「女の子の匂いがする」

 神童の肩越し、耳元に囁く吐息を漏らしながら茜は悪戯に呟いた。彼の硬直は、彼女の言葉に後ろめたさを抱くからではなく、異性の不用意な接近が原因であった。そうでなければ、あからさま過ぎる反応は誤解を生む。そんな風に女の子を意図的にふり回す男の子ではない。神童は無頓着であるからこそ、他人に対して誠実であった。故に恋愛事情には滅法疎く、残酷であると評されることもままあった。茜はその残酷さの内側で、仲間と呼んで貰える安全地帯から一歩も踏み出すことなく時折、こうして神童を振り回して見せた。傷を負う覚悟はあるけれど、気を張るだけ損をすることもいい加減学習しなければならない。神童から香った茜の知らない女の子の気配など、指摘はできても咎めることはできないのだから。
 上体を神童から引き離し、茜は微笑んだ。表情は元から穏やかに取られることが多く、太い眉が困ったように下がっているからかもしれない。はっきりと意思表示をしないと、悲しんでいるとも誤解されるし、自分の意見を持たず集団に埋没することに納得しているとも解釈された。けれどいつだって、神童を前にしては、茜は言葉を器用には紡げない。察してくれなくても構わないし、勘違いしてくれても構わない。いっそ、好きな女の子でも無遠慮に自分の前に引き連れてきてくれてもいい。蓋はしっかりと閉じておくべきものだ。

「シン様、女の子の匂いがする」
「女の子の匂い、というと…?」
「甘い匂い。香水は、相性があるのかも。シン様には、似合ってないね」
「――ああ、俺の匂いじゃないよ」

 そんなことは知っている。神童が香水をつけないことなど。友人じゃなくても、サッカー部の仲間じゃなくても。神童に想いを寄せて、遠くから見つめているだけの女の子だって知っている。恋する乙女とミーハーな情報網、無駄に広くて、本気の恋すらすごませる。神童の匂いは、嗅ぎ慣れない上品なきっと自宅の匂いと部活が終わってからのせっけんの匂いが日々比率を微妙に変えながら占めている。
 茜はふと手の甲を顔の前に翳して鼻先を押し付けた。香ったのは、安っぽい石鹸の匂い。清潔ではあるけれど、どこか俗。そういえば手を洗ったばかりだったと思い出す。校内の水場に備え付けられた石鹸の銘柄は、家庭用の商品を取りそろえている薬局ではなかなか見かけないものばかりだ。

「――山菜?」
「なあに?」
「いや、どうかしたのかと思って」
「いつものシン様はいい匂いなのになあって、考えてた」
「へ」
「ふふ、冗談。知らないよ、シン様の匂いなんて」
「………」

 嘘、本当は知っている。茜が神童に恋をしている二十四時間、顔合わせられる可能性のある学校にいる数時間の中でできるならば何度だってすれ違いたい。隣に立ってみたい。目を合わせてみたいし、話だってしてみたい。ただそれをするだけの意気地もきっかけも、通じ合う想いも何もかもが二人の間にないだけで。願いはいつだって茜の前にあって彼女を置き去りにする。
 包まれてしまいたい。彼の腕に自分の腕を絡めて、肩に頭を預けたりして、そうすれば意識せず鼻先を掠める匂いは彼のものなのだろう。はしたないかしら、首を傾げて恋する乙女の妄想なんてこんなものでしょうと悪びれない。夢の中、現実の神童は茜の願いを叶えてはくれないからどうしたって身勝手が頭を駆け巡るのは致し方ないだろう。

「――今日クラスで、隣の席の女の子が香水を瓶ごと持ってきたんだ。初めて買った香水らしくて、自慢したかったのかもしれないな。中学生が香水なんて、俺はいらないと思うけど。それで、その周囲にその子の友だちが集まって順番に匂いを嗅ぎ始めたんだけど、瓶のふたを開けたままその内のひとりが俺にも意見を求めようとして振り返ったんだ。それで――遠心力なのかな、角度も悪かったんだと思う。何せ新品だったし、中身がちょっと飛び出して、かかったんだ」
「……災難」
「全くだ。俺はこの匂いは好きじゃないな」
「―――ご愁傷様」
「ん?」

 きっと、きっと。その女の子たちの何人かは神童のことが好きだったに違いない。少なくともその瓶を持って神童を振り返った子は、傍にいたのが神童だから、彼が興味を持たないことだとしても気を惹きたくて必死だったのかもしれない。けれど残念、神童はたった今その匂いは好きではないと明言し、不快と共に僅かに眉間の皺を寄せている。それを喜んでしまう自分が情けなくもあり、真っ当のような気もして茜は俯きがちになる。

「シン様が、いつもいつもこんな甘ったるい匂いをまき散らしてたら――」
「……?」
「わたし、シン様に近付かなかったなあ…」
「それは――ひどい…のか?」
「ひどいのはシン様だよ」
「え、」
「今日はすぐにお風呂に入ってね。明日はそんな匂いさせていないで」
「ああ、勿論。部活もあるしな。汗もかくし、直ぐに落ちるだろう」
「――そうだね」

 やっぱり、ひどいのは神童だと茜は自嘲する。神童が彼に見合わぬ香りを纏わせていることがいやなんじゃない。そんなことを進言できるほど積極的じゃない。それでも口を開くのは、神童が茜の知らぬ場所で茜と同じ想いを抱いた女の子の残り香を漂わせていることが恐ろしくて仕方がないからだ。きっかけなんてどこに落ちているかわからない。明日になって、昨日はごめんなさいと謝罪を口実にその女の子が神童に話し掛けてこないなんて誰が言いきれるのだろうか。神童はきっと、茜が彼の周囲にはびこる女の子の影に嫉妬しているなんて微塵も思っていないに違いない。
 神童の気を惹きたい女の子の香り、挙動、全てに無頓着な彼だから、茜は自身が纏うありふれた石鹸の香りを厭わないでいられた。顎を引いて、俯きがちな表情に差す影を神童は訝しむ。奥の奥まで見抜けないのだから、そんな気遣いはいらないと突っぱねられるほど茜は気丈ではない。他人に対しても、己の恋心に対しても。

「女の子の匂いがする」

 絞り出すように、茜が呻く。そんなにひどいだろうかと腕を鼻先に運び自身の匂いを確認しようとする神童に、茜は制止の言葉をかけられなかった。
 女の子の匂い、意気地なしで、それでいて一丁前に主張だけは内側で大胆なところ。恋する女の子の匂いは、水場に置かれた安物の石鹸なんぞでは到底洗い落とせない。



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喚けば届くわけじゃない
Title by『弾丸』





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