手にした携帯を何度も開けたり閉めたりを繰り返しながら、この数時間一度もメール受信も着信も知らせない待ち受け画面に、玲名は飽き飽きすると同時に苛立って舌打ちをする。普段ならうるさいからとサイレントにしてある設定も解除して、少し携帯の傍を離れた隙に連絡が入った際にでもすぐ分かるようにしてある。もっとも、今日は一度たりとも携帯を手放していないのだからあまり意味のないこととも言えた。

 土曜日の朝。玲名が目を覚ました時には既にヒロトは家を出た後だった。寝坊をした訳ではない。学校がないとはいえ、玲名はだらだらと惰眠を貪るような性分ではない。大学で講義がある日と変わらない時間に起床したにも関わらず、ヒロトはいなかったのだ。彼が土曜日に講義を選択していないことは時間割を組んだ時に知らされていたし、お互いの大体の行動範囲が分かるようにとリビングに貼られているヒロトの時間割表にも土曜日には空白が並んでいる。予定があるとは聞いていなかったが、ここ数週間の間、休日なるとヒロトは決まって玲名に黙って朝早くから家を空けることが多くなっていた。
 同じ部屋に住んでいるとはいえ、玲名はヒロトと恋人同士という訳ではなかったから、そう深く追求することは出来なかった。分担した家事はしっかりとこなしてから出掛けているので、文句がある筈もない。
 それでも気になることは気になるので、外出が続いたある日、玲名は何処へ行っているのかとはっきり尋ねたことがある。疑問はあるのに黙り込んでいるのは彼女の性分ではなかった。ヒロトは玲名からの問いに一瞬だけ困ったように眉尻を下げたけれど、直ぐに何てことはないという風に口を開いた。
「バイトだよ」
 そうはっきりと答えられてしまえば玲名は黙って「そうか」と納得するしか出来ない。本当はそのバイトの内容を聞ければよかったのだけれど、いつも明瞭に物事を語るヒロトがバイトの一言で済ましたのだから、内容については話したくないのかもしれないという玲名自身の余計な思考が邪魔をして次の言葉を紡ぐことが出来なかった。こういう時ばかり、玲名はヒロトと自分の無駄な付き合いの長さを忌々しく感じる。いつまでも最後の一歩の距離を詰め兼ねているのは、こういうお互いの理解が下手に深くなり過ぎてしまった所為なのだろう。現在点が曖昧ながらにも心地が良いから、それが壊れるかもしれないというリスクを冒してまで先に進もうとする意思が年齢を重ねるにつれ段々としぼんでいってしまった。臆病になったのか、落ち着いたのかは見方次第だ。しかし、現在の自分とヒロトの在り様を見れば他の誰かに取られはしない位置で、一番近い異性のまま無為に日々を送ろうとするのはずるいことなのだろう。それでも、玲名はこのままではいつか確実に訪れる別れには目を伏せたまま、大切なヒロトの傍にいる日常を手放せずにいる。

