――今日はいい日だ。

 天馬と信助が先陣をきって駆け出した。遅れて、マサキと輝も走る。最後尾を行く剣城は歩くペースを変える気配のないまま葵の隣を歩いている。振り向いた天馬が、手を挙げて何か言っている。どうしてか、いや風のせいだろう、よく聞こえなかった。大きな口の動きは、きっと剣城を呼んだ。河川敷のゴールはどうやら誰も使っていなかったようだ。天馬以外の三人はとっくに階段を下りてしまっていて見えない。誰かが天馬を呼んだのだろう。葵の場所からは見えない下方に顔を向けた天馬が何か言い返していた。ジャージの上着は放り出されている。そうして天馬はもう一度剣城と葵の方を見て、手を振り、先に階段を下って行った。最後の言葉は、自分たちを急かしていたのだろう。

「行かないの?」

 剣城の横顔を見上げ、聞いた。久しぶりのサッカーだった。テスト期間中の部活動禁止令を全員が律儀に守っていたとは思わないけれど、憚ることなく羽を伸ばすように誰かとボールを蹴るのは我慢していたはずだ。先輩にもきつく言い聞かされていたから。テスト最終日、午前中だけで終わった学校と、午後からの部活の間。その隙間すら待てないと、一年生たちは木枯し荘で昼食を食べてから早速河川敷のサッカー場にやってきていた。部活は職員会議で顧問が見られないからと中止にしているところが多いと聞く。サッカー部は顧問とは別に監督を外部から呼んでいるため問題はないのだが念の為、職員会議が終わる頃まで開始時間が遅く設定されていた。あと、三時間くらいだろうか。葵は真上に昇る太陽を見つめる。生憎、太陽の位置から時刻を割り出すなんて真似は不可能だった。

「行かない」

 葵の問いに対する、簡潔な答えに苦笑する。「ご飯食べたばかりだもんね」と足りない言葉を補えば「それもある」と剣城は葵の手を取った。もっとも、滑り落ちるように繋がったのは人差し指と中指の二本だけだったけれど。照れ屋さん。言葉を胸の中で転がして、少しだけ腕を振った。拒むのではなく、単純に嬉しかったから。

「今日はいい日だね」
「――ああ」

 どこまでも晴れ渡る空だった。憂鬱だったテストが終わった。大好きな人たちがサッカーができると笑っていた。木枯し荘で食べた秋のご飯が美味しかった。剣城が隣を歩いてくれた。天馬の急かす声にも応じずに、ずっと。手を取ってくれた。葵の言葉に頷いてくれた。それから、それから――。
 指を折るように数える。生憎剣城と繋いでいない方の手は通学鞄で塞がっていた。こんなことなら、先に部室に行って荷物をロッカーに放り込んでくればよかった。

「でも、両手を繋いだら歩けないよね」
「……? 何の話だ?」
「私の両手が空いてたら、剣城くんの両手、独り占めしたかったなあって思ったの」
「――――、」
「照れないでよー」

 歩調はいつの間にか緩慢になっていた。指を絡ませたまま、葵は一歩踏み出して、剣城の前に回り込みその顔を覗き込む。やはり彼は照れているようで、極まりが悪いとそっぽを向いてしまう。わかりやすくて、笑みが深くなる。或いは、わかりやすいと思ってしまうほど剣城のことをわかっている自分が嬉しくて。
 好きというもっとも明快な言葉はもらっていない。それはきっとよくないことだ。態度で示し過ぎても、子どもの特別は状況や人間関係に左右されがちだ。あの剣城が、容易く異性に愛を囁くような性格をしているとは思わないけれど、手を取ることができるならたった一度くらい口にしてくれてもいいのにと思う。葵の一番欲しいもの、くれるのならば、女の子にありがちなムードやシチュエーションに夢見る心は捨ててあげたっていいとすら思っている。

「――空野、」
「ん?」
「両手だけでいいのか」
「え――」

 何て言ったのととぼける隙もなかった。繋がっていた指先が解けて、逃げていく熱を名残惜しいと思うよりも早く新しい熱が葵の頬に触れていた。剣城の両手が葵の頬を捕まえて、近付いて来る顔が、瞳が、晴れ渡る空の下、吹き抜ける風、そぐわない。そんな鋭利さで葵を引き寄せる。

「独り占めするのは、手だけで、満足か?」

 低音が脳を麻痺させる。葵の欲しいものをくれないのは剣城の方なのに。まるで葵が強請らないのが原因のようだ。それもまた、真実なのだろう。けれど、強請れば差し出してくれるというのなら、葵は躊躇わない。幼馴染に付き合わされてきたからだろうか。
 ――未知の世界に飛び込む度胸はきっと、剣城くんより私の方があるかもしれないよ?
 頬に添えられた手に自分の手を重ね、残っていた僅かな距離を逃げ道として塞ぐように額をくっつけた。

「私、剣城くんのこと、全部独り占めしたいな」

 にっこりと効果音がつきそうな、最上級の笑顔で告げた。それから、重なっていた両手を繋ぐようにして下ろす。ご機嫌に、揺らした両手を振りほどく引力などどこにもない気がした。剣城の満足そうな、自信に満ちた笑みに向かって「返事は?」と尋ねる。聞くまでもないことだとして、それでもやはり言葉は大切だから。

「空野のことを独り占めできるなら、悪くないかもな」

 格好つけているような物言いで、けれど格好いいのだから葵は文句などつけない。剣城の要求には二つ返事で頷こう。
 いつまでも顔を出さない二人を、天馬たちは迎えに来ない。それを疑問に思う余裕もなく剣城は葵の熱に意識を傾けていたし、葵も剣城のことしか考えられなくなっていた。河川敷の階段下で、二人を迎えに行こうとする天馬と信助を、空気を読んだマサキが力尽くで抑え込んでいることなど知る由もない。
 今日は、いい日だ。


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引き金はわたしが引く
Title by『ダボスへ』





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