「神童はいいよなあ、なんかこう…いかにも余裕ですって感じ?」 砕けた口調に籠められたのは皮肉ではなく呆れだったのかもしれない。幼馴染だったか、同級生のストライカーだったか、相手すら忘れてしまっている時点でわかりにくい優しさを神童が受け取り損ねていたのは明白だったけれど。 その光景はいつもと変わらない朝に訪れた。グラウンドで朝練を終えてからサッカー棟に向かって部員全員がぞろぞろと歩いていた。マネージャーは、集団の一番後ろにいた。歩き出す直前に横目で捕えたのは、神童の中で密かに一等の位を持っていたおさげの少女だった。マネージャー同士でかたまりながら、楽しそうに談笑している。真面目さが働いて先頭を歩き出してしまっていた神童は以降彼女の姿を見る為に振り返ることはしなかった。一方的に慕っているだけなのだから、露骨にじろじろと視線を送ることは自然であると同時に不自然だ。性格上、他者に自分の想いを悟らせたくなかったこともあるし悠長に構えすぎている部分もある。何せ彼女――山菜茜の行動原理といったら至る所に神童拓人という存在が潜んでいて、それをひた隠そうともしないものだから神童にしてみても悪い気はしていなかったのだ。焦らなくても、今無理をして先を急がなくても。辿り着く場所なんて同じだと思っていた。具体的に描いてみたことはないけれど、先を急がないのは拒まれる恐怖からじゃない。拒まれないだろうという驕りからだった。 だから、その光景を見た神童の心境といったら心臓が止まってしまったのではないかと疑ってみたり、眼球が一場面を取り込んでそこで停止してしまったのではないかと体感時間を狂わせたり、とにかく尋常ではない混乱が瞬時に湧き上がってきた。 茜に、神童の知らない男子生徒が手紙を押し付けたこと。その際に何か言葉を発して、その言葉を聞いた茜の頬に朱が差して、その男子生徒が慌てて走り去ろうとして、その去り際に挑むような視線を神童の方に投げたこと。数分と掛かっていないだろう。けれどそれ以降、神童の時間が進む感覚はとことん狂ってしまったようで足元も覚束ない。いつの間にかやってきていた教室で自分の席に着いて微動だにしない神童を訝しみつつも、部員として同じ場に居合わせていればある程度の察しはついてしまう幼馴染の蘭丸に何度か心配の声を掛けられていたようだがそれも殆ど耳に入って来なかったようで、神童は曖昧な返事をするばかりだった。 「まあ、相手がお前だから埋没してるだけでさ、茜だって可愛い方だし…ああいうことがあったって別におかしくないだろ」 気遣わしげに神童の肩を叩く蘭丸に、何と返せばいいのかわからない。神童の身勝手な傲慢も見抜かれていたのかと思うと恥ずかしくて仕方がないし、今朝のように茜に自分の知らない人間が想いの丈を伝えている光景が珍しくもないのかと思うと頭を抱えそうになる。眉目秀麗、成績優秀、日本一のサッカーチームの司令塔、日本有数の大企業グループの御曹司と神童を持ち上げる要素は多く、いつの間にか学校中の女子を魅了しているような男なので基本的に自分を取り囲む女子の感情の機微については疎い。本人に無自覚な部分が多いからこそ、神童は恋愛よりもサッカーやピアノといった自分の世界で生きることを優先してきた。けれどやがて出会う特別が彼の世界の中に存在し始めたからか、神童の疎さは一向に改善される必要をみせなかったのだ。 神童を慕う大勢の中に、きっと茜という少女は簡単に埋もれてしまう。サッカー部に入部する気概を彼女が持っていなかったら、今だって二人は目線すらかち合わないただの同窓の人だ。しかし現実は違った。目が合う、名前を呼ぶ、その視線と声に孕ませた熱っぽさを神童は知っている。それは今朝見た、茜の頬に差した朱によく似ていた。だから気に食わないのだと伝えるべき相手は、自分を諭す優しい幼馴染ではない。勿論、茜に想いの丈を訴えた男子生徒でも。寧ろ彼は自分が向き合おうとしなかった勇気を持ち合わせた人間だ。かといって、僅かな尊敬の念を抱けども道を譲ってやるほど神童は思いやりに溢れた、自己犠牲の精神の塊ではない。 勢いよく立ち上がると、反動で椅子が喧しい音を立てて倒れた。クラス中の視線が神童に集まるが気にしない。目を丸くしている蘭丸に「あとは任せた」と言い残して教室を出る。