もしかしたらだけれど。私は幼馴染の特権という言葉で天馬の一番近くにいられる当たり前を他の誰にも真似されない特別なものと思いたかったのかもしれない。
 そんなことを考えながら、葵は授業中ではあるが教師の板書ならちゃんと映し終えたのだし、少しくらいは良いだろうと回想に耽ることにする。面白くもない無駄話の多い授業ほど退屈なものはないのだから。
 思い出すのは、今もこの教室で一緒に授業を受けている天馬とのこと。出会った頃から変わらないサッカーに対するひたむきさは相も変わらず葵にとっては好ましい部分だ。だが最近では、仮に初対面の時に彼が取り組んでいたものがサッカー以外の物であったとしてもその姿勢が損なわれていなかったのならば、自分は二人の関係が現在と同じように「幼馴染」と形容されるまで応援という名目の元傍にいることを選んだだろう。尤も、今となってはサッカー以外に熱を注ぐ天馬の姿など想像もできないのだが。
 小学生の時はクラスが違えども顔と名を一致させて存在を認識すれば存外視界に入り込む距離で生活していたのだと知った。それは天馬も同じだったようで、廊下ですれ違うだけで終わっていた関係が立ち止まって話をするようになった。やはり天馬の話題はサッカーばかりだったし、最初は葵もそれ以外を彼に求めてはいなかった。それが、自分のクラスでの出来事など世間話をするようになったのはいつからだったろう。わざわざ約束をとりつけて一緒に下校するようになったのはいつからだったろう。応援していると言いきれた関係が世話を焼いていると周囲から思われ葵自身否定しなくなっていったのはいつからだろう。思い出そうとも、そこはどうにも曖昧だった。ただ、初めて天馬が忘れ物をしたから助けてと隣のクラスの葵の元に駆けこんできた瞬間は、朧気ながらも忘れたりは出来ない。たしか、音楽の教科書だったろうか。それまで忘れ物をしたら誰に拝借していたのかは知らない。もしかしたらその日は普段頼りにしている人が病欠だったとか、そんな単純な理由で葵の元にやって来たのかもしれない。それでも、呆れることもなく笑顔で頼みを聞いてくれた葵に急速に懐いたとでもいうのか、それ以来天馬は頻繁に彼女を頼るようになった。ませた子あたりが探り出す好意の有無は天馬の爛漫さがそれをさせなかったし、葵もそんな次元で天馬との友情を捉えてはいなかったから無駄だった。恐らく、その辺りがきっかけだったのだろう。
 幼さと、その爛漫さ故に天馬は誰とでも仲良くなれた。だがやはり特定のチームに属していないにも関わらずサッカーばかりしていた少年と四六時中行動を共にする友人はいなかった。だからこそそのがら空きだった天馬の隣という最も近しいポジションに葵が収まるのも至って自然なことだった。彼女は唯一、同年代で天馬がサッカーにのめり込んでいることを肯定し、応援してくれる存在だったのだから。葵は天馬と一緒にサッカーをプレイすることは出来なかったけれど、それでも放課後の公園で天馬の練習風景を眺めてはそれを退屈だなんて思ったことはなかった。その頃から、身内を覗けば天馬にとって一番の理解者といえば空野葵で間違いなかったし、言葉にしなければ無意識でもあったけれど葵自身その通りだと自負していたのだろう。だから、中学への進学という世界の転機と共にやって来る些細なきっかけ一つに葵の天馬に対する自尊心は試されているが如く揺らされている。

(別に変なことでもないし、仕方ないのに…。)

 そう、自分は冷静に事態を理解していると振舞っても心の中に広がったもやは一向に晴れてくれない。

(天馬が私以外に何か借りてお礼を言ってただけじゃない。確かに今までそんなとこ見たことないから珍しいといえば珍しいけど本当にただそれだけじゃん。)

