起きなくちゃ。
 そうさくらの意識は訴えるのに、身体の感覚が一向に着いてこないのはどうしてだろう。空間の心地よさが意志に勝っていいものだろうか。これが怠惰なのかとさくらはぼんやりと感心する。今まで、さくらの人生は新体操一色だった。世界一という両親が誂えた目標(あるいは命令)をクリアすることに必死だった。休息は必要最低限だったように思う。恐らく、身体を効率的に、かつ最大限に動かせるその為の必要最低限。両親にとってさくらは間違いなく子どもであるはずなのに、全身に圧し掛かる重圧はまだ未成熟の彼女に完全を求め過ぎていた。
 けれど子どもは、親に応えたいと思うものだから。
 少なくともさくらはそう思っていた。新体操以外を知らない子どもの、生きるための防衛本能が親に擦り寄ったのかもしれない。新体操を捨てて親の失望を買った方が気楽だったのかもしれないけれど。それはそれできっと苦い想いをすることになっただろう。だからというわけではないけれど、さくらは走り続けて来て良かったと思っている。新体操なんて全く関係のないサッカーという舞台に立つことが出来て、本当に良かった。
 美しく舞うために、羽を仕舞っていた。強迫観念が一番という明瞭な結果を求めていた。そこへの過程は、きっとさくららしくなかったのだ。勝つために、勝気さを隠して猫撫で声を出す。同性相手に、好かれる振る舞いではなかっただろう。思い出して、笑う。出会ったばかりの好葉を怖がらせていたかもしれない。彼女は同性の感情の機微に敏感だから。
 微睡んで、昔のことばかり考えていたから今の時刻が気になった。タイムスリップなんてするはずがないけれど、夕飯を食べ損ねては明日のエネルギー源がない。寝返りを打つ。長期間の滞在を想定して用意されたベッドは、簡素な部屋の備え付けベッドにしては質が良かった。ブラックルームに初めて入ったときに皆帆が言っていた、この施設、大会、関係者への投資の惜しみのなさには感嘆する。新体操に打ち込んで来たさくらは子どもらしい金欠すらほぼ身に覚えがないけれどこれは規模が違い過ぎる。
 だが柔らかいベッドの感触が、どこかさくらの身体に馴染んだものとは違うように思えて微睡みが引いていく。違和感は驚愕とは違いさくらの身体を起き上がらせるだけの引力を持たなかった。

「――井吹?」

 ふと思い出した。ここは彼の部屋だと。もはや病気ではないかと辟易するほど、地球を出てからの井吹はブラックルームに入り浸っている。地球にいたころも似たような生活リズムだったのかもしれない。ただ練習する場がいくつかあったから、相手の行動を完全に把握していなかった。しかし宇宙空間ともなると外に出ることができないので行動範囲が極端に狭くなる。星間をワープできるとはいえ準備が整うまでの間はやはり地に足をつけて練習することは叶わないので練習場はブラックルームに限られる。全体練習は勿論だが、それ以外にさくらがブラックルームを覗けば井吹は高確率で先に陣取っているし、ミーティング車両や食堂車両で姿が見えない彼の行き先を尋ねれば自室よりもブラックルームという単語の方が頻繁に飛び出す。
 初めは妙に熱くなっているだけだと観察していた。経験者である神童に素人と見下されるのが気に入らないのだと。関わらずに、契約条件さえ果たせばいいものを。プライドを自分の舞台の中に押し込めて妥協できない人間と、さくらは相性が悪そうだとさえ思っていた。けれど、誰も彼もが悪い人間ではないのだ。瞬木に関しては保留しておくとしても。たぶんさくらだって。人それぞれ歪みがあって、だから上等な餌に釣られて宇宙を旅しているけれど悪い気分ではない。サッカーを、楽しいと思っている。
 さくらの声に、静まり返っていた部屋の空気が震えたような気がした。衣擦れの音がして、ゆっくりと視線を向けると部屋の主である井吹が頭だけをベッドに乗せて眠っていた。さくらは、井吹が部屋を空けている隙に潜り込んだことを思い出し、漸く上体を起こして、戻って来たなら声を掛けてくれれば良かったのにと唇を尖らせる。床に座ったまま首を曲げている体勢は見ているだけで首が凝ってしまいそうだ。井吹のことだから、疲れて戻ってきた部屋に珍客が居座っていた挙句ベッドを占領していたら有無を言わさず放り出しそうなものだけれど、そんな気力も湧かないほど疲れているのだろうか。覗き込んでも、声にならない疑問への返答はない。
 慎重に、爪先から床に降りる。音を立てずに、井吹と向き合う形で膝を抱える。息がかかるほど顔を近づけて、微笑んでみせた。これは直感。女の確信。ただでさえ裏表の顔を使い分けてきたさくらには通じない、あまりに稚拙な嘘だった。

