「近付かないで貰えませんか」

 きっかけは、剣城の放ったこの一言だった。鋭い言葉を選んだ自覚はあったし、傷付けてしまうであろうこともわかっていた。けれども多少の灸を据えなければ、剣城に対する茜の態度は一向に改善されないだろう。先輩で、どこか鷹揚な彼女には、わかりやすく強大な一撃でもって報いなければその内側に自分の意図することが届かないと剣城は思っていた。だから、近付かないでくれという言葉に茜の微睡んでいるような瞳がまん丸に見開かれたことに剣城は自分の声はきちんと彼女の耳に届いているのだということを確認して安堵した。茜だって人間で、他人と接すれば感情が動く生き物だということを欠落させて、剣城は自分の言葉が友人であれ仲間内であれ親しい人間に向けるには相手を傷付けてしまう言葉だと理解しているつもりでも、茜がそうした一般論に則って傷付くかどうかを真剣に考えていなかった。
 ただ節度を持ってほしかった。それを伝えるには、剣城の選んだ言葉は不適切だった。


 近頃の茜は剣城にご執心のようだとは、彼女の行動を何の気なしに観察していればわかること。神童を目当てにサッカー部に入部したはずの彼女がいつの間にかトレードマークのカメラで部員たちの様々な姿を映す様になってから、憧れと恋の境目を勘繰ることは無粋だった。マネージャーとして部員に密に接する機会を茜は剣城に対して求めるようになって、シュートを決めた瞬間の彼の姿を収めては満足げに微笑んでいた。その微笑と共に染まる赤い頬の意味など、中学生にもなれば大抵の人間は察するだろう。
 一方の剣城は、茜のわかりやすい態度に戸惑っていた。元々サッカーという集団競技を愛しながらも兄への後ろめたさから一匹狼でいることを選んでしまっていた彼は根の優しさとは別に普段の態度が素っ気なく映ることがある。だから、素っ気なさを度外視したかのように近付いて来る存在に剣城はうろたえる。得体が知れないと身構える。勿論、積み上げた信頼はやがて相手を受け入れていくのだろう。ただ、一緒にサッカーをする仲間と、マネージャーの女の子では勝手が違うのだ。
 タオルやドリンクの受け渡し、見て欲しいと手渡される写真と覗き込まれる顔、偶然かどうかもわからないまま並んで歩く帰り道。恐らく彼女は好きな物に対して過剰なまでに傾倒する。子どもが生まれたらかつての神童以上の被写体として撮りまくるに違いない。
 茜の感覚は剣城と同一ではなく、彼女はただ表面的な触れ合いに留まっていた。根底の想いは言葉にしなければ勘繰られども形を持たず届かないものだと信じていた。好きになってくれたら嬉しい。けれどそうならなかったとしても直ぐに身を翻せるよう、茜の態度はふわふわと剣城の周囲を漂っていた。


 剣城に拒絶されてからの茜は、これまたわかりやすく彼を避けた。その露骨さは周囲が首を傾げるほどで、剣城ですらショックを受けるほどだった。自業自得ではあるが、視線が合っても慌てて顔ごと逸らされたり、近くに立てば怯えたように身を縮こませて距離を取ろうとされたり、校舎で反対側から歩いている途中鉢合わせになりそうなことに気付くと駆け足で来た道を引き返したりと、茜は徹底的に剣城の間合いに入ることを避けた。
 好いた相手の傍に寄ろうとする態度も露骨なら、避けようとするのも露骨。つまるところ、端から剣城を困らせる以前に自分の気持ちに素直だった結果でしかなかった。剣城から逃げおおせる度に俯いて涙を堪える彼女を見れば大抵の人間が同情しただろう。慎重になりなさいと教えてくれたかもしれない。そしてその言葉は、剣城にも向けられるべき言葉だった。
 茜にわかりやすく避けられている剣城にも、部員たちからの同情と好奇の視線が集まり居心地が悪かった。しかし言い訳をするよりも彼の胸中には手のひらを返すような茜の態度に対する怒りだとか、悲しみだとか驚きだとか、あまりよろしくない感情がぐるぐると渦を巻いている。表情すら消えそうだった。

「剣城くんさあ、茜さんと喧嘩したの?」
「……別に」

 練習後、ロッカールームで着替えていると隣の狩屋が世間話の体で目下剣城最大の悩み事を話題に上げた。調整された声量は、彼なりの気遣いだった。もっとも、今の剣城には感謝している余裕もない。
 いかにも不機嫌を丸出しにした声音に、狩屋は呆れた顔で肩を竦めた。

「茜さん、泣いてたよ?」
「別に――」
「関係ない?」
「……っ、」
「捕まえてもいないのに、我が物顔ってどうなの?」

 狩屋の態度は飄々としている。だが放たれる言葉は棘だらけだ。それも剣城にしか効かない棘。わかっている。けれど何故お前にそんなことを言われなくてはならないのだという視線にも、狩屋は一向に動じない。
「だから、泣いてたんだって」
「それは――」
「『剣城くんに嫌われちゃった』って、泣いてたんだよ」
「………」
「あ、オレ間男とかじゃないから変な誤解はしないでね」
「お前…」
「でも、独りで泣いてる先輩を放っておくほど薄情じゃないんだ」
「はっ」
「笑い事じゃないでしょ」

