神童がフラれたらしい。らしいというのは見知らぬ他人の噂話を小耳にはさんだからではなく。部活が忙しく、中学に上がってからはあまり訪れることのなかった神童の豪邸、彼の自室で慣れない高級茶葉を使用した紅茶をすする。露骨に肩を落とし、溜息なのか落胆の声なのかの合間に挟まれる神童にしては整然としていない話を総括するとそういうことになるのだろうと、聞き手である霧野が判断したのである。
 男女間であったり、世間一般であったり人の目に触れる美意識に留まらず、霧野の基準値は幼馴染の神童によって無意識のうちに引き上げられていると眉を顰めながら指摘してきたのは生意気な部活の後輩だった。下手に観察眼の鋭い奴だから、霧野も積極的な議論に持ち込む気は更々なかった。そんなことはないだろうと、純粋な本音と相手に噛みつかれないであろう無難な言葉を返してその場は終わったはずだ。相手にしても常々思っていることをつい口を滑らせてしまっただけで、何かを覆そうとしているわけではなかったのだろう。そういうと思ったと肩を竦めて行ってしまった。
 ――まさか神童がフラれるなんてなあ。
 そう思うのは、幼馴染としての優しさではないだろうか。考えながら、後輩の言葉も同時に思い出す。神童がフラれるなんておかしいと思っているのは、幼馴染として彼のことを素晴らしい人間と認めているからではなく、いつの間にか神童のもつ平均からは多少逸脱したステータスを標準にしているから、それに及ぶ人間など滅多にいるはずがないのにと見知らぬ他人をいつのまにか侮っているということか。どちらにせよ、神童に素気無くする女子がこの世にいるとは驚きだった。端を発する感情が違っていたとしても、その想いに偽りはない。
 顔が良く、成績もよく、運動も出来て、家が金持ち。学校では頬を染める女子に熱い視線を送られ、男子たちには嫉妬する気概すら抱かせないほど突き抜けてしまっている。そんな神童の幼馴染である霧野に対する視線も似たようなもので寧ろ神童よりも気安さが滲み出ているらしく交友関係は霧野の方が広かった。霧野はそれを神童に対する自分の庶民らしさだと思っていて、また気に入っている。
 周囲が想像しているほど神童が特別ではないことも、サッカーボールを取り出して来ればただのサッカー少年になることを霧野は知っている。豪奢な自宅に招かれても、霧野が連れ出さなければ同い年の子どもたちの大半が体験しているようなこと――駄菓子屋での買い食いだったり、河川敷での水切りだったり、他愛ないことばかりだけれども――を知らなくても、それだけのことだった。ピアノだけはお上品だなと眺めていた。家庭毎に違う習慣、違う食卓、違う空間があるのと同じことだと霧野は思っていた。それは幼馴染として感覚が麻痺していたというよりは、霧野の性格が深く考えるべきところとそうでないところをすっぱり分けてしまうせいだろう。他人の上に立つよりも、他人と同じ視点に立って世話を焼くのが得意だった。そのくせ他人に相談することが不得手で、ひとりで考えすぎて災難に見舞われることもある。また部活の生意気な後輩の顔が過ぎる。それから神童の顔も。悩んだけれど、その大半が解決して過去のことだから霧野の心は穏やかだ。失恋して落ち込んでいる幼馴染を前にしても、「この紅茶は酸っぱくて飲みにくいな」なんてことを考えている。言葉にしても、きっと神童は怒らない。


 神童曰く、直接告白してフラれたのではなく気になっていた相手に恋人ができてしまったらしい。そもそも気になっている相手がいるとは知らなかったと瞳を見開いた霧野に――それはただのポーズで、言葉通りの驚きは神童の話を繋ぎ合わせていた途中で済ませていた――、神童は照れくさそうに笑った。それだけで、初めて見たはにかみに彼の拙い恋心を垣間見た気がした。見込みのない、終わってしまった恋だと当人は思っているようだけれど。アプローチは仕方がわからないから、不躾過ぎない程度の視線と、細々とした会話で十分だと思っていたと言う。実際には十分だと思い込もうとしていただけで、そうでなければ失恋なんてしないのだ。自分の魅力をわかってもらうことが恋ならば、神童はもう少し自己PRを学ばなければならない。苦笑する霧野に、神童も同じように頬を緩めた。疲れたようなその笑みと、「そういうのは、苦手なんだ」という呟きに霧野は知っていると唇だけ動かした。

「霧野にはいないのか、その――好きな人とか」

 意味のない質問だった。自分の恋愛話に気まずさを覚えてはぐらかしたいのならば最初から霧野を呼ばなければよかったのだし、ただ神童は霧野を身近な人間として、自分の理解者として、ならば彼も自分と同じような経験をしたことがあるのだろうかとふと思い立っただけだ。答えは、どちらでも構わない。或いは、答え自体なくとも。

「……どうだろう?」

 視線を逸らし、霧野は過去の記憶を漁って神童の質問に対する答えを用意してやりたいと思う。けれど慎重に思い返してみても、友だち、サッカー、勉強、家族。方々に想いを馳せて、今も自分から伸びる関係の糸を振り払ってたった一つに駆けたという心当たりは見当たらなかった。
 ――ああ、幼馴染か。
 カテゴライズをひとつ忘れていたと、冷めかけた紅茶を口に含んで目を閉じる。直前、見えた神童の表情が紅茶を口に含んだままの霧野を行儀が悪いと咎めていたのでゆっくりと嚥下した。
 気付いたら友だちだった。家が近所というだけでは、関係は続かないような広大な敷地の屋敷に住む子どもだった。ピアノの練習をするんだと言っていた神童を、でもサッカーだって好きなら練習しなくちゃと連れ出したこともある。霧野の家よりも大きなテレビがある神童の家に上り込んで日本代表の試合を観戦したことも。彼が二匹の猫を飼い始めた日のことも覚えている。雷門はサッカーの名門として霧野たちの憧れで、幸運にも近かった。だから当然のように同じ中学に進んで、同じサッカー部に入って、最上級生でもないのにキャプテンを任され思い通りにサッカーができないもどかしさに唇を噛む神童の肩を叩いて鼓舞してきた。振り返れば、見事に異性の気配がないことに自分でも悲しくなってくる。もっとも、いたとして惚れる惚れないは別問題なのだけれど。そして霧野は、自分の価値観の標準を神童に当て嵌めて高く設定しているせいで自分を過小評価しているときがある。主に顔面偏差値でと言ったのはまたしても部活の生意気な後輩だが、割と霧野と親しい人間は同じことを感じている。
 要するに、霧野と神童の幼馴染という関係がこのまま進めば、よっぽどの美女が飛び出してこないことには二人とも彼女なんて出来ないと思われているのだ。

「俺が女だったらお前に突っ込ませてやるんだけどなー」
「……? 何の話だ?」

 ソファの背もたれに体を預け、天井を仰ぐ霧野の言葉の意味は神童には理解できなかったらしい。こういうとき、霧野は自分を俗だと感じる。感じるだけで、それは良し悪しの問題ではないから悩みはしない。
 しかし何のアプローチもすることなく閉じた恋に落ち込んで幼馴染を自宅に呼び出して紅茶を振る舞ったり、相手が落ち込んでいるからといって性別さえ違えば――身体で――慰めようがあるんだけれどという発想は、男同士の幼馴染にしては割と不健全だということを指摘してくれる第三者は生憎この場には存在しないので。
 幼馴染二人の世界は今日も閉じたまま、お互いを「イイ奴」だと思いながら流れていく。



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すきとかいうつもりは
Title by『さよならの惑星』





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