 ヒロトと玲名が一緒に暮らし始めたのはお互いが大学進学を機にお日さま園を出たことがきっかけだった。進路選択の際はそれぞれ別の大学名を第一希望に挙げていて、この腐れ縁もここまでかと苦笑いを零し合ったものだけれど、いざ新生活の準備を始めてみれば二人の大学は近距離に在った。それならばと費用削減の為にルームシェアという形を取ることにしたのだ。繰り返すが、二人は決して恋人同士ではなかったので同姓だとか同居という言葉を用いるのを憚った。男女の差は理解していたし、何も知らない周囲に自分たちが同じ部屋に暮らしているという現状がどう捉えられてしまうかも予想はしていた。しかし二人とも恋人がいる訳ではなかったし、目の前に差し迫った日常生活に伴う経済問題の方が逼迫していて、そちらの解決を最優先にしてしまった。
 過去の付き合いに依存した生き方を続けて行くことに、後ろめたさがなかったかといえば嘘になる。玲名はヒロトを好ましく思っていて、またヒロトも玲名のことを同じように思っていることは確認するまでもなく自信を持って頷ける事実だった。二人に限った話ではなく、お日さま園で同じ時期を過ごした面子ならば大体がそうだろう。それでも、ヒロトが異性から見てやたらと魅力的に映る人間だということはこれまでの人生の中でとっくに理解していたし、思春期を通り過ぎて、同年代で早い者は結婚や出産する知人も出てくると自分たちが誰かと恋だの愛だの語り合って新しい人間関係を築いていく時期を迎えなければいけないような、妙な焦燥感すら覚えるようになって来る。
 玲名からすると、ヒロトにはその為の相手を見繕うことはとても容易いだろうと知っていた。そして玲名は知らないけれど、玲名もまた同じようにその気になれば相手などいくらでもいることをヒロトは知っていた。お互いが、生活費が浮くという実益を得る一方で、人間関係の不利益を被るかもしれない。言葉にはしなかったけれど、見ないふりをするわけにもいかない不安が確かにあった。だから。
「ねえ玲名。ルールを決めよう」
 そう提案したのはヒロトの方で、玲名は異論を唱えることもなく頷いた。お日さま園にいた頃だって、生活していく上でのルールはあったし、恋人でもない、家族でもない、だが完全な他人同士でもない曖昧な関係の二人には、ルールという線引きが必要だということを理解していた。
「家事は基本的に二人で分担しようね」
「だけど用事があって無理な時は、そこは助け合いの精神で分担してるものを入れ替えるとかしよう。だけどどちらかに偏りがでないように気をつけよう」
「食事はなるべく一緒にリビングでとろう。別々だと食費嵩んでルームシェアの意味なくなっちゃうし」
「お互いの部屋には絶対許可なく立ち入らないこと。本人が部屋にいる時でも、ノックして返事がなかったらドアも開けない。出掛ける時は絶対ドアを閉めて行ってね」
 光熱費代や食費は毎月定額を出し合ってそこから引いて行くだとか、細々とした所までヒロトはルールを作った。玲名は最後まで殆ど異議を挟まず淡々と頷き続けた。それでも、お日さま園にあったものよりも細かに定められていくそれに、玲名はああ遠くなってしまったと諦めるしかない寂しさを一人胸の内に抱えた。
 スタートした新生活は、新と銘打つには随分とつつがなく日常と呼べるようになった。飽きる程に見慣れた相手との空間に緊張や気遣いを意識することもなく、細かいと感じたルールだって、実践してみれば案外簡単に従事出来た。余裕ばかりの生活ではないので、当然ながら二人ともバイトで顔を合わせない日が続くこともあった。それでも、今回の様に休日になる度に朝早くから出掛ける事態が続くのは初めてのことで、玲名は妙に落ち着かない心地になってしまうのだ。


 玲名は誰にも告げたことはないけれど、自分がヒロトに向けている気持ちの名前を自覚していた。恋と呼ぶその気持ちは、家族として過ごした時間が長すぎて、恋の先にある愛が先行してしまうような、どこかちぐはぐな順序で玲名の心の底にすとんと落ちた。玲名は言葉にしたことはないと言ったけれど、お日さま園の人間なら、きっと勘付いているだろうと玲名自身思っている。もし玲名の好きな人を当ててみようなんて話題になったら、真っ先にヒロトの名前が挙がる程度には、玲名はヒロトを異性として一番近くに置いて生活していたのだから。そしてヒロトもまた同様に、異性では玲名を一番近くに置いていた。だけど玲名には、ヒロトが自分をどう思っているのかわからなくなってしまう時がある。好かれている自信はある。ただそれを恋と自惚れて良いのかと問えば、ヒロトは色々な意味で優し過ぎた。お日さま園の中と外、そのどちらの人間を選ぶかと迫れば間髪入れずに前者を選ぶだろう。では、玲名と他のお日さま園の誰かを天秤に乗せた時、ヒロトはどちらを選ぶのか。それは、彼を追い詰める行為でしかないと思うから、玲名は想像でもその先には進まない。相手の感情を探りながら、答えに辿り着くことを恐れている自分に、玲名は自嘲する。
 玲名には優しいだけだと思われているヒロトの気持ちは、実は周囲がそうだろうなと検討をつけている通りのものだったりする。つまり、ヒロトは玲名と同じベクトルで彼女のことを想っている。だから、本当は大学進学と同時に始まったルームシェアの案に、「こういうのって良くないんじゃないかな」と言いたかった。ヒロトは玲名が自分を信頼して男女の差なんて度外視して同じ部屋に住むことを提案してくれたのだと思うと、発しようとした言葉がどんどん萎えて行ってしまうのを止めることが出来なかった。拒みたかったけれど、拒めなかった。だけど、拒まなくて当然の関係性が欲しかったのだとは、やはり言えなかった。
 だから、譲れないラインとしてルールを作った。玲名には、曖昧な関係の二人をしっかりと線引きする為と取られたそれは、ヒロトにとっては曖昧な関係でい続ける為のものだった。恋人でも、家族でも、完全な他人でもない人間同士が、こうして一緒に暮らしていることを、誰に責められても自分たちだけは揺らがないような、そんな後ろ盾が欲しかったのだ。先に進みたいと願う気持ちが消せないならば、現在点を詳らかにしておくべきなのだと、その時のヒロトは心底思っていたのだから。


