これはいったいどういう心境の変化かしらと問うならば、答えなど目の前で目撃していた。瞬木ハヤトの過去なんてさくらには知ったことではないし興味もない。けれどやはり、現在の自身を構成する要素として過去を除外することはできないままやってきたのだろう。そしてそれを当人が自覚してしまっていたこと、その辺りについてはさくらも身に覚えがある。両親の期待と、それに沿えない一番になれない劣等感を恐れた。己の鍛錬を怠るつもりはなく、だがそれでも及ばないならば他人を引きずり落とすしかない。それを当然だと考えていた頃があるからこそ、さくらは今の自分の方が好きだと胸を張って言える。もしかしたら瞬木も似たような境地なのかもしれない。閉じ込めていると自覚していた悪辣な心を肯定することを肯定された。それは恐らく、万人との上っ面の円滑を選んでいたこれまでの瞬木からすれば大きく道を転換することになるだろう。刺々しい言葉に、少し触れただけで顔を背けてしまう惰弱も世の中には確かに存在するのだから。

「それでも瞬木、今の方がいいの」
「それ聞いてんの?自己完結してんの?」
「さあ…。私、アンタのことよくわからないから」
「ふうん、まあ、わかったら凄いよ。他人のことなんだからさ」

 食堂で向かい合って座る。適度な距離を挟んでいることが安堵に繋がる。まさかいきなり殴られることもないだろう、けれどもいつでも逃げ出せる間合いを探った。理由は述べた。さくらには瞬木のことがわからないから。より混迷に遠ざかってしまったから、様子を見て、安全圏を確保できるまではじりじりと近付いては遠ざかる。慎重であることに他意はない。さくらは自分が可愛い。認めよう。傷付かずに済む最善を選ぶ。しかし己の好奇心を満たした上での最善だ。難を避けて通るという発想は割と存外にそこらに放っておかれる。怪しい物をつつきたい、恐らく変化を迎える瞬木とは相容れない考え方だろう。
 カチャリ、白い食器に瞬木が落とした銀のフォークがぶつかって音を立てた。行儀が悪いと唇を尖らせるさくらを彼は無視した。サラダに入っていたプチトマトを数回咀嚼して、残りは水で流し込む。サラダはメインディッシュより先にたいらげるさくらには理解できない食べ順だった。

「野咲さんは――」
「?」
「俺のどの辺が気になるわけ?」
「は?」
「どの辺っていうか、どうしてって言った方がいいのか」
「べ――」
「別に気にしてないとか、この状況で言っても説得力ないよなあ」
「………やなやつ」
「そうだって言ったろ、あの日、サザナーラでさ」

 さくらの不愉快がピリッと場の空気を張った。瞬木は口元だけで笑っている。食堂には二人以外誰もいない。みんなもう食べ終えて各自自室やブラックルームに引き上げている。さくらも自身の食事はとうに終えている。瞬木だけが残っていた。ひとり最後までブラックルームで特訓していたから、その遅れは不自然ではなかった。不自然だったのは、偶然真正面に座ることになった瞬木の前からいつまでも立ち去らないさくらの方。
 気にしているのか。その通りだと頷いたらそれはどんな意味合いで瞬木に届くのだろう。それだけが気掛かりでさくらは沈黙を選んだ。この年頃の異性とは面倒くさいことが多い。ささいな接触が不要な憶測を呼んだりする。もっとも、宇宙という閉鎖的な環境と、地球の存亡をかけたこの状況ではそんな暇もないのか。それに、同じフィールドで対等にサッカーをしている人間に欲目など抱いたりはしないのか。では自分はどうして瞬木をこんなに気にしているのだろう。ぐるぐると疑問が疑問へと繋がってさくらの眼前を周る。ぼんやりと瞬木を映す瞳の焦点は彼に定まっていない。不用意な言葉を避けるための沈黙は、瞬木を上機嫌にするだけで彼女に何の閃きももたらさない。

