※雪村→茜 ※スカウト設定 ずびずびと何度も鼻を啜りながら、目を開けているのもしんどいだろうに悪態をつき続ける雪村に、茜は妙なところで頑ななのだと(根性があると似たような意味で茜は捉えている)感心した。そのことを伝える為に、口を開けば、どうしてか紡いだ言葉は「可愛い」の一語で、雪村は益々へそを曲げて布団をしっかり首元まで引き上げた。けれど頑なが過ぎて、いじけた仕草の結末は首回りが布団でごわついて苦しいだろうと茜はその布団を寝苦しくもなく決して寒くもない位置へと引き下げた。雪村は張り合わなかった。 雪国で生まれ育った雪村が、本州の寒さに負けて風邪をひくとはチームの誰も予想しておらず、彼と同じ土地勘を持つ吹雪は笑いながら「寒さは関係ないよ。環境の変化、ただ違う、それだけがとても攻撃的なんだ」と己の不甲斐なさに項垂れる雪村を励ましていたけれど、当人にはあまり効果がなかったようだ。保健室のパイプベッドに横になってから、ずっと天井を睨みつけている。看病の為に枕元に椅子を引いてきて座る茜は、雪村の額に乗せたタオルの冷たさを確認して取り替える以外には今の所仕事がない。病人が心寂しくないように何か楽しい話をしようと思っても、具合が悪くては楽しくないかもしれないとつい口を噤んできた。そもそも雪村はどうにも言動が攻撃的でいけない。そんなだから、本州の空気だって彼に攻撃的になるのだと想像に拍車がかかってきたところで茜は首を左右に振り、それこそ攻撃的な思考を追い払った。病人には優しくしてあげなければ。それがあまり仲良くない相手であっても、今は同じチームの仲間なのだから。 「――何か飲む?」 「いらない」 「水分取らないと、ダメ」 「じゃあ飲む」 どうせ飲むなら一度目で素直に頷いて欲しい。思ったけれど言わない。非難すれば、雪村はどうしてか応戦しようとする。病人の体力でやっていいことではない。キャプテンである天馬の言うことは――試合中は神童の指示も――全くの素直にとは言えないけれど聞いているし、やはりサッカーで以てしか他人と通じ上げない人種なのかもしれない。初めて雷門中が白恋中と戦ったときも、彼は自分のサッカーを育ててくれた吹雪の裏切りに失望してやたらと拘っていたから、一度懐いたら驚くほど深いところまで他人を入り込ませて、そのくせ繊細なのかもしれない。 保健室の冷蔵庫から冷やしておいたスポーツドリンクを取り出して、ボトルの方が飲みやすいかと見渡したけれど部室から持ってきていなかったようなので諦めてそのまま雪村に手渡した。茜が椅子に座るのと反対にのろのろと起き上がる背中に手を添えてやれば、大袈裟なほど震えた背中がしっとりと汗ばんでいて、茜は次にするべきことは着替えだなと目処をつけてその為に雪村に掛ける言葉を慎重に吟味した。尤も、吟味した所で茜の口から慎重な言葉だけが紡がれるかというとそんなことはなく、先程のように雪村からすれば脈絡もなく「可愛い」と吐き捨てプライドだけは一丁前に男の雪村を憤慨させてしまう。ただ、茜だってきちんと考えているのだから発する言葉の意図を正確に捉えて、偶には大人しく賛同してくれてもいいではないかと思うのだ。思うだけなので勿論伝わらないけれど。 ちびちびとドリンクを飲んでいた雪村の動作をじっと観察する。距離が距離なので、雪村は気まずそうに(同時に眉を顰めたので、茜には不機嫌そうに映った)顔を逸らした。そうすると、茜としては追いかけてでも顔を覗き込みたくなる。逃げられたら追いかけなければならないという性格をしているとは思わないし(それは寧ろ友人の水鳥の方だろう)、興味のないことを放っておくことに茜は何の抵抗もない。だから、どんな感情を働かせているかは判然としないままだけれど、雪村に無関心というわけではないのだ。 けれど雪村の方は、どうやら茜のことがあまり好きではないようだ――というのが彼女自身の所見である。タオルを渡そうとすれば逃げていくし、ドリンクを渡そうと逃げ道を塞げば目一杯手を伸ばして一定の距離を保とうとする。カメラを向ければ顔を背け、名前を呼べば眉を顰めてぶっきらぼうな声が返ってくる。接触する機会なんてこれくらいなのに、どうしてこんな嫌がられてしまったのか茜にはわからないのだけれど。けれどまあ、受け入れてくれなんて言えるほど与えられるものもないから、仕方ないのだ。水鳥や葵は、茜ほど露骨な拒絶の態度は取られていないようだから恐らくは茜が何かしてしまったのだろう。