一体何を任せる気だと至極真っ当な疑問を返さず健闘を祈る言葉で見送ってくれる蘭丸に感謝しながら、神童は廊下を全速力で駆け出した。 「……シン様っ、あの、もう…」 戸惑いの声が耳朶を打って、神童はようやく足を止めた。先程までとは真逆に、今神童が時間の体感は一瞬のことのように通り過ぎていく。教室を飛び出して、茜のクラスに飛び込んだ。幸い、まだ担任教師は来ていなかった為神童は自分の席についていた茜の腕を引っ掴んで強引に連れ出した。珍客の乱入に驚く彼女のクラスメイトたちには目もくれず、しかしそれでも、今朝がた茜に告白した男子生徒の姿を視界の端に捕えたような気がして、思わず口角を上げていた。 決死の行動だったのかもしれない。けれど最後まで押し切らなかった彼が悪い。負けるつもりで臨む勝負など、神童には存在しないのだから。 どこに向かうつもりもなかったが、やはり習慣としてサッカー棟の方角に走り続けた。息と足がもたないと茜が苦しげに抗議するまでずっと、上履きのまま、彼女の腕を掴んだまま。これっぽっちも優しくない振る舞いだった。そして神童の内側に蓄積された傲慢は、これくらいで茜が逃げ出すはずがないというずるい算段がすでについている。 「シン様…もう授業が――」 「それより山菜、俺の話を聞いてくれないか」 茜の言葉を遮った声が思ったよりも硬くなってしまった。その所為か、びくりと肩を震わせて茜は黙る。怖がらせたくはないのだ。今だって、これからだって、身勝手を許されたくて、怖がって欲しくなくて、神童はきっと全てを彼女に受け入れてもらいたい。こうして告げる言葉の意味、その全てを。 「俺は山菜が好きだ」 「―――!」 「俺は山菜が俺に向けてくれた視線とか言葉とか態度とか、そういう全てをひっくるめて勝手に舞い上がって、自分から動かなくてもいいし焦る必要なんかないし山菜の態度が変わらないのをいいことに不安になんて全く思わなかったし、気付かれたくなかったくせにサッカー部の皆なら察してくれてるだろうなんて甘えていて実際誰も俺と山菜をどうこうしようなんて奴はいなくて本当に油断していたんだと思う」 「………シン様?」 「サッカー部だけが世界じゃないのにな」 そこで初めて、神童の顔に自嘲の笑みが浮かんだ。真正面からその表情を見た茜は、次々と浴びせられた彼からの言葉への混乱を鎮められないまま、ただいやだと思った。こんな顔をする神童が、恐らくはこんな顔をさせてしまった自分が。 動けなかったのは茜だって同じで、嫌われていないならそれでいいと思っていたのは真実で。だから今朝は本当に驚いた。こんな自分に、あんな人がいる中で好きだなんて言ってくれる男の子が現れたことに。同じクラスで、特別仲が良いとも話をしたこともない男の子。あけっぴろげな茜の神童への想いを知って、それでも好きだと押し付けられた手紙は茜の鞄の中にある。読むかどうかはまだ決めていない。けれど今決めた。あの手紙は読まずにおこう。大切な神童に、こんなつらそうな顔をさせてしまう手紙ならば、茜には必要ないものだ。 「俺は…、俺の知らない山菜を見るたびにこんな風に山菜を引っ張って、山菜を掴んでる誰かから山菜を取り上げるんだと思う」 「………」 「すまない」 「シン様、シン様謝らないで。私、気にしない」 「――山菜」 「シン様なら、シン様の気がそれで済むのなら、何処へだって引っ張って行ってくれていいの」 「……でも、」 「でも、あんまり速く走らないでくれると嬉しい」 「―――ああ、わかった」 我ながら重たいことを言った。神童は基本的に冷静に物事を見ることが出来るから、自分の言動とて例外ではなかった。そしてこの言葉に何ら嘘偽りを含まないことも自覚していた。手に入れる前から縛りつけようとしていた、その傲慢も。けれども予想より確信に近かった予想通り、茜は神童を拒まなかった。だから神童は全てを許されるのだ。彼が、彼女に触れること、思うこと、告げること。 告白の返事、『好き』の言葉すら受け取らない内に、茜の唇に押し付けた神童の唇のことだって、きっと。 ――――――――――― 60万打企画/さき様リクエスト もっとわがままになったっていい。優しさのひとつもしらなくていい。きみのすべてがきみのものであるように、僕の一部もまたきみのものだ。 Title y『にやり』 |