「なあ野咲さん、俺のこと気になるなら――」
「……何よ」
「俺と噂になってみる?」
「はあ!?」

 全く可愛らしくない首を傾げる仕草が憎たらしい。テーブルを叩いて立ち上がる。若干の前のめりは、羞恥と怒りの現れだ。気になることすら認めていない相手にする提案ではないだろうと、見下すような視線を受け止めたくなくて今更落ち着いたふりをして座り直すのも癪だった。このまま立ち去ってしまうことが、一時の険悪をしつこくひきずらない関係の二人には相応しい。けれどもひきずらないからこそ、この場で決着を付けなければならない。そんな確信がさくらの足を縫い止める。焦燥と、けれども同時に警鐘も頭の中で絶えず鳴っている緊張感。既に分が悪いことを理解しながら留まるこの選択は果たして本当に正しいのか。
 ――否。
 同じように立ちあがり、さくらに対し近付く彼の顔をまたぼんやりと見ていた。「食器は返さなくてはいけないのよ」なんて見当違いな注意事項が頭を過ぎった。頭の中でエラーを告げる赤色がチカチカと点灯している。

「手始めにさあ、さくらって呼んどく?」
「―――っ!?」

 いたずらに、瞬木がさくらの耳元で囁く。耳朶に触れた息にぞわりと背筋が粟立つ。慌てて上体を引き離せば憎たらしいほどに楽しげな彼が肩を竦めて見せた。
 ――ムカつく!
 女の子を、私を、こんな風に弄んでいいと思っているのかしら。そんな憤慨は、声を荒げてしまってはまた瞬木の減らず口に乗せられてしまいかねないと必死に抑え込む。
 以前とて無難な言動ばかりで読めない男であったがサザナーラでの試合以降ますます読めない。しかも無難であったのがどう吹っ切れてしまったのか他人と絡むことに対し自分のフィールドで物を言うようになった。その、彼の土台はどうやらとかく厄介であるらしい。妙な奴を気に掛けてしまった。後悔しても、きっともう手遅れだ。

「いやあ、楽しみだよね。野咲さん」
「何言ってんのよ!意味わかんない!」
「え?本当にさくらって呼んでほしいわけ?」
「いらないわよ!」
「まあいいや、今のさ、顔近付けたの入り口から誰か見てたからさ。俺たち、どんな風に映ったか楽しみだよねって話」
「――嘘!?」
「うん、嘘」
「はあああ!?」
「あはは、アンタ、ちょっとくらい顔に必死さ滲んでる方がいいよ。俺は好きだな」
「あんたに好かれたって嬉しくとも何ともないわよ!」
「俺のこと気にしてたのはそっちだろ?」

 完全にペースを乱されたさくらの言い分は、瞬木になんのひっかき傷も与えられない。それが癪で仕方がないのに、先程から赤くなった頬の熱が一向に引いてくれないから思考もまともに働かない。あんな至近距離に顔を近づけられたくらいで何をと必死に自分への言い訳を探すものの、彼の言う通り、初動を起こしたのはさくらだった。
 さくらが停止している間に、瞬木は食器とトレイを片付けてさっさと食堂を出て行こうとしていた。少し休んでからまたブラックルームで特訓するつもりらしい。さくらも彼の後に続いて部屋で休んでからまた特訓に戻ることにした。瞬木とのやり取りで、随分と体力を消耗してしまった。
 ――あーもう!調子狂うわ!
 腹立たしさを紛らわせようと、思わず壁を蹴っていた。金属が振動で震えた音の反響に、前を歩いていた瞬木が何事だと振り返り、一瞥して事情を察したのか呆れたような顔で前を向いた。それがまたさくらの腹立たしさを増幅させる。
 だが数十分後。ブラックルームにて瞬木は先刻さくらに吐いた嘘が現実となって皆帆や真名部、信助や葵といった面々に彼女との関係を根掘り葉掘り追及されることになる。その時の彼の表情を見たらさくらの気も晴れるというものだろう。しかし勿論、さくらも同じように瞬木との仲を疑われることになるのであった。
 どうやら瞬木ハヤトという存在は、野咲さくらの心臓に悪い影響を与える人物であるようだ。



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知っている。あれは人を恋う目だ。
Title by『さよならの惑星』




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