茜を抱き締めながら、神童は何度も呻くように詫び続けている。それはもはや茜の判断で彼の気持ちをどうこうしてやれる、謝罪の範疇を超えているように思われた。気にしないでいいよと微笑んでも、どうしてと憤慨して見せても、何も言わずに拒絶を示して背を向けたとしても、きっと神童は涙にくれたまま、すまないと繰り返す。字面通りの気持ちは確かにそこにあるだろう。だが届かせるつもりも、その謝罪の後に損なわれた何かを取り戻すつもりもなく、停滞を望む悪足掻きの一種でもあった。もしも一瞬で、神童の腕の中にいる茜が、別の何か――例えば抱き心地のいいぬいぐるみに入れ替わったとしても神童は気付かずにその腕の力を緩めることもしなのだ。そんな想像をしてみてから、漸く茜は胸の内で神童に対して何てひどい人でしょうと呟いた。声に出さなかったのは、それは勿論、茜が神童という恋人を誰よりも好いているからだ。好いて、恋して、愛していると臆面もなく頷ける、それだけの人だったからだ。
 どうやら神童は、茜が抱くのと同じだけの想いを返すことは出来ないそうだけれども。



 婚約者がいるそうだ。神童の言葉を簡単に纏めるとたったこれだけの文量に落ち着く。けれど、たったこれだけの言葉を口にするまでに神童の胸に去来した感情は膨大な量を誇り彼の心をぐちゃぐちゃに押し潰してしまったらしい。涙腺は弱い方だったのかもしれない。それでも最近は随分と逞しくなって、茜の前では滅多に涙を見せていなかった神童が、茜と顔を合わせる前から顔をぐしゃぐしゃにして、彼女を見つけた途端抱き締めて来たのだ。そして聞き取りづらい嗚咽まじりの声で婚約者の存在を告げたのだ。
 ――つまり。
 茜はこてん、と自由の利く首を傾げて見せる。神童には見えないであろうことは承知しているけれど、出来るだけおどけた雰囲気を出せるように。シリアスなんて重苦しくて嫌んなっちゃうわと言葉にするにはあまりに無粋というものだから。そしてそんな振る舞いで打ち壊せるほど、神童の涙と言葉は軽々しいものではなかったから。

「わたしたち、これでもうお終いなの?」

 茜の言葉に、神童は大仰なまでに肩を震わせた。茜の言葉に対する拒否の返答のつもりなのかもしれない。
 けれど、そうは言ったってあなた。
 茜は苦笑しながら神童の背をそっと撫でた。神童があまりに気遣いなく腕に力を籠めるものだから、どうにも不自由で仕方がなかった。駄々をこねて欲しかったのかもしれない。けれどもしもそうであるならば、神童の言葉と振る舞いこそが癇癪以外の何物でもない。
 婚約者なんて、漫画やドラマの世界にしか見つけたことがなかった。ましてや自分の年齢でそんな存在がいるなんて、やはり神童は住む世界が違うのかもしれない。ぼんやりと茜はそんなことを思う。亀裂を見つけて指でなぞって、予め崩壊を感じ取っていれば粉々に砕けてしまっても負う傷は浅いのではないかと期待して。
 両想いだと知った時は本当に嬉しかったし、初めて下の名前を呼んで貰えた日のことだって忘れていない。手を繋ぐタイミングを計った帰り道も、たどたどしいキスも、全てが今も茜の胸の中で煌めいて褪せることなどないと自信を持って頷けるのに。それなのに、神童はどうしようもない未来に抗うことを前提とせずにただ茜に結論を投げ出した。それが今、どうしようもなく茜を悲しい気持ちにさせた。
 幸せだと感じていた日々が、終わりを絶対的に予見させて収束していく。永遠なんて信じてはいないけれど、明確に示されると早すぎると感じてしまうのは我儘だろうか。悲しくて、苦しくて。泣き喚いて神童に縋ってそれならどうして私の気持ちを受け入れたりしたのと責め立てればいいのだろうか。そうすれば、神童の気は済むのだろうか。そんなことをしても覆りはしない現実に、茜の気持ちは何処へ向かえばいいのだろうか。きっと神童はそんなこと教えてはくれない。そして肝心の涙は、まるで神童の瞳から代わりに溢れていると言わんばかりに、乾いた茜の瞳を濡らすことはなかった。本当に悲しいと、涙なんて流している暇なんてないのかもしれないと茜は神童の肩に頭を預けながら思ってみた。勿論、泣きじゃくる神童の悲しみが本物でないと疑っているわけではない。少なくともまだ、茜は神童が自分に与えてくれた想いの根元を愛だと信じている。

「ねえ、シン様」
「わたしね、本当にシン様のこと好き」
「二人なら何だってできるし、二人でいられるならそれだけで充分だって思ってた」
「でも」

 ゆっくりと、茜は言葉を吐きだす。二人一緒ならば、何だって、何処だって、困難なんて飛び越えて。幸せだけを描くように、選ばなければならない別れの悲しみが、思い出の中にある幸福に勝ってしまわないように慎重に言葉を紡いだ。
 けれど、やっぱり最後まで微笑んでいるなんて出来なかった。
 漸く鼻の奥がつんとして、ああ泣いてしまうと手に負えない涙の行く末を案じた。神童をこれ以上苦しめないように、それだけを願おうとする。

「――茜」

 いつの間にか泣き止んでいたのか、凛とした声で名を呼ばれ茜は身体を硬くした。この呼び声もいつか名前から苗字に戻り、そして失うのだろう。
 愛故に、察しが良くって笑ってしまう。だから期待をしないように、失うものの数を数えようとした。だが耳元に寄せられた神童の唇は、茜を裏切る言葉を選ばない。これ以上は、決して。

「――逃げようか」

 言葉尻は僅かに震えていたのかもしれない。至近距離で聞き取ったのに、よくわからなかった。嬉しかった。抱き締めていた腕を緩めて、お互いの顔を見つめれば随分と久しぶりに瞳がかち合ったような錯覚に陥った。
 二人なら、何処へだって行けるような気がしていた。何だって出来るような気がしていた。思い上がりなのだろう。きっと引き離されるだろう。だけど二人は共に在ることを願うから、それを選ぶ。はしかのような愚かしさだよと嗤われても。

「わたし、シン様と一緒なら何処だって行くよ」
「うん」
「――わたしのこと、連れ去ってくれる?」
「……ああ」
「ありがとう」

 ままならない。諦めを滲ませ、それでも脆い希望に縋ろうとする茜の微笑みを前に、神童はただ綺麗だと目を細め、彼女の手を取って歩き出した。
 最後に一度だけ、神童はまたすまないと詫びた。それに対する茜の返答を、神童は受け取ることのないまま歩き続けた。繋いだ手を解かないよう、前を見て、歩き続けた。



―――――――――――

「どこへでもいけそうだと思うのはきっときみに連れ去られてしまいたいからだ。」
Title by『深爪』





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