もう歩けないと茜が呟いた。蹲って、その表情は見えない。けれどきつく噛まれた唇だけは立ち尽くしたまま茜を見下ろす神童にもはっきりとうかがえて、そんな風にしたら唇が切れてしまうだろうにとぼんやり考え込むことで吹き抜けた生温い風が助長させた気まずさに知らんふりを決め込もうとした。そんなことは勿論吹不可能である。きっと、茜が俯き続けている以上は。
 二人で出掛けた帰り道のことだった。サッカー部の用事というわけではなく、単純に神童が茜をクラシックコンサートのチケットがあるから一緒に出掛けないかと誘ったのだ。中学生らしくないと幼馴染や部活仲間には言われたけれど、神童にはそれ以外相手を訝しがらせない理由を拵えて誘いの声を掛けるなんてことは出来なかった。サッカーとピアノ以外のことには存外不器用なのかもしれないと、神童は初めて自己分析を試みたりもした。頓着がないだけかもしれないが、それならばわざわざ相手に茜を選ばなくても良かった。頓着よりも執着の問題かもしれない。恋という言葉を素直に思い浮かべられない鈍感さが、神童らしさであり彼特有の残酷さでもあった。抱えた想いを自覚して、行き着きたい地点を純粋な恋心で思い浮かべたうえで神童が茜との距離を詰めようとするのであれば彼女もまた自身の心と向き合うことを必要としたであろうに。不用意過ぎると、神童を嗜めてくれる人間は生憎いなかった。悪いことをしているわけではないのだから、当然といえば当然のことだ。

「シン様が言うなら、私はそれで良いよ」

 茜の返事を、神童は誘いへの了承と捉えた。それは間違いではなかったけれど、きっともっと別の感情も滲んでいたように思う。都合の良し悪しを尋ねた言葉に対しては不適切な言葉だったし、けれどコンサートの開始時刻も終了時刻も決まっているのだから、茜も行くと言ってくれさえすればあとは待ち合わせ場所と時間の提案をすればそれで済む。そして提案に頷く言葉としては、茜の返答は何ら違和感を神童に与えはしなかった。
 待ち合わせ場所には予定よりも5分ほど早く着いた。神童がその場からぐるりと周囲を見渡してみると、直ぐに此方に向かって歩いてくる茜を見つけて出迎えた。歩み寄っても良かったのだけれど、気恥ずかしかったので踏みとどまった。
 具体的にどんな会話を交わしたか、そのとき自分はどんな顔をしていたか、どんな風に心を揺らしたか。ひとつひとつ、着実に思い出してみようと神童は努めた。冷静を装う表情と、冷静でありたいと願う感情が神童を内側から圧迫してくる。茜はまだ立ち上がらない。もう歩けないと言ったのだから、立っている必要もないのだろうか。けれどいつまでもこうしているわけにもいかないだろうとか、それなら誰かに迎えにきて貰ったらどうだとか、叱るにも突き放すにも説き伏せるにも神童にはどんな言葉も発する気力が湧かなかった。きっと徒労に終わるに決まっているとどこかで理解している。
 茜だって、神童を困らせたくて駄々をこねているわけではないのだろう。きっかけはわからないまま、感情のタガが外れてしまった。それが噴火のように激しいものではなく静かに萎んでいくものであることを、不意に神童は好ましいことのように思われて、茜に目線を合わせるように片膝を地面に着いて、俯いた彼女の顔を覗き込もうとした。

「シン様は優しいね」
「そんなことはない」
「誰にでも」
「誰にでも優しい人間なんていない」
「だから私はもう歩けない」
「だから」
「そう、だから」

 不適切な接続詞だと神童は“だから”の三文字を舌の上で転がした。茜は呼応してやはりその三文字を繰り返した。茜は神童を優しい人間だと思っている。誰にでも優しくて、けれどそんな人間はいない。誰にでも優しいということは誰にも優しくないのと同じこと。当たり障りのない位置で、許容も拒絶もなくただ目の前にいる。茜にとっての神童拓人とはそういう人間だった。きっと、神童が茜に心を開いて、受け入れてくれたことなどありはしない。茜は頑なにそう信じ込んでいる。だから不用意に近付いてこられては困るのだ。茜は本当に、どうしようもなく神童のことが好きだったから。好きだから、神童の内側には入り込めなくてもサッカー部という外円の内側に飛び込んだのだ。苦しくて仕方がなくて、痛くて、けれど恋心故に喜びと混ざり合って、好いた相手の隣を歩くことがこんなに難儀なことだとは茜も知らなかった。

「もう歩けない」
「―――」
「もうどこにも行けない」
「それは――ひとりだから無理なのか」
「…わかんない。そんなの。だって、だってシン様――」

 私のこときっと好きじゃないよ。恐らく、そんな言葉が続くはずだった。相手の気持ちを否定して、それが現実だったら傷付くのは自分だと信じながら、けれどそれが傷を浅くするための自衛手段だと理解している卑怯な言葉。茜がその言葉を発するよりも早く、神童が力尽くで彼女を引き上げる形で立たせていた。近くで見た瞳は、遠くからカメラに収めるしか出来なかった、サッカーをする際の真剣な色で真っ直ぐに茜を見つめていた。

「ひとりだからもう歩けないのなら、俺がいてやる」
「――嘘」
「山菜がもう一度歩けるようになるまでいくらでも待つし、どうしても無理だって言うなら背負ってでも一緒にいてやる」
「どうして?」
「――それは…」

 心底から、理解できないと訴えてくる茜の瞳に神童はたじろいだ。どうしてそうまでして傍にいようとするのだろう。それは茜からの問いだったか、自身の内から湧いてきた問いだったのか。どちらにせよ、答えを出さなければならない問いではあった。
 神童のことを、自分のことなど見ていないでしょうと決めつけて突き放そうとする茜を否定したかった。きっと茜は神童の言うことの大抵を拒まない。神童がそう言うならば構わないと頷くだけ。それなのに、神童自身の気持ちを受け取ろうとはしてくれないなんておかしいじゃないかと傲慢を滲ませて不満に思う。
 さて、その気持ちとは果たして。
 ぱちんと目の前でシャボン玉弾けたような、衝撃はなく、ただ反射で瞳を閉じてしまう、そんな破裂を意識の中で見た。そしてただ納得するのみだった。成程、言葉は大前提を詳らかにしなければ位置を隣にしても意味はないようだ。

「俺は、山菜が好きだから、いつだって一緒にいたいと思う。それじゃあ不足か?」

 今度こそ、茜は言葉を失って、それでも神童の瞳と声から嘘偽りのない本音だということだけは伝わって来た。俯きながらゆっくりと首を振る。また顔が見えなくなってしまったと神童は少しだけ残念に思ったけれど、これは神童を拒否しているからではなく恥じらっているだけだろうと、彼女の気持ちが落ち着くまで待つ。
 もしも、次に茜が顔を上げたとき、微笑んで、神童を受け入れてくれたそのときは。きっと二人でどこまでだって行けるだろうし、どこへでも連れ去ってやれる。
 そんな根拠のない自信を抱いて、神童は茜を立ち上がらせる為に掴んだままでいた腕をもう一度引っ張った。出来るだけ優しくしたつもりだが、突然のことに驚いて前のめりになる茜を腕の中に閉じ込めて、声にならない悲鳴をあげて慌てるその反応に、神童の口元は自然と綻んでいた。
 数分後、小さな声で「もうちょっとだけなら、歩ける…かも」と恥ずかしげに呟いた茜に、神童は満足だと頷いた。



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一息に愛してくれ
Title by『弾丸』





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