 今この瞬間、葵には自分の座席が天馬より後方であることが憎らしい。黒板に目をやれば自然と映り込む見慣れた背中につい目線を釣られてしまったばっかりに、葵は授業中にも関わらず思い出ばかり振り返っているのだ。
 初めは筆箱に手を突っ込んで慌てたように中を引っ掻き回している背中をまた何か忘れたに違いないと苦笑を浮かべながら眺めていた。真後ろでもない席では流石に授業中に助け船を出すことはできない。それでも天馬の隣には信助が位置しているのだから直ぐに助けて貰えるだろうと気楽に構えていたのだが。実際、天馬に手、もとい彼の忘れものである定規を差し出したのは信助ではなく逆隣りの女子生徒だった。そして天馬は定規を受け取りながらいつもの笑顔で礼を述べていた。視界の真ん中で、しかし介入しようのない距離を挟みながら見た天馬の横顔と笑顔は鈍器で殴られたかのような衝撃を葵に与えた。
 勿論、天馬が自分を助けてくれた人間に仏頂面で応じるような人間ではないことは知っている。相手にだって純粋な厚意しかないであろうことも。仮に葵の隣席の生徒が授業中に忘れ物で困っていたら自分だって迷わず物の貸し借りくらい申し出るに決まっている。それでも、一瞬で葵の心を走ったのは嫌悪に似た負の感情。視線をずらして普段なら天馬が頼りにする方であった信助の姿を確認すれば彼にすれば珍しく机に突っ伏して眠ってしまっていた。何で今日に限って眠っているんだと落胆するよりも、それならば天馬が逆隣の女の子に頼ったのだって仕方のないことだと安堵した自分に葵は腑に落ちない疑問を覚える。それではまるで、自分が認めた人間以外と天馬が関わることに不快を覚えているようで。あまりに筋違いな憤りを抱くには自分は天馬にどれだけの影響力を持っているのだと己を振り返っても答えは天馬しか知る由のないこと。

(それとも、)

 もう一つの可能性は、どうしてか意識したくなくて葵は机の上に乗せていた両手を膝の上に持っていき握りしめた。そんなことをしても、一度至ってしまった解は消えることなく葵の上にのしかかる。天馬の「ありがとう」に「どういたしまして」と応じた女の子の微笑みなど、意図を探る方が無粋というものだろうに。普段あまり接点のない子だから、彼女と天馬がどれだけ接触があるかなんて意識したことがない。それこそ、中学に入ってからの天馬の世界はサッカー一色で、サッカーと関わりのない人間イコール天馬と関わりのない人間なのだと思っていた。だが、常識的に考えて学生である自分たちが一日の大半を過ごす場所はサッカーグラウンドではなくこの教室内なのだ。大半のクラスメイトはサッカー以外の部活に所属していて、そんな人たちとだって当たり前に会話もするし一緒にお弁当だって食べるし教室移動も雑談に興じながら歩く。そんな自分が普段行っていることを天馬が葵の知らない誰かとしているのかと思うと何とも言えない気持ちになる。不快とは言い難く、だが甘んじて見送りたくもない。寂しいといえばその通りで、縋り付くには他愛ないことばかり。歳を重ねていくうちに広がる世界は唐突に葵の首を絞め始めた。
 自分勝手だと自覚のある想いは葵を落胆させる。息苦しく狭い了見の思考を断ち切る為にも、せめてこの授業が終わるまで難しいことを考え込むのはやめようと、葵は授業を放棄して机に突っ伏した。



 息苦しい授業を終えて、さあ次の時間は体育だと席を立った葵は「あ、」と声を漏らす。体育着に着替えようと手にした袋を覗いた瞬間、ジャージの上着を部室に忘れてしまったことに気が付いた。今から取りに行っていたのでは授業に間に合わない。落ち込んでいた気分を更に凹ます事態に、葵はもう他のクラスの人に借りに行くという気が起きない。他クラスに知り合いが多い訳でもないし、かつ本日体育がないにも関わらずジャージを持って来ている人間を探し出せるほうが稀というものだ。そんなことをしている間に着替えや移動の時間がなくなってしまっては意味がない。ならばもうこのままでいいと諦めて、葵は手早く着替えを済ませると、自分を待ってくれていた友人たちにお礼を言って一緒に歩き始めた。

(ほら、普通のことだよ。)

 再び巻き戻ってしまった思考を振り払う。それでも同時に浮かんだ天馬の笑顔を消すことは出来なかった。

「葵なんで半袖なの?」

 「朝練の時は長袖来てたよね?」といつの間にか隣に立っていた天馬が問う。彼の接近に全然気が付かなかったと目を見張りながらも「部室に忘れちゃった」と答えれば天馬もあっさりと納得する。葵と一緒にいた友人たちは天馬が傍に来たことで先に行ってしまった。天馬が彼女らに敬遠されているという訳ではなく、幼馴染という周知の関係にある二人の会話に自分たちが混ざるのは失礼だろうという遠慮ゆえのこと。
 そのまま喋りながら二人で校庭に向かう。信助やマサキは天馬が途中でお手洗いに寄るからと先に行って貰ったそうだ。こうして二人きりでいると、前の授業時のように妙な考えに囚われることはないようだと葵はこっそり息を吐く。丁度玄関で靴を履き替えていた天馬には見えない。
 先程の薄暗い感情が天馬に向かっているのではないのなら、それはやはり彼の隣席の彼女に対しての物だったのか。だがそうだとすると、葵の心には新たな戸惑いが浮かぶ。

(これってあの子に嫉妬してるってことなのかな?)