 わかっている、そんなことは。それでも、狩屋のしたり顔が鼻につく。わかっている。茜が狩屋に泣きついていたことを責め立てる資格なんてない。嫉妬なんて烏滸がましい。腹を立てる前に、茜に伝えるべき言葉が剣城にはあったのだから。
 近付かないで欲しかった。それは真実で、ただ欠片だった。剣城は茜の不用意さを咎めたかったのだ。好意的な声で、眼差しで、熱で、容易く異性の間合いに入り込む迂闊さを責めたかった。矯正したかった。その上で自分の傍にいてくれるなら、これ以上嬉しいことはなかったのに。己の口下手を呪う。茜は決して無神経というわけではないのだ。近付くななんて拒絶をされて平然と変わらずにいる方が無理な話だ。
 これは剣城のわがままだ。傍にいて欲しかった、けれど自分だけを満足させて、安心させてくれる方法で。その為の努力をしてこなかったのは自分の方なのに。彼を避けるようになってからの茜が、部員の誰かと話し込んで笑っていればざわつく胸と湧く怒りは後少しでお門違いと呼ばれるまでに落ちるのだろう。
 けれどきっと、今ならまだ間に合うはずだから。

「――茜さん」

 夕暮れ。狩屋との会話を終えて、剣城は茜を探しに部室を飛び出した。そして見つけた。茜はひとり、校門を出て家路に就こうとしていた。
 距離は三メートルほどだった。後ろから呼ぶ。捕まえたかったけれど、すり抜けられたら一層警戒されるから耐えた。小さすぎたかと悔やむ声は、しっかりと茜の耳に届いて、彼女は片方の耳を不思議そうに抑えながら振り向いた。怯えよりも、何故彼が自分を呼ぶのか純粋に疑問に思っている様だった。
 ――名前くらい呼びます。姿だって探します。傍に来たら、バカみたいに意識します。
 矢継ぎ早に吐き出した言葉は呪文のようできっと茜は全てを聞き取ることはできなかっただろう。謝りたかった。けれど以前のように戻りたいのではない。きちんと正しい場所に進みたい。

「――もう、俺の傍にいるのは飽きましたか」
「……つ、剣城くんが、…ちか、近付くなって…」
「――――――、」
「き、嫌われるの、怖いし」
「嫌いになってません」
「でも…でも、あの時、顔、怖かったから…怒ってて、だから…」
「顔は生まれつきこんな感じです」

 届けたい言葉は決まっているのだ。ただ唐突であることは誤りがちだから、順を追って辿り着きたい。けれどそういった駆け引きは経験が物を言う。生憎と剣城に、この場を上手くコントロールするだけの技量はない。
 剣城の言葉に必死に返事をしようとする度に、茜は拒まれた日の恐怖と悲しみを蘇らせて涙を落とす。剣城は、茜が涙を拭う為に視界を手で遮ってしまった瞬間を好機と見て一息に開いていた距離を詰めて、それから彼女を自分の腕の中に閉じ込めた。年上なのに、自分よりも小さい背丈と柔らかな感触に茜はやはり女の子なのだと実感する。次いで、好きだなあなんて悠長なことも。

「――俺、茜さんのこと好きです」
「う、…へ?」
「何ですかその声」
「…私のこと、好きなの?」
「好きですよ。たぶん、茜さんが思ってるよりずっと」

 それは茜が想像するよりもずっとという意味であり、茜が剣城に擦り寄った根底の淡い慕情よりもずっと根強くという意味でもあった。
 通じてくれなくていい。言葉は上手く手繰れない。だから、捕まえたからには逃がさないように気を配らなければ。

「茜さん、あんまり俺以外の人間のとこに行くのやめてくださいね」
「…近付くなって言ったよ?」
「あれは……ミスです」
「わがまま!」
「すいません、だって茜さんあんまりじゃないですか」
「――?」
「そういう、肝心なところは全部俺任せみたいなところ」
「う……」
「俺のこと、どう思ってます?」

 逃がさないよう腕の中、俯かれては手段がないので額を合わせて覗き込む。揺れる瞳が、直ぐに逃げ場所などないと悟り、おずおずと合わされる。
 震える唇が象る文字を忘れない。消え入りそうな声が紡いだ音を逃がさない。上がる口角は確かに満たされた証拠だった。

「離れないでくださいね」

 離してやるつもりもないので、ぜひともそのつもりで臨むように。剣城の言葉に、茜が小さく頷いた。あとは、言わないけれど、これからは泣きつくならば狩屋ではなく真っ先に自分の所に来るように。
 どうやら、今回は間違えないで済んだらしい。剣城は安堵し、腕の中の茜が幻ではないことを確かめるように抱き締める腕に力をこめた。
 ここが校門前であることを思い出すまで、あと十秒。




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60万打企画/匿名希望様リクエスト

傷ついてごめんね
Title by『さよならの惑星』



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