心当たりはないから、謝らない。これはたぶん、雪村のものと似た頑なさだ。 雪村との出来事を思い返していたら、何度か鼻の奥がツンとしてきた。泣くタイミングとしてはおかしいので、茜は懸命に滲みそうになる涙を引っ込めた。顔を背けている雪村は気付かないだろう。この隙にと、茜はまた席を立って着替えの際に汗を拭くタオルを取りに行く。備え付けの水道からお湯にタオルを浸して、できるだけしっかりと水気を絞ってから戻る。 「汗、拭こう。それから着替え」 促すと、雪村はぼんやりと茜を見上げてきた。茜が看病役として付き添い始めてからずっと顰められていた眉も、やっと解かれている。熱が上がったのかなと、反射的に額に触れようと伸ばした手は届かなかった。同じように、雪村が反射的に顔を背けたから。小さな拒絶だったけれど、今まで似たようなものを積み重ねて来たから茜は何だかとても疲れてしまった。雪村が水分を取るために起き上がった際に額から滑り落ちていたタオルが布団の上に転がっていたのを拾い上げると、汗を拭くためのタオルを彼の手の上に乗せた。そして間違っても肌に触れないよう、素早く、ペットボトルを取り上げた。抵抗はされなかった。 「着替え終わったら、呼んでね。洗濯して、それで、私、誰かと、此処にいるの、変わってもらうから」 言葉が滑らかに喋れない。元々、言葉数を多く重ねて畳み掛けるタイプではなかった。けれどこれは、せり上がってくる嗚咽と戦いながら喋っているから、上手く喋れないのであった。つまるところ茜の涙腺はもう結界寸前のところにいて、雪村の冷たい態度に疑問はあったけれど、傷は持たないつもりでいたから、本人も予想外の感情が爆発して、耐える意外に方法がわからない。 茜の突然の意思表明は、雪村を驚かせたようで再度見上げてくる瞳は病人の虚ろさとは違う何かが浮かんでいた。焦りや混乱を見抜くには、茜はもう彼の瞳をまじまじと見つめるだけの余裕がなかったので二人の間には沈黙が落ちる。 「――変わるって、誰」 「水鳥ちゃんか葵ちゃん」 「ふうん、まあ、誰でもいいよ。あんたがいると落ち着かないから」 「ねえ雪村くん」 「なに」 「嫌いなら、きちんとそう言うべきだよ」 「は?」 「遠回し過ぎて、私、なんだか疲れちゃった」 「何の話――」 「私も此処にいると落ち着かない。私のこと攻撃するってわかってる人の傍になんかいたくない!」 「ちょっ、」 きっと茜はぼろぼろと零れる涙と勝手に漏れる嗚咽のせいで顔を歪めながら雪村を睨んでいる。いつもとは逆。雪村は、茜の反撃にわかりやすいほど狼狽えていた。力なく伸ばした腕が茜の方に近付いたけれど、茜は足を引いてそれを拒んだ。途端、傷付いたように雪村が瞳を揺らすから茜は悲しくなった。傷付けてしまったかもしれないことにではなく、この期に及んで何も言わない雪村に苛立ちよりも失望が勝る。傷付けるくせに、綺麗に嫌いとも言えないなんて情けない。理由もなく、拒まれてきた自分がみっともない。 「……嫌いじゃない」 ようやく雪村が絞り出した言葉は、しかし茜が待っていた言葉とは正反対だった。否定したって、信じられるはずのない言葉。雪村が茜に取って来た態度は、チームメイトとしての期間が短いからでも、女の子そのものを疎んでいるからでもなく茜個人にだけ向けられてきた剣呑としたものだ。そこに嫌悪がないだなんて、茜はもう信じてはいられない。 「――嘘吐き」 絶望的な拒絶の言葉に、雪村は途方に暮れた顔を濃くする。青褪めた顔色は、風邪による悪寒のせいだけではないとしても茜はもう彼を労わらない。 籠められたたった一つの真実の言葉が届かないのなら、病床に縫い付けられた雪村に茜を捕まえる術はこれ以上なかった。身軽な身だったとして、雪村に明確な境界線を引いた彼女の元まで駆け寄れる勇気が彼にあったかどうか。それは甚だ疑問だけれど。 発熱と、緊張と焦りで背中を伝う汗の感触が気持ち悪い。頭が痛むし、視界もぐらぐらと揺れている。 (――嘘吐き) 再び耳に響いたじっとりと妬むような、それでいて鈴のようにか細い声が果たして本当に茜の呟いたものなのか、はたまた雪村の脳内で再生された巻き戻しの音だったのか、その区別ももうつきそうにない。 ここは何故だか、凄く、寒い。 ――――――――――― 本当は愛していたんでしょ、あの子のこと Title by『彼女の為に泣いた』 |