 嫉妬。この二文字が過ぎってしまったが為に、葵は自分にとって天馬が幼馴染であると執拗に言い聞かせなければならなくなる。何故なら葵の中で嫉妬とは恋愛中に抱く感情だと想定されており、今の自分の状況に照らし合わせれば自分が天馬を恋愛対象として好きだということになるからだ。散々幼馴染として世話を焼いて来たのは自分だと振り返っておいて本当は好きな人が自分ではない女の子と親しげにしていたのが気に入らなかったからだなんて、ありきたりすぎて笑えない。そんな恋する女の子ならば抱いて当たり前の気持ちだけでは、天馬の幼馴染として一番近い場所にいられない。それは葵にとって現実味のない妄想で、だけど決して訪れてほしくはない未来だ。
 葵の隣で喋り続けている天馬に相槌を打ちながらグラウンドに着くと、既に外に出ていたクラスメイト達が教員からの指示で授業の準備に取り掛かっていた。女子はハードル、男子は短距離走から始めるらしい。

「――葵、話聞いてた?もしかして具合悪い?」
「……悪くないよ?ただハードルあんまり好きじゃないなあと思ってただけ」
「ふうん、でも途中男女で交代するんじゃないかな」
「短距離が好きな訳でもないよ」
「えー、葵運動部なのにー」
「マネージャーだもん」
「そうだけど!」

 適当な相槌は鈍感な天馬にも十分伝わってしまったらしく、彼は葵の顔を覗き込むように調子を伺ってくる。なんでもないよと関係ない話題に逃げながら、いつも通りの軽い会話が心地良い。天馬が自分以外の女の子とこんな風に会話している場面なんて一度も見たことがなくて、それは何も自分の目が届かない場所があるからだなんて思えない。やはりこの近さは幼馴染だからこそ、他の誰にも踏み込めない場所なのだと思う。
 葵の抱く気持ちが恋であれなんであれ、この距離は紛れもない事実として此処にある。ならばそれで十分じゃないかと強引に気持ちを持ち上げて、葵はさっさと授業の準備を手伝いに行くよう天馬の背を叩いてやる。数歩分前によろめいて、何するんだと恨めしそうな顔で見てくる天馬に、葵はにっと微笑む。

「ほら、一人だけ準備さぼるのはずるいぞ!」
「葵だってまだ何にもしてないじゃん!」
「これから行くに決まってるでしょ!じゃあね!」
「俺だってこれから…あ、葵ちょっと待って」
「ん?何?」
「これ、俺の上着着てて良いよ」

 クラスの女子の方へ向かおうとした葵を慌てて呼び止めた天馬が、自分が着ていたジャージの上着を差し出す。言葉の意味は理解できても自分だってこれから体育なのに何故それを他人に貸そうとしているのだと葵はそれを受け取らずに首を傾げる。物の数秒のことではあったが、その僅かな沈黙が天馬には耐え難かったらしく、急に顔を赤くしたかと思うと「あーもう!」と唸って葵に上着を押し付けるとそのまま駆け出してしまった。

「ちょっ、天馬!?」
「どうせ走って直ぐ脱ぐからそれは葵が着てていいって言ってるの!」
「……そう、」

 あっという間に遠ざかってしまった天馬の怒鳴るような声を聞いて、葵はぽつりと呟くしかなかった。
 突き返しに行くわけにもいかず、葵はおとなしく天馬から上着を拝借することにして腕を通した。自分の物よりも少しだけ大きいそれに、ああこれは天馬の物で、彼はもう自分を追い越してしまった男の子なのだと思わされる。隣同士の幼馴染だからこそ感じる成長の寂しさと、天馬が自分に上着を貸してくれたというこそばゆさが同居する。
 そういえば、忘れ物をして天馬に助けて貰うのは随分と珍しい。テスト前の勉強会などで消しゴムやペンを借りるくらいならばともかく、世話を焼かせたと思うようなことは殆どなかった。その所為か、たった一度のことで少しばかり天馬が格好良く見えた気がする。

(こんな風に、私が面倒を見てあげなきゃダメだった天馬はいなくなっちゃうのかなあ?)