 今日一日、心待ちにし続けた相手からの着信を一切受け取らないまま、玲名の土曜日が終ろうとしている。窓の外を見れば、もうすっかり夜と呼んで差し支えない暗がりが広がっていた。大分前からリビングのソファに座り込んでいたので、部屋には明かりが点いていないのだが、玲名はそのまま座り続けている。夕飯の当番は玲名だったけれど、何の準備もしていなかった。果たして今日、ヒロトは何時に帰って来るのだろう。そう考えて、遅くなるならば急ぐ必要はないし、外で食べるから要らないと言うのならば手間暇かけて作る必要もない。携帯を気にしているのは、ヒロトからの連絡を待ってしまうのは、だからなのだと唐突に言い訳を拵えても、今更だなと玲名も直ぐに撤回する。自分の気持ちにくらい、正直であるべきだ。
 きっと、ヒロトが外で自分の知らない世界に夢中になっているのではないかと疑うことが不安で仕方ないのだ。その世界というのが、男女関係だったりしたらと思うと、玲名は決まってもいない事項に絶望してしまう。だから、さっさと最後の一歩を詰めてしまえば良かったのだと心の内から声がして、だけどヒロトが自分以外の誰かと付き合ったとして、直ぐに今の生活が変わってしまう訳ではないだろうと救いにもならない現在の延長を弾き出す。言葉にして貰えないことがこんなにも不安になることなのだと、玲名は今になって初めて理解した。
「ただいまー」
 玲名の今にも泣き出してしまいそうな悲愴な思考とは裏腹に、呑気な声が玄関の方から響いた。ただいまなんて言いながらこの部屋に帰って来るのは玲名を除いては一人しかいないのだから、誰かなんて考えるまでもなくヒロトだ。ばっと俯いていた顔を上げて、玄関からリビングまでの廊下に顔を向ければ数日ぶりに見るヒロトがのたのたとこちらに向かって歩いて来ていて、当然ながらその姿は服装以外数日前と何ら変わりなかった。リビングまで来ると、ヒロトは手探りで電気のスイッチを押す。突然明るくなった部屋に、玲名は眩しさで目を細めた。
「玲名、電気も点けないで何してるの」
「…え…い」
「え?ごめん、何?」
「お前が悪いんだ!この馬鹿!」
「えっ、え?」
「この何週間も、ずっと外出ばっかりで!何処に行ってるのか聞いてもバイトの一言で!それで納得するとでも思ったのか?こんな顔も合わさない日が続けばもしかしたら一緒に暮らすのが嫌になったのかと思うだろうが!」
「ちょっと玲名、なんでそんな怒ってるのさ」
「お前が言葉足らずだからだこのあほんだら!」
 これまでの鬱憤と、直前までの不安がヒロトの呑気な声をきっかけに爆発してしまった玲名はこれでもかとヒロトを責め立てて、彼を唖然とさせた。そして玲名自身こんな大声を出したのは昔のサッカーの試合以来かもしれないと、久しぶりのことに肩で息をしながら若干の混乱を起こしていた。責めるつもりなどなかった。ヒロトは確かに言葉足らずだったけれど、それが完璧な落ち度かと聞かれれば玲名は首を横に振らねばなるまい。彼の性格など、とっくの昔に把握しているのだ。言葉が欲しかったのならば、もっと自分から言葉を発してそれを求めなければいかなかった。今更だけど、分かっている。じわじわと目頭が熱くなって来て、なんで泣きそうになるんだと必死に涙を堪えて、咄嗟にヒロトから目を逸らして下を向く。
「玲名?」
「うるさい、馬鹿」
