※旅の途中


 目を覚ますと、見知らぬ天井と悪意のない瞳の少女が困ったようにみのりを見つめていた。どうして自分がこんな――病室よりも生活感を持った、しかし記憶にある自室よりは余所余所しさを残した――所にいるのかさっぱりわからない。近頃は、目覚めの感覚に瞳を開くと同じような状況にばかり遭遇する。直前の記憶が思い出せずに、霞掛かった視界を晴らそうともがいてもずぶずぶと再び意識が沈んでいくだけ。今だって、瞼を開くのは随分と久しぶりな気がしている。けれども実際はどうなのだろう。みのりの顔を覗き込んでいる見知らぬはずの少女だって、やはり見知っているようにも思えた。同じジャージを着た連中の中で、はっと目覚めて反射的に喧嘩腰で掴みがかった記憶。それが夢ではないのなら、その時に視界の端に掠めていたのかもしれない。全ての出来事に、夢ではなかったのならと前提を設けると、みのりの現実に対する認識力はここ最近でやけに低下してしまっている。
 上体を起こすと、やはりベッドの上に横たわっていたようだ。自分の意志で就寝した記憶はない。それよりもここはどこだろうと見渡すと扉があって、自分の目で確かめるのが一番だと起き上がる。ふらつかない足取りは、自分がとっくに健康体を取り戻していることを意味する。生死の境を彷徨い病院にいた頃の記憶の方が確かというのは、みのりに今この時を生きているのか死んでいるのかの境界を不安定にさせた。けれでも天性の気性の激しさがあったから、“寧ろ”と言葉を足すくらいの勢いでみのりの歩みは止まらない。邪魔をしたのは、彼女の服の裾を掴んで来た名前も知らない少女の指だった。

「ど、どこ行くの?」
「どこでもいいじゃん」
「あの、でももうみんな休んでるし」
「別に誰にも迷惑かける気はねえよ。外に出たいだけなんだけど」
「外って――宇宙だよ?」
「は?」

 小さな丸窓から覗く世界は、夜とするには暗く低い。しかしあっさりと納得するにはみのりはそれほど非常識ではなかった。声を大にして、出まかせを言うなと責め立ててやろうか。睨んだけれど、少女はきちんと事情を話すから、嘘は吐かないからと、やけに真剣に真っ直ぐに見つめて来るものだから柄にもなくみのりの方が怯んでしまった。名の通った不良だったみのりを、同じようにはぐれ者に落ちていない少女が真っ直ぐに視線を合わせて来ることは本当に珍しいことだった。そうして呼吸を落ち着けて、みのりも相手をじっと見つめ直した時思ったのは自分の縄張りから随分遠くへやってきてしまっているなという疲労感だった。
 それでも意固地にひ弱な指先を叩き落として、一瞥も与えずに駆け出すことはきっと容易かった。けれど何処へ行けたというのだろう。宇宙は広く、列車は進む。前後の感覚すらないはずなのに、進行方向だけははっきりしていて一足飛びに光年を駆けるのだ。開こうにも力の入らなかった瞼を諦めたあの日から、もしかしたらずっと長い夢を見ていたのかもしれない。

「夢じゃないよ」

 青い髪のショートボブ。肩に垂らしたみのりの長さよりも女の子だった。声音が耳を浸食して居心地が悪くなる。

「悪い夢だろ。でなきゃ、こんなところいれるかよ」

 吐き捨てた虚勢に、少女は悲しげに瞳を揺らした。――何故、みのりの世界に関わりのない他人の悲哀は重たい。
 みのりが外に出て行くことを諦めて横たわっていたベッドに腰を落ち着けた時、勢いで少女の指は離れ彼女もまた――彼女の物なのだろう――もう一つのベッドにみのりと向き合う形で腰を下ろした。
 見知らぬ部屋としか形容できずとも、染みついているのはみのりの匂いでそれが薄気味悪かった。その中に馴染むように存在している目の前の少女も、本当に人間かだろうかと疑いたくなる。下から窺う目線はしかし怯むことなく間合いを測っていた。戸惑いは感じさせる。けれど岩城中のミノタウロスなんて物騒な二つ名――自分らしくあるとみのりは思っている――を持つみのりに対しては当然とも言える、しかし問題はそこではないのだと訴えるような視線。

「隣、座ってもいい?」

 どうして頷いてしまったのかわからない。戸惑いは未だ双方にあり、その場しのぎの逃げ道は扉ひとつ、はっきりと見えている。くぐれば追ってくるのだろうか。眩惑の中だとして、誰かに手を伸ばすのは勇気がいる。拒まれるかもしれない恐怖と、気まずさにおどけてみせるだけの鎧と。煩わしいとみのりが捨ててきたものを、少女はその全てを抱えて差し出そうとしていた。

「夢なら――夢だから拒まないで」

 そう、震える声で紡がれた言葉にその意味を尋ねるよりも早くみのりの唇に触れたもの。
 ――ちか、い。
 柔らかかった。視界を埋めた少女の顔は近過ぎてよく見えなかった。一瞬のことで、けれど何をされたのか察しはついてしまって、少女の肩を掴んで引き剥がせば泣きそうな顔をしていた。泣きたいのは此方の方だと舌打ちする。訳の分からない宇宙に突然放り出されて、何処にも行けなくて、名前も知らない少女に唇を奪われて、それなのに。

「馬鹿かよ」
「――うん、そうかも」
「………」
「でも、夢なら触れてもいいんじゃないかなって……。ごめんなさい」

 何が悲しいのだろう。みのりが周囲の全てを夢と疑ってかかった瞬間に揺れた瞳から、ずっとわからないまま。夢じゃないと言い張った側が、みのりの主張に縋りつくなんておかしな話だった。抱いてしまった想いを向ける相手すら定まらず、戯れの情すら交わせずに浮かんでくることのないみのりの横顔を見つめ続けた少女の積み重なった苦痛を知る由のない彼女の鈍感さ。罪はない。想うことにも、関わろうとしないことにも。ただ、タイミングが悪かった。浮き上がる瞬間、操れるたった一人は今頃先頭車両の扉の向こう、ピエロの姿で少女たちに道化よりも性質の悪い戯れに落としてしまった。
 一夜の夢に過ぎないとみのりがこの一瞬の邂逅を忘れてしまうのならば、どんなひどいことも許されなくとも流されていく。失望も希望もないまぜにして触れた唇を、少女は決して瞳をあげて見つめようとはしなかった。みのり本人よりも、操れない自分の心の方がずっと怖いものだとそれ以上何も溢れでないように俯いている。
 そんな少女の姿が、小窓の向こうの宇宙を指差されるよりもずっとみのりには辛い現実の姿と映る。

「夢じゃないだろうが」

 吐き捨てて、唇を噛んだ。夢の中で無くした初めてのキスの味と、二つのベッドが並ぶ部屋に満ちる自分と少女の匂いを、みのりはもう覚えてしまった。
 夢はもう、とっくに醒めている。



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純情の消失
Title by『彼女の為に泣いた』



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