生命が初めて誕生した場所が海だということ。人間の身体の半分以上が水分であるということ。他にも、精神的にも身体的にも負担を強いている状況が痛ましかったこと。剣城が神童の涙を苦々しく思ってしまう理由は多岐に渡り、どれが正解だと言いきることもできなかった。そんなに泣いては溶けてしまうだろうに、乾いてしまうだろうに、目元を腫らしてしまうだろうに。ぼたぼたと零れ落ちて行く神童の涙に溶けているはずの、彼の堪えきれない感情を拭ってやれないこと、救ってやれないこと、それだけがただ申し訳ないと剣城の胸に僅かな罪悪感をもたらすことが辛かったのかもしれない。それが剣城の役目なのかと問われれば、神童はそんなことは望んでいないと気付かされるだけなのだけれど。ただ剣城は、目の前で静かに泣き続ける神童の涙をどうにかして食い止めなければならないと、一種使命感にも似た感情に燃えてじっと彼を見つめていた。


 海に行こうと言い出したのは神童で、剣城は何の疑問も持たずその提案を了承した。目的のない散策を共にする程度の近しさを剣城はむず痒く感じる。何せ他人との距離感が若干おかしい同級生がいるものだから珍しくもないと錯覚しそうになるけれど、学年も違う部活動の先輩とは果たして二人きりで海に行くものだろうか。いつか剣城に後輩ができたとして、その後輩に目を掛けるようになったとして、海に行こうなどと誘ったりはしないだろう。もしかしたらそれは剣城の性格によるのかもしれない。けれど神童もまた、剣城に声を掛けるよりも気軽な存在が他にもいるはずだった。学年を跨ぐとはそういうことだと、剣城はぼんやりと思っている。
 それでも、剣城が神童の誘いを断らないのは偶々都合が空いていたからでも、先輩という立場に敬意を払ったからでも何でもない。断っても、神童はきっと構わず海に行くだろう。海でなくても、どこか遠くへ行こうとするだろう。そして彼はきっと泣いてしまうに違いない。そんな予感が剣城にはあって、そんな状況に神童をひとり送り出すことに、本人でも首を傾げてしまう程の抵抗を覚えた。それだけ。それだけがどれくらいか、自分の心に幅を利かせる感情を剣城は持て余し、ぴったりと神童を見張るようについてきたくせにいざ剣城の予感を肯定して神童が泣き出しても一切の行動を起こせないままでいる。泣き止んで欲しいと思うのに、触れてしまうことはひどく無粋なことだった。涙に溶かさなければ外に出て来ることのない神童の感情は、いつだて剣城に何も求めてはくれないから。
 居た堪れなさに視線を落とすと、履き慣れた靴が砂で汚れていた。神童の足もとを見遣れば彼の涙の痕がぽつぽつと点を打っている。あと数歩前に踏み出せば、押し寄せる波に涙の痕跡を消してしまえる。気付いてから、剣城はどうか神童がその場から動いてくれないようにと願った。蹲られでもしたら、きっと波に浚われてしまうだろう。そうなったらきっと剣城はもう助けてあげられない。

「――神童さん」
「うん」

 何が「うん」なのか、剣城にはさっぱりわからない。名前を呼んだだけで、言外に籠めた意味などありはしない。もし含意というほど確固ではない淡い期待を抱いていたとしたら、泣いていてもいいからせめて自分の方を見てくれないかということくらいだ。けれどそれは伝わらなかったようで、神童はずっと遥か水平線の方を見つめたまま、相変わらず両の瞳からはぼろぼろと涙を零し続けている。このままでは生命維持に必要な水分を放出してしまうのではと危惧してしまうくらいには、その涙は絶え間ない。

「なあ剣城、お前には今何が見えてる?」
「……神童さんです」
「俺には海が見えるよ」
「でしょうね」
「お前も折角海に来たんだから俺ばかりみていないで海の方も見てみたらどうだ」
「……はあ、」

 そういうものだろうか。剣城は曖昧な言葉しか返せない。神童は泣きながら、それでも落ち着いて言葉を紡ぐ。自分ばかりではなく海でも見ればと神童は言う。けれどそれをすれば、剣城がここにいる意味がなくなってしまう。神童を、決して孤独に泣かせないという身勝手な願いが消えてしまう。だから剣城は段々と意固地になって、意地でも神童から目を逸らすまいと彼の横顔を見つめ続ける。一度は逸らしてしまった視線を叱責するように、じっと。
 そんな熱烈な視線を意に介さない神童は、きっと見られることに慣れている。仲間から、ライバルたちから、神童を好く女の子から、スタジアムを埋める観衆から、もしくは彼の肩書きばかりを知る赤の他人からだとか。兎角大勢の視線に埋め尽くされて、窮屈さを背負いながら生きていく。誰であっても多少は同じことだ。剣城だって、きっとそう。けれど剣城は自分から余計な重荷を背負いに行ったりはしないから。冷めているわけでは決してなく、理不尽や不可解の中であっても自分のやるべきことが変わらないならただ前を向くしかないと割り切っている。環境に頓着しない。それを整える力が自分にはないことを剣城は知っている。けれど、神童はどうやら剣城のようには振る舞えないらしい。他人の想いを託された以上はという義務感かもしれない。ひとりでは上へ行けない実感からの拒否反応かもしれない。何であるにせよ、どうにも神童の生き方は見ていて狭隘だ。

「――帰るか」

 神童がそう言い出す頃には彼の涙は止まっていて、枯れてしまったのだろうかと剣城が探るよりも早く歩き出していた。神童が海から離れて行く姿を確認して、漸く剣城は折角やってきたという海を見た。いくら泳いでも辿り着けない水平線は遠く、もしも涙ごと吸い込まれたら二度と還ってはこれないであろう雄大さ。思わず奪われた視線を遮るように神童が名前を呼んだので、漸く剣城も神童を追った。

「わざわざ一緒に来て貰っておいて何だが、剣城は何を一生懸命俺の顔を見ていたんだ?」
「……涙と一緒に海に飛び込まれて帰ってこなかったら困ると思って」
「それはつまり……極論だな」
「まあ、止めますけど」
「そうしてくれ」
「気は晴れましたか」
「ああ。今日はありがとう」
「…どういたしまして」

 今剣城の前にいるのは、いつも通りの神童だった。不安定な瞳など過ぎらない、凛とした表情でそこにいる。後輩の前で泣き腫らした瞳を晒すことへの気まずさも感じないのか、淡々と剣城との会話に応じている。
 ただ、剣城に礼を言うその瞬間僅かに緩んだ口元が神童の表情を柔らかく微笑ませた。その微笑を見た瞬間、剣城の中で今日一日ずっと渦巻いていた神童への処理しきれない感情が、綺麗に纏まってすとんと落ちてきたような、薄暗い視界が突如開けたような黎明が訪れた。
 ――ああ、好きなんだな。
 たったそれだけの事実で、剣城は神童に泣いて欲しくないと思うし、海に浚われて欲しくないと思う。生命が誕生した場所が海だからといって、いつか海に還ってしまう為になど泣いて欲しくも、生きて欲しくもない。ふらふらと彷徨う神童を抱き寄せるだけの気概はまだ抱けないとしてもひとりぼっちにもさせない。そんなことを、剣城は泣き腫らした目元を押さえながら帰り道を歩く神童を前に、勝手に誓った。



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いつか海に還るために
Title by『東の僕とサーカス』





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