「好きです」

 空気を吐き出すように囁かれた言葉だった。彼女はどこか遠くを見ていた。降り注ぐ夕暮れの光が強すぎて、神童の視界は白み始めていた。

「――ありがとう」

 心からの喜びを添えたつもりの返答は果たして。茜の耳に届いていたかどうか――。




 茜の姿を随分と見ていないことに気が付いたのは、テスト中の部活禁止期間があと二十分で終わるときだった。解答欄を埋め尽くし、見直しも終え、ぼんやりと最初から問題を流し読みすることにも飽きが来て見上げた時計。テスト最終日、午前中いっぱいのテストを終えれば一週間ぶりに解禁となる部活動を待ちわびている生徒たちばかりではないことを神童は知っている。半日で学校が終わることを良いことに平日の午後が自由に遊び倒せることを喜ぶ生徒の方が多いのだと、テストが終われば即座にサッカー棟へ足を向けていた神童が知ったのは実はつい最近のことだ。知った所で、自分の生活サイクルが変わるということもないのだけれど。
 クラスが違う部員とは、テスト前に勉強会という名目の元放課後神童の家に集まって顔を合わせていた。雷門はサッカー強豪校だが、だからといってサッカーだけしていればいいという増長意識は持ち合わせていない。赤点を取ろうものならその部員は補習中一切の部活動を禁じられる。その為みんな必死になって勉強する。神童は基本的にテスト前に焦ることはないのだが、一部の部員の為にテストの度に自宅を提供し赤点を回避するべく教師役を担わされている。その場にいたのは男子部員だけで女子マネージャーは来ていなかった。女子は女子同士集まっていたのかもしれないし、助っ人を用意しなくても自主勉強だけでテストを乗り切れる余裕があったのかもしれない。神童と茜のクラスは違うので、その一週間の間一度も顔を合わせていないことになる。勿論、声も聞いていない。遠目で見かけることもできなかった。

『好きです』

 あれは神童に向けた告白だったのだろうかと、日に日に自信が失われていく。ありがとうと贈った言葉は、もしかしたら不適切だったのかもしれない。神童は、茜よりもずっと直接的に瞳を潤ませて、上目遣いに体を縮こませながら思いの丈を訴えてくる少女たちにも同じ言葉を返してきた。
 ――ありがとう。けど、俺は今サッカーを最優先したいんだ。だから悪いけど、キミとは付き合えない。
 言葉の長短はあるけれど、毎回似たり寄ったりの言葉しか出てこない。知らない少女たちから好きと繰り返されても、毎度心が動かないのだから仕方がないのだと言い訳をして。それでも、好きと本人に告げる勇気への敬意として礼を述べる。自分にはできないことだから。サッカーへの情熱を隠れ蓑にするなんて、小狡いことをしている。
 茜のことを好きだと思った初めての瞬間はもう思い出せなくて、すとーんと音を立てて落ちるような恋ではなかった。わかりやすい彼女の関心が、煩わしく思えなくなった過程が答えなのかもしれない。一途だったレンズが、茜自身が抱き始めたサッカーとサッカー部の面々への愛情によって矛先を移しはじめたことを当時の神童は何とも思っていなかったのに。
 二人きりの放課後だった。テスト前の部活禁止期間に入る為しばらくサッカー棟も鍵が閉まったままになる。ロッカーへの忘れ物はその日の内に回収しなければテスト終了まで取り出せなくなってしまうので、神童は一緒に帰っていた霧野を先に帰らせて引き返した。ロッカーに入れっぱなしになっていた翌日の授業で使うプリントを鞄に仕舞って、サッカー棟を出ると校舎へと続く渡り廊下のベンチに茜が座っていた。手にはいつものカメラがあって、今日撮った写真を確認している様だった。表情は穏やかな微笑みを口元に浮かべていて、そこには他者を受け付けない茜の世界が完成していた。踏み込まなくとも、帰路に就くことは簡単だった。ただ自分のいない場所で満ちたりた茜の姿を見て何もせずに通り抜けることは逃げだすように思われて、半ば急かされるように名前を呼んだ。
 神童の声に顔を上げた茜が、随分大袈裟に驚いた顔をするからもしかしたら彼女が見ていたのは自分の写真なのではないかと期待して、確かめなかった。近付いていくと、隣に置いていた荷物を足元にどかしてくれたので腰を下ろした。スムーズに落ち着く場所に落ち着いてしまって、用事もないのにこれでは何かしら会話を弾ませないと茜だって帰りにくくなってしまう。だから適当に言葉を繋いだ。テスト前は意外にも話題が様々に転がっていて、部活が出来ないことへの不満だったり、テスト範囲の確認だったり、気詰りに沈黙することなく喋ることができていた。だから正直よく覚えていない。茜が「好きです」と呟くまでの文脈も、彼女の表情も。だって彼女は、神童の「ありがとう」にただ頷いて、それじゃあと荷物を手に取り帰ってしまったから。それを引き留めようともせず見送ってしまった神童も神童だけれど、あの時はそうすることがとても自然に思えたのだ。好きです、だからそれじゃあと立ち去って行く茜の姿は流れるように神童の前から消えていく。手を伸ばしても、きっと掴めなかった。



