放り投げられた眼鏡が落ちる音がした。絨毯の敷き詰められた床で本当に良かったと思う。滞空時間の長さがイコール飛距離の長さであり、先週新調したばかりの眼鏡が粉々になったとあってはヒロトもがっかりしてしまう。それでも目先の興奮を選ぶ辺りが自分らしい。何も欲しがらない振りをして、随分好き勝手振舞う術を知っている。際限のない欲に取り込まれないよう、囲いを設けることにした。適度な束縛は効率よく動く為には必要なものだった。勿論、その為だけに吉良の姓を背負ったわけではない。後から付け加えるから言い訳がましくなるとは思いつつ、やはりヒロトの大切な友人のような家族たちには疑いの眼を向けられてしまった。懐かしい。あれはもうどれほど前のことだっただろうか。
 夕方から取引先の重役と会う約束があった。しかしその会合に向かうにはヒロトの顔はあまりにひどかった。連日の徹夜が祟ってうっすらと出来た隈や生気の欠けた顔色。それは若干普段通りではあるがこんなイケメンを捕まえてなんて酷いことを言うんだと真顔で言ってみた。お茶目な冗談である。だがヒロトの仕事が立て込めば同じように仕事に忙殺される緑川とて心に余裕がないのかヒロト以上の真顔で拳を構えだした。あれを腹にぶち込まれたら堪ったものではないとヒロトはそそくさと出掛けるまで仮眠を取ると自室に引っ込んだ。それが確か、いつの間にか夜が明けていて、瞼に痛々しいほどの朝日を受けた直後のこと。ベッドの上に寝転がりながらベッドサイドに置いてある時計で時刻を確認すれば昼の十二時を過ぎたあたりだった。
 瞼を擦り、時計を確認する。もう少し眠れるだろうかと瞼を閉じて、いやしかしとまた時計を確認する。一度は起きようと掛けた眼鏡が宙を舞ってから、ヒロトは何度もこの動作を繰り返していた。これを他人は現実逃避と呼ぶ。

「――気は済んだか?」

 ヒロトの上から声が降ってくる。もう暫く逃避させて欲しいという返事は声にならなかった。寝起き特有の喉の渇きと、混乱と、ヒロトの腹の上に乗っかっている尻が腹部を圧迫していて咄嗟の発生は上手くいかなかったのだ。
 ヒロトの目が覚めたとき、八神玲名はどうしてか彼の腹の上に馬乗りになっていた。タイトなスカートが太腿ぎりぎりまでせり上がっていて際どい。スタイルのいい身体を下から見上げる格好は視界的に大変素晴らしかった。しかし玲名が自らこんな体勢に持ち込んでくることが意外で、ヒロトは混乱した。
 玲名とは恋人同士であるから、寝室に勝手に上り込まれていることは問題ない。ヒロトが自宅の合鍵を渡そうとしてもいらないというくせに事前に連絡なく勝手に部屋に居座っていることもある。どうやら緑川にも預けている鍵をぶんどっているらしく、ヒロトは一度だけ心の中で彼に詫びた。
 ――ごめんね、俺の玲名は超クールだからね、一度断った鍵をやっぱり頂戴とは言い出せないんだよ照れ屋さんなんだ可愛いよね!!
 きっと言葉にしていたら緑川に殴られていただろうから、言わなくて正解だったと思っている。ヒロトの周囲にいる人間は、付き合いが長ければ長いほど彼の玲名に対する評を聞きたがらない。鬱陶しいと拒む。はっきりいってお日さま園出身の連中は自分の恋人について語ろうとすると大抵似たような感じになるだろうにと思っているが、それを言ってもやはり一緒にするなと怒られるのだ。理不尽である。
 さて、ヒロトがそんな回想と共に見苦しくも冷静さを取り戻すまでの時間稼ぎとして逃避を続けていると、玲名は呆れたように溜息を吐いて、もう彼の準備が整うのを待つのも無駄だとキスをした。恋人同士、当然の触れ合いはやはり玲名から寄越されたという理由だけでヒロトの心音を跳ね上げる。無防備な寝起きを襲うなんて酷いよと少女のような泣き言を零しそうになった。情けなくも割られた唇から入り込んで来た舌を受け止める。いつもとは違う体勢のキスはヒロトとしても新鮮だった。しつこく絡み合っていた舌が唾液の線を引いて遠ざかって行く。紅潮した玲名の頬と、恍惚とした瞳がヒロトを誘っていた。

「――玲名、どうしたの?」
「緑川にお前が夕方まで暇だと聞いたから来た」
「え、うん。それは…そうなんだ」
「そこでお前が間抜け面を晒して寝ていたから――」
「馬乗り?」
「………」
「玲名、もしかして寂しかった?」
「……………ぃ」
「え?」
「…否定はしない」
「――――、」
「? ヒロ――ト!?」

 ここ暫く忙しくてまともに二人の時間を確保できていなかった。それでも寂しかったなんて滅多に曝け出されることのない玲名の本音と、拗ねたように顔を背けながらの態度に、ヒロトの意識が完全に覚醒した。玲名を前にして一時でも眠気に押されていた自分を殴り飛ばしたいほどに、その変化は顕著で玲名が訝しんで名前を呼び終わる数秒を待たずにヒロトは玲名との位置を入れ替えていた。玲名をシーツの上に押し倒して、その上に覆い被さる。普段ならば、よほど雰囲気を作ってからでなければ悪態をつかれるのが常だった。けれど今は何も言われない。ただ突然放り投げたから驚いたとか、その程度の不満を視線で訴えられる程度。その視線も先程の深いキスの余韻を引きずって潤んでいるから迫力がない。
 額が付くほどの至近距離で見つめ合う。眼鏡がなくともぶれたりはしない。それは単に距離の具合によると知りながら愛故にと思い上がってみたりする。きっと玲名は、疑わないでくれるだろう。少なくとも、ヒロトが玲名を愛しているというその事実だけは。

「脱がしてもいい?」
「……時間は?」
「優に四時間はあるよ!」
「……ならいい」

 ここで玲名との時間の為なら仕事なんて放りだすと言ったら怒りの鉄拳を貰うことになるだろう。ヒロトとしては仕事よりも玲名を優先する気持ちはいつだって変わりないのだけれど、現代社会に身を置く大人としては大切な人と共に生きる為には時に仕事に忙殺されることも致し方ないことだと割り切っている。
 ――だからこそ。
 こうして手に入れた二人きりの時間は余すことなく、誰にも邪魔をされずに愛し合いたかった。そして相手もそれを望んでくれていることをヒロトは幸せと呼ぶ。
 玲名の糊が利いた白いシャツのボタンを外してその下から覗く柔らかな肌に指を這わせながら、ヒロトは彼女にキスをした。出来るだけ優しく、けれどその裏に隠された玲名を求める獰猛さを彼女は身を以て知っている。それでもこうしてヒロトの領域に迂闊を装って入り込んでくる。二人はどこまでも両想いだ。
 玲名によって放り投げられたヒロトの眼鏡は、あと数時間は持ち主に拾い上げて貰えそうにない。



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きみに惚れてる
Title by『魔女』





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