 もしもそれが、天馬と自分との距離が開いていくことと同列であるのならば悲しい。指しか出ていない袖口を口元に当てながら、葵はとっくに信助やマサキと合流した天馬に視線を送り続ける。見つめるだけの彼は、葵がその瞳に焼き付けてきた彼と何一つ変わってはいないのに。そんな感傷に襲われながら、それならば自分も気付かないうちに変わっていたのだろうかと思い至る。例えば、幼馴染への友愛の情が恋愛の情へと片足を突っ込んだ独占欲を呼び起こしたように。未だ完全に認めることの出来ない恋心は葵には未満の扱いを受けているものの彼が自身の特別だということは否定しようがなかった。
 そんな葵の想いが籠もった熱視線が届いたのか否か。信助たちと談笑していた天馬が不意に顔を上げて彼女の方を向く。そして未だに二人でいた場所から移動していない葵に首を捻りながらも笑って手を振ってくる。その動作に、今度は葵が気恥ずかしくなって顔を赤くして天馬の方から顔を背けた。じっと見ていたことがバレたらどうしよう。
誤魔化しようはあるけれど、視線と一緒に直前まで天馬について考えていたことまでもが本人に届いてしまったらなんて想像したら恥ずかしくて仕方がない。ありえないとは知りながら、葵は急いでその場から駆け足で逃げ出した。来るのが遅いと呆れながら、顔が赤いけど何かあったのと尋ねてくる友人たちには走ったからだと嘘を吐いてしまった。
 突然走り去ってしまった葵の背中に、天馬と信助の視線が送られ続けているとは気付かないまま、訝しげな友人たちに何でもないよと微笑んでその輪の中に溶け込んだ。


「…葵どうしたんだろ?」
「ね。それより天馬上着どうしたの?」
「葵が自分の部室に忘れたっていうから貸した」
「寒くない?」
「直ぐに動くから大丈夫だよ」

 「それって今は寒いってことだよね」と天馬の心意気を削ぐような発言をする信助ではないが、気遣わしげに視線を送ってしまうことは仕方ないことだ。本当に大丈夫だと言い募る天馬に頷いて、傍にいたマサキの方を見れば彼は何やら物言いたげに天馬の方を見ていたので、余計なことを言っちゃダメだよと人差し指を立てて「しー」の動作をすれば彼もわかっていると言いたげに肩を竦めて見せた。

「二人とも何してるの?」
「別に何も?」
「それにしても女の子にジャージの上着貸してあげるって天馬なんか格好いいね!」
「だって葵だし……あー、でもちょっとくらい頼りになるって思われたいよ?俺だって男だもん!」

 さも当然と言いきった天馬に、今度は信助とマサキの双方が揃って肩を竦めた。その反応になんだよと頬を膨らます天馬に、「幼馴染だからってそれは…」と傍観者の二人は同じ感想を内心で唱える。

(そういう台詞は幼馴染だからじゃなくて特別な女の子だから出るんでしょ。)

 言っても伝わらないだろうし、余計なお節介が功を奏すような問題でもないから黙って見守ることしかしないけれど。幼かった頃はただの仲良しにしか映っていなかった光景がいつの間にか好意を含んだ仲良しと思われていることを当人たちばかりが知らないのだ。
 特に天馬はそっちの方面にはだいぶ疎いらしく、葵を女の子だとは理解した上で幼馴染という事実を付加した途端に全て曖昧にして彼女の隣を陣取っているのだから性質が悪い。それでも、無意識ながらに葵を守ろうとする姿勢は幼馴染だからというよりも、彼女を女の子と意識しての行動といえる。葵が着替え終わっても半袖なままだった姿を見て、信助とマサキに先に行っててと言い残して彼女の元へ向かった天馬の素早さを、二人はぜひとも葵に教えてあげたかった。あれは絶対、他の人に後れを取るまいと必死の顔だった。人の心など読めるはずもないけれど、天馬に関して言えば十分わかりやすいと思う。葵に関しても、天馬とのことに於いては同様だ。それなのにお互い恋の自覚すら迎えていないとはもどかしい。「男だもん」なんて、つまりはそういうことだろう?
 そんな芽生えを待つ恋と、芽生え始めたばかりの恋では前途が思いやられるけれど、咲けば実る恋なのだからさっさと育ってしまえと周囲に思われながら。肝心の当人たちは遅々として進まぬ想いの変化に戸惑いつつも幼馴染として誰にも譲る気のない隣同士を維持しているのであった。


―――――――――――

花開くことがあればどうぞよろしく

■2012.07.15.発行の天葵アンソロジー『きらきら』様に寄稿させていただきました。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -