した。


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4周年&70万打企画/さき様リクエスト

いつまでもあなたのものでいいです
Title by『さよならの惑星』



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