小さな体躯が「ふぎゅ」という、潰れるような悲鳴と共に地面に転がったのを見て傍にいた井吹は反射的に上から持ち上げるようにしてその身体を立たせてやっていた。そうしてすぐに死角から手を伸ばしたのは失敗だったかもしれないと頭を掻いた。森村好葉は、同年代の女子よりもずっと小柄な体格と周囲に苛められてきたという体験から同年代の少女たちだけではなく大きいものや怖いもの、攻撃的なものが苦手らしい。井吹は自分が相手に意図せずに威圧感を与えるとは、好葉が「おい」と声を掛けた途端に「ごめんなさい」と謝って来るまで思いもしなかった。バスケをやっていた頃は、尊大な態度と実力で相手を押し込めたりもしたけれど、それは相手にも敵愾心があってこそ感じられる力だ。
 森村好葉は小さい、弱い、憶病で、他人と距離を取ろうとする割には負の感情を閉じ込めることが下手くそですぐ態度に怯えとして現れてしまう。もたつく態度にイラつく人間もいるだろう。仲間でさえなければ、井吹も気長に待ってやろうなどとは思わないのだ。けれど実際には井吹と好葉は仲間だ。初めは自分の望む環境でバスケをする為の手段でしかなかったけれど、神童に馬鹿にされっぱなしは癪であるし、必殺技が出せるほどの実力が身についてくればなかなか楽しくもあるし、練習に付き合ってくれる剣城も悪い奴ではない。何より負けるということが、自分を強者だと思って生きてきた井吹には耐えられないことだからとことんやると決めた以上はサッカーでも負けるわけにはいかなかった。その点、黒岩に召集される以前の好葉は弱者だったのだろう。彼女に非はないとしても、彼女が身を置いていた環境の中で、それを構成する人間関係の中で彼女は軽んじられてきた。刷り込まれた恐怖は拭えない。スポーツをしていても、一度怪我をしてしまうとその箇所にばかり意識が向いてしまったり同じところをまた怪我したりするものだ。井吹の乱暴すぎる論理の飛躍は神童や剣城の耳に入っていたら否定されていただろう。お前と一緒にするなだとか、全てにおいて当人次第とはいえ心の傷だから好葉の場合はもう少し重大に捉えるべきだろうだとか。
 とはいえ、井吹は好葉の直ぐ縮こまってしまう態度に関してはきちんと重大な問題として捉えている。井吹はゴールキーパーだ。ディフェンダーに指示を出すこともある。しかし試合中に肩を叩いて和やかに頼みごとをするわけにはいかない。ゴール前から声を張り上げて、ほぼ手短に命令口調で指示することが殆どだ。皆帆や真名部は井吹が頼む前から動くことも多いが問題は好葉。彼女は井吹の大声が怖いらしい。ついでにゴールから距離を挟んでいても彼自身が大きく見えて怖いらしい。真剣な顔が睨んでいるように映って、自分の行動が愚鈍だと怒っているのではと不安になるらしい。そして終いには自分の考えが自意識過剰甚だしいと責められるのではないかという恐怖に辿り着きぐるぐると巡っているらしい。
 井吹は好葉の主張をマネージャーである葵から聞き出した。あまりに自分の顔を見ようとはしないので話をしようにも逃げることに関して森村好葉は井吹よりもずっと熟練していた。以前皆帆と真名部も彼女を読み切るのは難しいと言っていた。キャプテンである天馬はフィールドに出れば逃げる場所はないと言うがゴール前から離れるわけにも行かない。稀にゴールを放り出して点を取りに行くキーパーがいるらしいがそれはどうなんだと井吹は思う。日本代表内サッカー経験者三人組はそういうこともあるし、驚くけれど段々とテンションが上がるのだと教えてくれた。それから、でも絶対に井吹は真似しないようにと釘を刺された。言われなくともするものか!
 思考が逸れたが、兎に角井吹は好葉に一方的に怖がられている現状に大いに不満がある。今だって好葉が転んだのは大方自分の傍を早く通り過ぎようとして足がもつれたのだ。取って食いはしないというのに。それなのに、転んだ好葉を起こそうとして、正面から覗きこんでやらなかったことで彼女が要らぬ想像を膨らませてまた怯えているのではと井吹まで不安な気持ちになってくる。怒りだけでは状況が変わらないことは、いつの間にか頭の隅でしっかりと理解できていた。

「――怪我ないか」
「……う、」
「おい」
「! ないです!」
「――怒ったんじゃないから、そんなビビるなよ」

 自分の身体を確認してもいない好葉の怪我していないという発言などアテにならないと、井吹はじろじろと彼女の頭のてっぺんからつま先までを見下ろした。改めて見ると、自分の前に立つ好葉は本当に小さい。「そんなサイズで俺たちと同じ条件でサッカーしてて大丈夫なのか」と失礼な発言をしたくなるほどに。そして精神的に委縮している所為で、井吹の目には好葉が縮んでいくようにも見えるのだ。
 言葉で説明した所で、恐怖なんて拭えない。いくら井吹が危害を加えるような人間でもなければそんな意思もないと説明し続けても、好葉が納得するまでの時間なんて彼には操作できない。全ては好葉の心の采配次第だ。
 そんなのは全く以てフェアじゃない。文句をぶちまけたい気持ちを抑え込んで、好葉の髪に絡まっていた石ころを取って放り投げる。思ったよりも大きく弧を描いて飛んで行ったそれを、好葉は感心したようにじっと目で追っていた。

「――あ、ありがとう」
「おう」
「あの、井吹君は……」
「ん?」
「ウチのこと、怒ってない?」
「――、今言ったばかりだろ。怒ってない」
「本当に?」
「怒ってない。それよりお前こそ本当に怪我ないのかよ」
「……ちょっと鼻、ヒリヒリする」
「じゃあマネージャーに見せて来いよ。先に気付かれて心配させんな」
「う、うん」

 珍しく好葉から声を掛けて来たので、井吹の返事はどことなくぎくしゃくしてしまった。不審と威圧、或いは怯えを与えていなければいいのだが。マネージャーの所に行くよう促したのは、好葉を追い払いたかったからではない。ただ送り届けてもやれなかった。彼女が一連の井吹の言動に「ありがとう」と控えめな笑みを添えて寄越したのと同時に、井吹の頭と体は完全に停止してしまったのだ。好葉はそんな井吹を不審がることもなく彼に言われた通り怪我の手当てをして貰いに行くのだろう。
 ――井吹君、優しかった。大きくて、怖いけど、でも、優しい。
 漸く動きを取り戻した井吹が、好葉の怪我の具合を確認しようと自分もマネージャーの葵の元に着いたとき、彼女が葵に向かってたどたどしく打ち明けているのをこっそり聞いてしまった。思わずガッツポーズを作ってしまった井吹を、彼の後ろを通りすがった瞬木が怪しいものを見る目つきで眺めていたことには気付いていたが構わなかった。それよりも、好葉に優しいと言われたくらいでこんなに浮かれてしまう自分のことの方がもっと考えるべきことがあるような気がしたのだけれど、今はまあそう焦らなくてもいいだろうと深く捉えることはしなかった。
 ――焦るって、何を?
 そんなことすらも、気にしなかった。井吹は好葉に優しい。その事実を崩さないこと、それだけが大切だった。




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