 チャイムが鳴って、教師が列の最後尾の生徒に用紙を回収するよう声を張る。随分と思い耽っていたようだ。用紙が回収される直前、見落としたミスがないかと一瞬の不安に駆られるけれど引き留めようがないのだからと敢えて視線は注がずに提出した。

「どうだった?」

 同じクラスの霧野が後ろの席から尋ねて来るが、彼は神童が答えるよりも先に「まあ聞くまでもないよな」と答えを出してしまう。だから神童は何も言わないでおいた。

「でもさ、神童珍しくギリギリまでシャーペン握って考え込んでたよな。そんな難しかったか?」
「ああ、いやテストとは全然関係ないことを考えてたんだ」
「サッカー?」
「そこから転じてとある人物のことを」
「ふーん」

 本当にこの幼馴染はよく見てくれていると感心しながら、筆記用具を仕舞う。あとは担任が戻ってきて帰りのSSHRを終わらせれば部活に行ける。テスト終了後の昼食はサッカー棟で食べる人間が多い。そこにはきっと茜も来るだろう。夕暮れに去っていった彼女は、きっといつも通りマネージャー同士固まって笑っている。そして神童は何と切り出せばいいのだろう。そもそも全ての言葉が神童の空耳なんてオチだったら笑えもしない。

「神童?」
「なあ霧野。好きって言われた気がするんだがそのままそれじゃあと相手が帰ってしまったときオレはどうすればいいと思う?」
「ちょっと意味わからないな」

 神童の真顔の問いかけは、霧野に眉を顰められて終わった。神童が自然と思っていた一連の流れは、どうやら意味がわからないものだったようだ。神童にだって、今となってはわからないのだけれど。

「なあ霧野、オレ好きな人がいるんだけど」

 情報を最初から整理した方がいいのかもしれない。一人では煮詰まってしまうから、霧野を当然のように相談相手として巻き込むつもりでいる。大前提を打ち明けなければならないから、恥ずかしさがないわけではなかったが正直に好きな人の有無を打ち明けた瞬間、霧野は思いきり椅子から落ちた。

「どうした?」
「何で俺に言うんだよ」
「変か?」
「変って言うか、まあ、本人に言えば?」
「なるほど」

 なるほど。もう一度心の中で繰り返す。本当は好きな人がいて、そこからその相手とのやり取りの意味を一緒に考えて欲しかったのだが、霧野は話し相手を辞退したいようだ。教室でするような話ではないのかもしれない。いくつか机を挟んだ場所から視線を感じる。別方向からも。そういえば、この教室内にも神童に告白してきた少女は何名かいてその全てをサッカーを理由に断ったのだ。好きな人がいるなんて、聞かせない方がいいだろう。面倒だ。
 ――好きって言うのは難しいな。
 告げられた言葉を思い出して、改めてそんなことを思う。
 ――あれ?
 告げられて、けれど自分は告げなかったことに神童は漸く思い至った。ありがとう。想いは籠めたけれど、もう少し具体的な言葉を添えた方が「それじゃあ」なんて言葉に続かない可能性が広がったのだろうか。ああしくじったと悟ると同時に、神童は勢いよく霧野の方を振り返った。彼は机に突っ伏していたので、晒されていた後頭部を軽く叩いて起こした。それでも神童にしては珍しい乱暴な対応に、霧野は随分驚いたようだった。

「告白って、部活の前と後のどっちがいいと思う!?」

 やはりタイミングは大事だろうから。勇む神童とは正反対に、気圧された霧野は仰け反りながら天井を数秒間見つめた。

「お前、サッカーできなくておかしくなってるんだよ……」

 呆れたように肩を落とす霧野に、失礼なと抗議する。確かに一週間のサッカー禁止は堪えているしボールを蹴りたいという欲求が高まっているのを否定するつもりもないがそれを理由におかしくなっているなどと言って欲しくはない。だって神童は恋をしているのだから。おかしくだってなるだろう。
 それで結局、告白は部活の前後のどちらにするべきなのだろうか。いくら急かしても、霧野は答えを教えてくれなかった。薄情な幼馴染である。まあいいだろうと神童は大人しく前に向き直った。茜を見つけたら。二人きりになれる場所に連れ出せるチャンスがあれば。訪れなければ部活が終わった後に呼び止めよう。生真面目に段取りを考える神童の背中に、霧野の気の毒がる視線が注がれているとは気付かない。
 ――なあ神童、茜はお前にフラれたと思ってて今日の部活の後に俺と残りのマネージャーを巻き込んでセール中のドーナツを腹にかっ込む気なんだぜ。
 実は全て知っていましたとも、茜の現状も神童の為を思って口を噤んでいる霧野は、もしも神童が部活の後に茜に声を掛けるつもりならば多少協力してやってもいいと思っている。水鳥あたりはフッておいて何の用だと喰ってかかりそうだけれど、足止めするくらいできるだろう。何と言っても自分は情に厚い幼馴染なので。



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アイラブユーそれに会いたい
Title by『さよならの惑星』



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