ソファに座り、腕に残る鬱血の痕に触れる。キスマークと呼ばないのは、茜の中でキスという行為に対する甘やかな印象が抜けていないからだろう。膝に乗せた剣城は目を閉じたままぴくりとも動かない。けれど茜には彼が眠ってなどいないことがわかっている。独占欲よりも支配欲の方が厄介なのだなと茜は瞼を閉じる。トレードマークだったピンクのカメラは部室のロッカーにしまっておいた。ファインダー越しに覗く世界すら取り上げられてしまったら、茜はどう他者と関わって行けばいいのだろう。唯一なんて、特別とイコールではないはずなのに。瞼の裏に剣城の姿を思い浮かべて、あの人は変わってしまったなんて呟けばまるで悲劇のヒロインみたいだろうかと自嘲する。けれどこれは悲劇なんかじゃない。いつの間にか二人の歯車の噛み合いが僅かにずれてしまっただけで、まだ自分たちの恋人という関係を維持していられる。或いは、どちらかの歯車が壊れていたとしても――どちらの歯車であるかを茜は知っているけれど、もしかしたらそっちではないかもしれないという可能性に期待している――、第三者に脅かされたわけでもない関係を解く必要はないと茜は思っている。けれどやはり、部活中にカメラを構えて剣城以外の人間を追い始めると険しくなる、またそれを隠そうとしている内に結局不機嫌が浮かんだ顔つきになってしまう彼のことを思うと、壊されるより早く自分から隠してしまった方が安全だということになり茜は一昨日からカメラをしまったのだ。それは茜の意志であったけれども、そうではなくて、目に見えない剣城からの束縛を振り払おうとしない自分にも問題があるはずだから、茜はカメラを構えない彼女に違和感を持った周囲の人間に何を聞かれても「調子が悪いの」の一点張りを通した。元来、微笑むばかりの茜に過度な詮索をかけても暖簾に腕押しで、誰もが調子が悪いのが直ったらまたカメラを取り出してくるのだろうと判断して立ち去ってくれた。それが茜と他人との距離の取り方だった。
 けれど剣城に関してはそれが通じない。一から十まで詳らかにする不躾を許したわけではないし、剣城もそれを求める人間ではなかった。それでも、剣城に言葉を濁しておくことはいつかの自分の為にならない気がする。嘘を吐くよりは、隠しておくだけの方が善良ではないのだろうか。瞼を閉じたまま茜は考える。触れたままの鬱血痕。腕だけではなく、目に見えない制服の下、鎖骨付近や腹、背中や太腿にも散らばされたそれらの数を思い出せる限りで数えてみる。

「剣城くんは、私のこと食べて、いつか殺しちゃうのかな」

 体中に散った痕がじわじわと這い上がってくる逼迫感。這い上がり続けた剣城の痕跡が、彼以外の人間と喋る口や彼以外の人間を見つける目を塞いだら、この痕は優しい愛の印になるのだろうか。若しくは今も、剣城にとっては愛故の優しい愛撫のひとつなのだろうか。

「茜さん、最近写真撮らないんですね」

 茜の膝の上から瞼を閉じたまま、彼女の言葉は無視をして、剣城は問う。語尾を殆ど上げない、低い問いかけ方が好きだった。必要に迫られた疑問ではない、他愛なさが気に入っていた。今は、どうでもいいことなら放っておいてくれればいいのにと思う。茜は出来るならば、剣城と張り合うように向き合うのは避けたかった。ともすれば、だってあなたが嫌そうな顔をするから私は好きなことを我慢しているのにその言い草は何なんでしょうねと攻撃してしまわないとも限らない。勝敗はいつだって泥中に置き去りにして、それでも自分たちはお互いに恋をしているのだという事実を突きつけられて全ての物事の方向性を見失ってしまうだけだとわかっているけれども。

「剣城くん、私が写真を撮るの嫌いでしょ」

 或いは、写真を撮る為に私が誰かに視線を定めることが。それでいて剣城は自分が積極的に被写体になると代替案を寄越すわけでもないのだから、妥協点は茜が提案するしかないのだ。

「別に、好きとか嫌いとかはありませんけど」
「――嘘吐き」
「嘘じゃないですよ」

 確かに、写真を撮ること自体に関心はないのだろう。被写体を問題視しているだけだから。けれどそれにしたって茜は剣城と付き合い始めてから不自由の文字を纏わずには動けない状況にいるのだし、だがそれも全て茜が剣城の顔色を窺って先回りしているだけの話だと片付けられたら、自分の振る舞いに陶酔しているのは茜の方になるのだろう。
 得意げにならないで欲しい。剣城の額に抗議の掌を当てる。直ぐに掴まれて、口元に運ばれた。掌に、唇が触れる。

「――これはキス、だね」

 剣城に掴まれている手の、十数センチ離れた場所には鬱血。キスとの違いなんて付けなければよかったのかもしれない。そうすればいつだって、二人の間にあるのは甘やかなものばかりだったかもしれないのに。

「茜さん」

 上体を起こし、剣城は両手を茜の肩に置く。突然失った重みに、太腿が痺れていた。覗き込む瞳は、不敵というより不気味で、茜は剣城を剣城として認める確認作業をしなくてはならない。数秒前までここにいたのだから、今目の前に見てる彼だって同じ人物であるはずだ。

「写真撮ってもいいんですよ」
「………」
「誰を摂っても、それは茜さんの自由ですから」
「……でも」
「でも、茜さんが写真を撮ってる方がオレといるより楽しいとか大切だとか思うんだったら――」
「思うんだったら?」

 真っ直ぐに、続きを促す。怯んでくれるはずもないけれど、寧ろ剣城は茜がきちんと自分の言葉に意識を集中させていることに満たされているらしかった。

「食い殺すのも、いいかもな」

 茜に覆い被さるように光を受けない剣城の表情は狂っていて、けれど口元に象られた笑みが幸せに見えたからそれでいいのだろう。茜はそれを受け入れた。いつか両肩に置かれている剣城の両手がするすると移動して茜の首を絞めたとしても、迂闊な振る舞いで食い殺されたとしても、それはそれでいいのだ。
 首筋に埋められた頭を拒まない。残される鬱血も、そこならば制服の襟で隠れるだろうから。茜の寛容と、怠惰と妥協、そして紛れもない愛情がきっとこの先も剣城の狂気を受け入れていくだろう。圧倒的な捕食者を前に抗わない、それが茜の愚かしい賢さだった。



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Title by『さよならの惑星』



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