日当たりの悪い階段を、一階から二階にかけて上ると、サッカー棟へ繋がる通路への扉から暖かな陽光が差し込んで陽だまりを作っていた。寒々しい廊下に滲む光に、茜はふと足を止めた。手にしたシャープペンを二度押してみると、指先が僅かにかじかんでいた。授業中に切れてしまったシャープペンの芯を昼休みになってから購買まで買いにいくのに、わざわざ現物を持っていく必要はなかった。無意識に、持ち出してしまったことに気が付いたのは教室を出て階段を下りてからのこと。
 立ち止まっていると、休み時間特有の喧騒が届く。移動教室だとか、雑談だとか。第二校舎の方からはピアノの音がする。けれどこの音色は茜が耳をそばだてて聴き入る魅力を持つものではない。奏者の違いなど、茜はたった一人とその他でしか分類できないけれど、確かに違うのだ。遠くからは沢山の音が届くのに、茜が立ち止まっている階段の踊り場はひっそりと静まり返っている。だからこそ気兼ねなく廊下の陽だまりに陣取っていられるのだが。けれど茜は、ひとりぼっちで佇むことは意に介さないものの寂しさを連れてくる空気は嫌いだった。だから、扉一枚で堰き止められている強風に煽られることになろうとも構いはしないと、サッカー棟へ向かった。意識の遠くにチャイムの音を聞いた。それが予鈴だったのか、授業開始を告げる本鈴だったのか、茜にはわからなかった。


 くるくると手にしたペンを回す。意識は指から離れ、視線は焦点を定めずぼんやりと黒板を見つめている。昼休み明けの教師の声はどこか呪文のように中身を持たない。テストに出るなんて普段は生徒たちが素早くペンを走らせる効果てきめんの呪文もこのときは効きが弱い。
 見渡せば、もう何人かの生徒たちは机に突っ伏して眠っている。ペンを握って、気概はあれども睡魔に敗北しこくりと船を漕いでいる生徒も何人か。せっせと手を動かし、抑揚のない教師の声に耳を傾けている真面目と括られる生徒たちだっている。蘭丸は、自分の幼馴染はその少数派だろうなと尊敬とからかいと、真っ当を敬遠する稚拙さで視線を送り確認した。その幼馴染である神童は、確かに蘭丸の予想通り机に突っ伏してはいなかったけれど、予想に反して真面目に授業に耳を傾けているというわけではなかった。珍しいこともあると眼を見張る蘭丸の視線にも気付かず、神童はぼんやりと窓の外に視線を向けていた。サッカー棟の方角。部活が待ち遠しいのだろうかと訝しみながら蘭丸も視線を窓の外へ向けてみるものの真新しい景色が広がっているわけでもなかった。
 何もないじゃないかと視線を一瞬正面に戻すと、タイミング悪く教師と目が合ってしまった。当てられることはなかったけれど、蘭丸は気まずい思いを誤魔化すためにへらりと笑い、それからもうこの時間は寝れないなと諦めて板書を書き写す作業に戻った。


 昼休みが終わる直前。茜の姿を見かけた。声を掛けるには距離がありすぎて、追い駆けるには時間が足りなかった。神童は、次の授業の準備をしていたところで、偶然窓の外に彼女の姿を見た。サッカー棟に向かっていると思しき足取りはゆったりとしていて、彼女らしいテンポだった。昼休み中、何度か風に紛れてピアノの音が聴こえた。知識として記憶している曲名と、教則本のように脳内で流れるメロディに、自己流と称しても頂けないなと苦い顔をしてしまったことを思い出した。
 神童の描く茜らしさ。ゆったりと、漂うような柔らかさでいること。時々、視線を廻らさないと捕まえられない姿。遠くから構えるカメラの利便性を彼女は尊んでいる。傍にいられなくても、カメラで収めれば引き寄せられると思っているかのように。写真を眺めれば寂しくないと微笑んでいる。その度に、神童がわけもなく悲しくなってしまうことを茜は知らなかった。伝えていないのだから当然だけれど。ひとりでもサッカー棟に迎える茜の足取りを嬉しく思った。自分と彼女の縄張りが重なっているのだと。それと同時に、茜の奔放さは自分のいない所でしか発揮されないことを知る。
 昼休みは終わってしまった。始業のベルには間に合わなかっただろう。神童は理由なく授業に遅れたりはしないから、叱責を覚悟で遅れて教室に向かうのか、言い訳を用意する時間稼ぎの為に授業をサボってしまうのか。そういった教師との関わり自体意識せず授業の存在すら意識から零れ落としているのか。茜が今頃サッカー棟で何をしているのか、神童には上手く想像することすら出来なかった。


 ミーティングルームの椅子に座って、茜はぼんやりと視線を宙に彷徨わせていた。することがなくて、暇なのに眠たいとも思わなかった。誰もいないサッカー棟はひどく静かで、またひとりで訪れることがなかったから違和感も働いていて落ち着かない。テーブルの上には、教室に置いて来るのを忘れたシャープペン。購買で購入したばかりの芯を通して、そのままにしている。どうせなら、カメラを持って来ればよかった。ところ構わずシャッターをきっていると思われているけれど、一応は校則に則って昼間はできるだけ鞄の中に仕舞っておくことにしている。取り上げられてしまっては元も子もないから。誰もいないサッカー棟を撮ったことはない。神童以外に興味がなかったから。けれども、マネージャーとして部員たちの頑張りを見ている内に彼等の輝きを逃さずに捕まえたいと思うようになってからは、いつもの喧騒と遠い通い慣れた建物が物珍しく思えて仕方がなかった。
 ――神童、そう、シン様にしか興味がなかったの、私。
 人間の好奇心の最大値を100と設定するならば、茜はその全てを使いきるように暮らしてきた。神童にその大半を注ぎ、あとはなかなか懐いてくれない野良猫、今日のお弁当と夕飯、商店街で美味しいと噂の肉まん、クラスメイトの隠す気があるのかもわからない恋模様とその他諸々。だから時々考えるのだ。そこにサッカー部のみんなを加えるということは、今まで神童に注いできた情熱を切り分けているということなのだろうかと。そうして、それは悪いことではないけれど、撮り溜めてきた写真から神童の姿が減っていくという物証で以て結論となりかけてまたけれどもと思考を止める。
 ――恋ならばきっと、取り分けておけるはずなの。
 好奇心ではなく、恋ならば。他の部員たちへの大好きとは区別できる大好きならば、茜は神童への熱を失っていないと自分に言い聞かせることが出来る。ただそれは、サッカーにひたむきな人間が集まるこの場所にいるには場違いな気がしてしまって、茜は気後れしてしまう。

「それになんか、恥ずかしいよね」

 恋はひとりではできないのに、ひとりで育てて、差し出さなきゃいけないから。寂しいのは嫌だけど、怖いのも嫌だから。机に放りだしていたシャープペンを手に取る。何となく、ハート―マークを書いてみた。
 誰もいないサッカー棟は、やはりちょっと寒かった。


 午後、本日最後の授業である体育を前にして蘭丸はジャージの上着をサッカー棟のロッカーに忘れてきたことに気が付いた。どうしたと尋ねてくる神童に、先にグラウンドに行ってくれと言い残して、霧野は駆け足でサッカー棟に向かった。この時期にいきなり半袖で外に出るわけにはいかない。教室を出る直前にちらりと確認した時刻を思い出して、走ってもぎりぎりだなと舌打ちをひとつ。

「霧野くんだ」

 急いでいるのに、妙に間延びした声で呼ばれた。ミーティングルームの扉から顔を覗かせている茜は、誰もいないと思い込んでサッカー棟に飛び込んできた蘭丸を大層驚かせたのだが、そんなことは知らないと言わんばかりににこにこと微笑んでいる。けれど顔色は白く、一瞬体調でも悪いのかと疑ってしまった。けれども陽気に「寒いね〜」と言いながら近付いて来る茜を見ていると、どうやら寒さで血色が悪くなっているだけだと思い直した。彼女は随分長いことここにいるようだ。

「お前、前の授業サボったのか?」
「サボったっていうか、何か動きたくないな〜って思ってたらチャイム鳴っちゃったの」
「それはサボりだよ」
「反省する」
「そうしろ」

 とっくにロッカーから取り出したジャージを羽織って、さっさと授業に向かって駆け出さなければならない。渡り廊下を走って、玄関まで一直線、陸上用のグラウンドは遠すぎる。何だって、校舎の正面がサッカーグラウンドなのだろう。いやどこの学校もそうなのかもしれないが、それは校庭との兼用が実用されているはずでけれど雷門ではサッカーグラウンドはサッカーグラウンドでしかないのだ。

「お昼休みにね、何だかさびしくなっちゃって」
「ん?」
「だからサッカー棟に来てみたんだけど、誰もいなくて……当たり前なんだけど、それで誰か来ないかなあって思ってたから、霧野くん来てくれて嬉しい」
「あのなあ、そんなことで体冷やすなよ。あと昼休みなら隣のクラスに顔出した方が早いだろ?」
「寂しくなったのは教室じゃなかったから……」
「どこであるにせよ、部活がなきゃサッカー棟には誰もいないんだよ」
「うん、」

 自分のツッコみたいところにしか切り込まない蘭丸との会話はテンポが良くて茜は段々楽しくなってくる。どうやら叱られているようだけれど、気にしない。理不尽ではなく、正論の叱責はきちんと耳に入って来るから苦痛ではなかった。「ああもうこんなに冷たくなってる!」と母親のような台詞と共に茜の頬を両手で挟んでくる蘭丸と自分の距離がとても近い。ドキドキした。霧野の睫毛が思っていたよりも長かったから。お化粧要らずに違いない。残念ながら、恋のときめきとは程遠い親しみで胸を締め付けられている茜は蘭丸の前で素直に笑う。ころころ、鈴を鳴らすような声を上げて。そうしてぽかぽかと胸が温かくなって、茜は「寒いの、どっか行ったね」と頬に当てられていた蘭丸の手に自分の手を重ねてみた。彼の手の方が、まだ温かい。
 和やかな空気を裂くようにチャイムが鳴った。瞬間、さっと青褪めた蘭丸の顔を「面白い」と笑ったら、思いきり頬を抓られてしまった。
 蘭丸は結局、授業に間に合わなかった。


 慌ただしく教室を出て行った蘭丸が授業に遅れてやってきて、体育教師に何度も頭を下げているのを準備運動の合間に盗み見する。教師も普段の品行に問題がない生徒を叱り続けるほど性根が悪いわけでもないので、事情を聞いて次からは気を付けるようにと言葉を締め括るとあっさりと蘭丸は神童の方へとやってきた。顔にはやってしまったという落ち込みが少し。
 「災難だったな」と忘れ物への苦笑を滲ませて声を掛ければ、「茜の奴が……」と苦い顔を作る蘭丸に反射的に硬直してしまった。そういえば、先の授業中結局サッカー棟から出てこなかった彼女は今の授業にはきちんと参加しているだろうか。サボりすぎると、サッカー部の評判が悪くなってしまうのにと出来るだけ客観的な意見を持ってみるもそれすらもどこかぎこちなかった。蘭丸がサッカー棟にジャージを取りに行ったのならば、確かに二人が遭遇してもおかしくはなかった。

「山菜がどうかしたのか?」
「お? おう、何かあいつ昼休みからずっとサッカー棟にいたみたいで寒さでガチガチになってたからこっちは心配してやってるのに当人がへらへらしてるもんだからそれに説教してたら思いの外時間食ったんだよ」
「大丈夫だったのか?」
「たぶんなー。あいつちゃんと教室戻ったんだろうな……?」

 ジャージのポケットに両手を突っ込みながら、蘭丸は茜の不満を滔々と語り続ける。それでもどうしたって親しみがあるからこその言葉の羅列なのだから、彼女に今一つ歩み寄りきれていない神童は曖昧な頷きを返すだけで精一杯だった。
 蘭丸の交友関係が、神童にはよくわからない。同じサッカー部なのだから、茜と二人きりで話していてもちっともおかしくない筈なのに、茜と二人きりとはどういう状況で生れるのか、神童には想像もつかない世界の話のように感じられる。真面目だとはよく言われるけれど、それは蘭丸と比べて親しみやすさがないということなのだろうか。気付いてしまって、落ち込む。

「サボりはよくないよな、神童からも注意してやってくれよ」
「――え、」
「お前に言われたら茜絶対授業サボらなくなるだろうし」
「それは――俺が怖がられているからだろうか」
「はは、そうだな、一種の恐怖かもしれないな!」
「!」

 蘭丸のいう恐怖は、茜が神童に抱いている憧れという心理を神と信仰者になぞらえた軽い冗談だったのだけれど、恐怖という字面通りの印象を突きつけられた神童はただただショックだった。大した接触も重ねていないのに、苦手よりも恐怖という言葉が既に恐ろしいではないか。
 昼休みの、窓から見下ろした茜の姿を思い出す。軽やかに、ゆったりと、柔らかく、日差しの中を歩き真冬の風にさらされていた彼女。神童とは、きっと隣に並んでも歩くペースが随分と違ってしまうことだろう。遠くから、眺めているだけだからこそ慕わしい存在も、きっと世の中には存在するのだから。

「それはなんか、寂しいんだよな」

 神童の呟きは、蘭丸の耳に届く前に教師の集合の号令にかき消されてしまった。駆け足になる周囲のクラスメイト達の集団に流されるように歩調を合わせながら、神童は茜だったらと考える。
 ――山菜だったらたぶん、抜かされて、後ろの方に行ってしまうんだろうな。
 そんな姿を想像したら、無意識のうちに笑っていたようで隣にいた蘭丸に怪訝な顔をされてしまった。
 結局、神童は茜のことをこうも考え込んでしまう理由については思い至らなかった。



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さりとてどうにもいかんせん
Title by『√A』

■USBに『拓茜になるはず』というタイトルで中途保存してあったんですがこれを書きはじめた日の自分に申し訳ないレベルに拓茜にはならなかった。



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