ふわふわした女に出会った。本当は全体練習が終わってから、剣城にキーパーの個人練習を付き合って貰いたかったけれど、彼が悪いが出かける用事があるのだと言うから、それならばランニングに行こうと決めた。ブラックルームは生憎調整中だというし、他の面子は珍しく午前中で終わった練習に午後からの自由時間を心待ちにしているという感じだったし、キャプテンはマネージャーに捕まって何やら打ち合わせをしているんだか叱られているんだかわからない感じで、話し掛けづらかった。最終手段の神童は、どうしてか今日に限って練習終了の合図と共にさっさと宿舎に戻ってしまった。ついてない。そんな小さな不運を嘆いていた所為なのか、オレは盛大に転んだ。自分の脚に引っかかって転ぶという地味な原因で、ギャグ漫画のリアクションかというレベルに転んだ。

「――大丈夫?」

 そのふわふわした女に出会ったのは、まさしくオレが盛大にすっ転び、世界中の誰もオレを見るんじゃねえと胸中で恥ずかしさを紛らわすための暴言をまき散らしていた最中であり、誰とも知れない、顔も見れない内からとにかくああ最悪だということだけはわかっていた。大丈夫なんて、そりゃあ転んだくらいで死にはしないけれども、プライドというか羞恥心というか、他人様からの視線を遮断したい状況であることくらい察してくれないものかと噛みついてやりたかった。実際そんなことすれば立場が悪いのは当然オレの方だから、どうにか堪えてみたけれど。
 のそのそと起こした上体を確認すると、案の定砂まみれで辟易してしまう。手で払い落しても、水で洗わなければへばりついているであろうくすみはすれ違う人たちにオレが転んだことを知らしめるに違いない。なんという屈辱。せめてもの救いはジャージ姿であったこと。動き回れる格好をしていれば当然なにか転んで然るべき状況にあったに違いないと勘繰ってくれるだろう。
 もろもろ言い訳じみた、自分にとって都合のいい解釈を弾きだし、最終的な思考の〆は『まあ、他人がどう思おうとオレには関係ない』という地点に落ち着く。よくよく考えればそうなのだ。ただ予想外に心配なんかされてしまったから、咄嗟の気まずさを紛らわせようとしただけで。

「顔、すりむいてるよ」

 心配してかけた声を黙殺されても、そのふわふわした女は特に気分を害したわけでもなく、顔を上げたオレに淡い微笑を向けながら自分の唇の横を突いた。きっと、オレの顔のすりむいている個所を教えてくれているのだろう。女は地べたに座り込んだままのオレを膝を曲げながら見下ろしており、その微笑が太陽を背負った逆光のせいで見づらかったことが、どうしてか口惜しく思われた。物珍しい優しさの類に当てられていたのかもしれない。水色の、腹部にリボンがついたワンピースを着ている彼女は服装とは不釣り合いなピンク色のカメラを片手で大事そうに抱えていた。
 ばちんと音がした。それはあくまで比喩の域だがそれでもオレの鼓膜は確かに震えた。たかが目が合っただけ、その一瞬に。
 それまでオレが言葉を発しなかったのは、小さな自尊心を辱める事態への対抗心だった。けれど彼女と瞳が合った瞬間から、どう言葉を発していいものか、それがそもそもわからなくなった。礼を言うのも、噛みつくのも違う気がした。
 あくまで無言を貫くオレに、ふわふわした女は浮かべた微笑を崩さないまま、カメラを落とさないよう注意しながら肩にかけていたバックから小さなポーチを取り出した。更にその中から絆創膏を取り出すと、オレの方に差し出す。その一連の行為の意味がわからないほど馬鹿ではなかったが、このときは本当に体が思うように動かなくて、まさか一回足をもつれさせて転んだだけでスポーツマンとして致命的な怪我をしたわけじゃあるまいなと不安になるくらいだった。

「貼っちゃうね」

 彼女はオレの態度など意に介さない様子で、慣れた手付きで絆創膏をオレの顔に貼りつけた。空気が入らないように、指で頬を一撫でされて、その手付きに不自然さはないのにオレの心音は不自然なまでに跳ね上がり、思わず上体をのけぞらせていた。

「…ごめんね、びっくりしたよね」
「―――い、」
「え?」
「そんなんじゃない」
「……そっか」

 ぶっきらぼうな物言いは、同年代の女子共からは大概不評で。だから矯正するわけもなかったけれど、目の前のにこにこと微笑む女が、緩やかな三つ編みを風に遊ばせながら怯むでも、怒るでもなくただ字面通りオレの言葉を受け取って満足そうに頷いたことが新鮮だった。しくじったと一瞬の悔恨からすぐさま引き戻されて、結局オレはこのふわふわとした女の前で一度たりともまともな言葉を掛けることはできないままでいる。心配の言葉がお節介だったとして、礼を言うべきことでもあるだろう。何より頬に貼られた絆創膏の感触がむず痒い。ついでになんだか胸の辺りも。自分の心身に起こった異常に、オレは最初から最後まで戸惑うしかなかった。



 ふわふわした女に出会った。それは今日の午後のことで、オレは突然降りかかった自身の異変に戸惑うあまり名前も聞けないまま、これから人に会う約束があるからと立ち去る彼女を呼び止めることもできなかった。ただ背をむける直前、控えめに振られた手にどうにか手を胸の辺りまで持ち上げるのが精一杯だった。誰に会うんだろうかとか、もう会えないんだろうかとか、疑問は多々あった。ぐるぐると激しく動いているのに全く考えを纏められない思考回路の混乱を誰かに鎮めて欲しかった。
 ――だがそれはいったん後回しにしよう。
 今はふわふわした女の残照によってふわふわとした心地にあった思い出を叩き壊すようにオレの夕飯のトレーに大量のニンジンを降らせてきた神童を問い詰めるのが最優先だ。何故かは知らんが、今日の神童は午前中はなかなかご機嫌だったくせにオレがランニングから帰り、どうやら奴も出掛けいたらしき場所から帰ってきたときにはものの見事に不機嫌になっていやがった。

「喜べ井吹、明日は俺がマンツーマンでお前のキャッチングに付き合ってやろう。狙うは顔面、絆創膏1枚では全く役に立たないようぼこぼこにしてやる!!」

 そんな台詞で喜ぶ奴がいると思ってんのかあの野郎は。ふと、オレの脳裏であのふわふわとした女の微笑みと声が蘇ってきた。
 ――大丈夫?
 たぶん、大丈夫じゃない。



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桃色の午後
Title by『魔女』




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