「不安にさせたなら謝るよ。ごめんね」
「お前は悪くないだろう」
「そうだとしても、玲名が不安になった事実があるなら謝るべきだと思うんだ。そんなつもりなかったんだよ」
「…知ってる」
 段々とお互いの言葉が力無く消えそうになる。沈黙に落ちてしまえば、次は何もなかったように全部を誤魔化して会話を終えてしまうような気がした。今までだって、そうやって沢山のことを誤魔化して来たから曖昧なまま、唐突に襲う不安に打ち勝つことすら出来ないでいる。
 一度、乱れた呼吸を整える為に深呼吸する。そして意を決してヒロトを真っ直ぐに見詰める。今更、必死になっても大丈夫だろうかという迷いもそのまま消える。必死にならなければ、この先は望めない。
「――ヒロト」
「ねえ玲名、悪いんだけど俺から先に話させて貰っても良いかな」
「は、」
「俺はね、いつからってことはもうはっきりしないけど、ずっと玲名のことが一人の女の子として好きだったんだ」
「……!」
「何度も言おうと思ったし、機会だってあった。それでも、玲名も俺のことを嫌いじゃないだろうなって自信がちっとも揺るがなくて、そういう曖昧な状態に甘え続けて、今ではこうして一緒の部屋に住んだりしてるけど、この現状はきっと最良ではないだろうなって思ったら、もういい加減動き出さなくちゃって思ったんだ」
「ヒロト?」
「好きだよ玲名。俺のお嫁さんになって下さい」
「……っ!」
「……駄目、かな?」
「飛ばし過ぎだ!馬鹿!」
 普通は恋人になって下さいが先だろうと、真っ当な切り返しとそれでも彼の言葉を快諾する返事の代りに、玲名はヒロトに抱き着いた。きっと、小さな子どもの時以来のことに面くらいながらもヒロトはしっかりと玲名を受け止めた。そして、そこに籠められた玲名の気持ちも一緒に受け取って、その顔に満面の笑みを浮かべる。小さい頃からずっと隣にいた。そしていつからか抱いていたずっと隣にいたいという言葉に出来なかった願いが確かに叶うと約束された瞬間だった。

 因みに、どうして最近ヒロトがやたらとバイトに繰り出していたのかというと、やはりプロポーズをするには給料三か月分の指輪を贈るのが相場だと思ったかららしい。今回予定よりも早く告白した為に、資金はまだ貯まっていないとのこと。だから玲名は、もう過密なバイトスケジュールは組まないようにと釘を刺す。大体、二人ともまだ学生なのだからそんな高価な買い物はするべきではない。ヒロトはそこまで言うならば仕方ないと了承し、「まあ俺がいないと玲名は寂しがるみたいだしね」とその場を茶化す。普段ならばそんなことはないとそっぽを向いてしまう玲名だったが、今はとても気分が良かったので。にまりと笑んで自分の方を見ているヒロトに「そうだな」と微笑み返した。
 珍しい玲名の素直な言葉にヒロトは降参だと肩を竦めてみせる。そして明日は日曜だから二人で朝寝坊でもしようかと提案し、玲名も頷く。だがその前に、久しぶりに二人で食べる夕食を準備するのが先だと玲名は台所へと足を向けたのだった。



―――――――――――

最初で最後の一歩

■2012.02.12.発行のヒロ玲アンソロジー『Apprivoiser』様に寄稿させていただきました。



人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -