「海に行こうよ」

 二人きりの帰り道で、茜が言った。誘いの言葉を受けた浜野は、「別にいいけど」と極めて普段と変わらない声のトーンを維持していたけれど内心では既にここから一番近い海とそこまでの交通手段、料金は如何程のものだろうかと想像を膨らませてしまっていた。惜しむべきは、季節は既に海を歓迎する夏の正反対まで進んでしまっていることだろうか。部活帰りの二人の首にはしっかりとマフラーまで巻かれていて、吹き抜ける木枯しに心で悪態をつく。そんな冬の真ん中に、茜は海に行きたいと言う。普通ならば、まず理由を尋ねるだろう。季節外れに、冷たい海風に吹かれてまでそこに行かなければならない理由があるのかと。そしてそれが融通の利くものであるならば、出来れば数か月後には必ず訪れる次の夏までその願いは持ち越してくれないかと言い聞かせるのだ。
 けれど浜野は一瞬の迷いすら挟まずに茜の言葉に頷いた。彼女が望むなら、出来るだけ全てを叶えてやりたい。そう思い、行動できる自分でいたい。子どもの自分に出来ることは限られていて、力及ばないことで茜の意に添えないこともあるだろう。ただやるだけは取り敢えずやってみるというのが浜野の彼女と付き合う上での信条だった。そんな自分の姿が茜の心を揺らせれば、彼女は目に見えてわかりやすい形でその感動を示してくれる。茜が両手で構えるピンクのカメラのレンズが自分に向く瞬間を、浜野はただひたすらに望んでいた。勿論そんなこと、表情には微塵も窺わせない。挑むことを全ての前提としていても、失敗した時に笑っていられるということも浜野にとっては重要なことだったから。

     *****

 浜野と茜が恋人として付き合い始めたのは、まだ夏の暑さが残る秋の入り口の頃だった。夏休みという格好の時期を逃してしまった二人は、部活の忙しさも手伝ってデートという名の元に遠出をしたことがない。昼食を一緒に食べる、帰り道を一緒に歩く。他にも細々と恋人になってから生まれた繋がりはあるものの、年齢的にも未熟な二人が恋人として恒常的に振る舞えることなどそう多くはない。けれどそれは自分たちに限った話ではないのだから焦る必要もなかった。ただ、茜と付き合っていることを隠している風でもなく、以前と変わらぬ頻度で速水を釣り堀に誘っていたら流石に苦言を呈されてしまったけれど。茜が自分と一緒にいても手にしたカメラを一等大切だと公言して憚らないように、浜野には浜野のスペースがあるというだけの話なのだけれど滾々と説き伏せることも億劫で諦めた。
 マイペースが具現化したような二人でもあったので、周囲からは公認の恋人同士であったのに首を傾げられる回数も割かし多かった。何せ茜は、浜野と付き合い出してからも神童への憧れを全く風化させていなかったので時折あらぬ誤解を受けることもあった。浜野自身、茜に想いを伝える以前はその憧れこそを最大の難関として捉えていたくらいである。年頃の少女が同い年の少年に熱い視線を送っていたら、勘繰らない方が難しい。下心を隠し友だちの皮を被りながら少しずつ距離を縮めて行く中で、どうやら彼女の神童への念は正真正銘の憧れであると確信を得ていったわけで。入部当初に比べて神童以外の部員たちにもシャッターを切る茜に不安を覚えることはないけれど。それでも憧れに比例して現像した写真の中に現れる神童よりも自分の姿を多く残すことが目下浜野の目標でもあるのだ。

     *****

「海、いつ行く?今度の休み?」
「―――、」
「ん?どうした?」
「海、行くの?」
「何で?ちゅーか今行きたいって言ったじゃん」
「うん、でも冬だから夏まで我慢しなさいって言われるかと思った」

 実際に、他の誰かに同じことを頼んで言い聞かされたことがあるのかもしれない。浜野の反応に、茜は嬉しそうに歩調を軽やかにした。その所為で、直ぐ隣に並んでいた彼女は少しだけ浜野の前を歩く形となる。
 本当は、校門を潜ったその瞬間から浜野は茜と手を繋いで歩きたかったのだけれど、彼女が両手で大事そうにカメラを抱えているばっかりにそれは出来なかった。あれではもしも転んでしまった時に手をつくことも難しいだろうにと浜野は不安になったが、その時は隣にいる自分が受け止めてやればいいのだということに思い至りしたり顔で頬筋を緩くする。そんな浜野の独り芝居のような表情の変化を、実は茜がこっそり横目で確認しているということを彼は知らない。もしも今、茜の視線の先にいる人物が浜野以外の誰かであったのならば、彼女は迷わずカメラのレンズをその相手に宛ててシャッターを切っていただろう。この瞬間を収めなければ、もう見ることは叶わない光景。そして茜自身次を望むことをしない光景。失うことを望んでいるわけでは決してない。けれど仮にそんな事態に陥ったとしても茜はその時自分の手にしているカメラを覗き込むだけで事を済ませてしまえるだろう。瞬間の収集とでも言おうか、茜自身の中で満たされてしまう臨界点があると自覚出来てしまうものを彼女はより優先的にカメラに収めている。
 けれど、恋愛感情に於いてはどうしてか満たされると感じることはあっても実際満ち満ちたと思えることはないのだから茜自身戸惑っている。誰かを本気で想い、想われたいと願うこと。通じ合い想われていると知った瞬間から限界値など果てがあるはずもない。憧れのように、満足できるポイントが恋愛には何処にも存在していない。だから茜は、意図して浜野を写真に閉じ込めることを避けている。それを自分の関心が低いからだなんて、どうか誤解しないで貰いたい。
 好きだから、きちんと思っているから。レンズ越しではない己の目に浜野を映し焼き付けようとする。そんな茜だからこその拘りを正確に把握して貰う方が難しいのかもしれないが、それでも茜は浜野にだから期待する。季節外れの海にだって自分を連れ出してくれる、そんな彼だから。

    *****

「ところで山菜は何で海に行きたいなんて言ったの?」
「………言わなかったっけ」
「言ってない!」
「えっとね、まずは浜野君とうんと遠くに出掛けてみたかったから」
「ふんふん。まだあるん?」
「あとはね、海ってすっごく浜野君って感じがするから」
「……名前?」
「ふふ、そうかも!」

 二人がそんな会話を交わすのは、休日の電車に並んで座る海へ向かう道中でのこと。茜の膝の上には相変わらずピンクのカメラが乗っていてその存在感を主張している。けれど、それに添えられた手は片方の左手だけ。もう片方の右手は、隣に座る浜野の左手としっかり繋がれている。
 茜の言葉に気を良くしたのか、「じゃあ今度は山菜っぽいから山に行くかあ」と海に着く前から次の予定を組みたて始める浜野に、彼女は頷きひとつでその誘いを受けた。それは勿論相手が浜野だったからで、彼のことが好きだからで、二人が仲睦まじい恋人同士だから。
 いくつ予定を積み重ねても足りないくらい、これから先の時間を共有していくはずの二人にだからこそ許された優しい特権だった。



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いつまでもここにいてどこまでもいこうね

■2013.02.10.発行イナズマイレブンシリーズNL担当CP合同誌『初恋ストライカー』様に寄稿させていただきました。



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