「――起きてるでしょ」
「……お前、何してたんだ」
「井吹に、キスしようとした。ダメ?」
「ダメだな」
「けち」

 悪戯な声に、井吹は観念したのか呆れた風に目を開いた。鼻先が触れそうだったのに、全く動揺してくれなかったことがさくらには不満だったけれど、迫れば拒まれるだろう。何よりムードがない。

「井吹に会いに来たんだけど、居なかったから。ちょっと待ってみようかなと思って、気付いたら寝ちゃった。ごめんね」
「戻ってきたら寝てるから、ビビった」
「そう? 誰も鍵とか掛けてないし、簡単に入れるわよ」
「そういう問題じゃないだろ。お前一応女だし、不用意なことするなよ」
「一応って何よ」
「つっかかるなよ…。この船に乗ってる連中に限っていえば万が一もないだろうが、野郎の部屋で寝てたとか危機感なさすぎだからな」
「井吹の部屋なんだからいいじゃない」

 向いていない説教をしようとする井吹は、さくらの屁理屈を打破するねじまがった言葉を知らない。真っ当に真っ直ぐに、躱しやすい言葉しか選べない。大人であれば、真っ直ぐな言葉で押さえつけることもできるだろうけれど、生憎二人は同い年の、しかし男子と女子の差を持っていた。
 苛立たしいと頭を掻く井吹を楽しげに見つめながら、さくらがほんの僅かではあるが距離を詰めた。彼は気付かない。至近距離で見つめ合うことに照れた様子を見せないのだから、頓着する必要もないと思っているのか。それなのに、一般的な貞操観念でもってさくらを正したいと思っている矛盾。

「井吹の部屋だから、入ったんだけど」

 声に、井吹の首筋が粟立った。嫌悪よりも戸惑いが先立って、けれどこれが女の声であることは本能的に察知した。人間の女の声。それなのに獣じみていると思う。一瞬でも飲みこまれるような、捕食されるような恐怖の手前に突き飛ばされた。けれど井吹はさくらとは違う男だったから。その恐怖を弱さと捉えて拒絶する。食らわれたくないのならば、逃げるのではなく自分が食らう側になるしかない。それが、自分たちの内側に眠る獣の本能というものだろう。

「それじゃあ、出られなくなっても文句はねえよな」

 挑むように、今度は井吹から顔を近づけた。さくらは意外そうに瞬いて、笑った。それが思ったよりも無邪気な笑みだったから、井吹があと少し冷静な人間だったら思いとどまっていただろう。だが井吹が直情的な人間出会ったから。男だったから。ゆっくりと、しかし確実に縮まっていく二人の距離がゼロになる瞬間。
 ベッドの上でやればよかった。
 そんなことを二人同時に考えていたのだけれど、そう思ったときにはもうさくらの背中は床に着いてしまっていた。
 もう暫くは、起きられない。



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夜明けは待たない
Title by『さよならの惑星』





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