癇癪じみている。怒鳴り声も暴力もない、ただむかむかと痛む腹の奥底で凶暴で幼稚な感情が渦巻いている。目の前で涼しい顔をしている茜はきっと気付いている。蘭丸の拙さ、卑しさ、そしてそれを自身で否定しでも理想的であろうとする善良さを。何も言わないのは、他人であるからか、それとも同属であるからか。後者であるならば、蘭丸は茜を嗤うよりも真っ先に逃げ出してしまいたい。鏡のように映しだされては見るに堪えない感情を飼っている。餌を与えなくても健やかなに育った怪物は、決して蘭丸を支配したりはしないのに。それでも蘭丸は恐ろしい。慈しみたいものほど壊したくなる反動は、やはり自分が未熟だからだろうかと己を痛めつけてみてもレベルアップは容易くはない。壁というほど頑強でない、穏やかな日常の視界の中で蘭丸にとってひとつの指針でもあった神童が雷門から旅立って行った日から、ぽかんと開いてしまった穴がある。ぼろぼろと零れ落ちるものなどありはしなかった。ただ無視できない大きさの穴だった。自分が誰の背中を守っているのかを見失ってしまうような依存や意地はとっくに脱ぎ捨てたつもりでいたけれど、いなくなってもかまわないとふんぞり返れるほどの距離は置けていなかったのだと現実を突き付けられた。本当は、神童は選ばれた人間で蘭丸は選ばれなかった人間だと、その落差に最も落ち込まなければいかなかった。勿論落ち込みはしたけれど、そのぬかるみではしゃげなかったのは蘭丸の中にある穴を覗き込むように立つ少女が現れたから。
 ――ああ、こいつの世界も大概神童塗れなんだよなあ…。
 蘭丸が茜との距離を縮めるようになったのは、紛れもなく神童拓人が日本代表に選ばれたことによる不在が原因だった。茜は明らかに偶像崇拝の対象を失って手持無沙汰になっていたし、蘭丸も追い駆ける視線の固定先を持て余していた。正直、同じ欠乏症を患っていることに気が付いたとして、何の足しにもならなかった。オルタナティブ、神童の代わりの彼女、若しくは彼。迷う間でもなく、神童でないという一言でけりがつく。それでも引き寄せてみたのは、きっとただの気紛れだ。

「霧野君、今日は昨日よりパスミスは減ったけど、狩屋君がちょっかい出してるのに気付かなかったのが3回。まだまだ全快とは言えないね。そろそろ倉間君辺りに怒られちゃうかも」
「そっちこそ、タオル運んでる途中グラウンド覗きながら立ち止まってたろ。いもしない神童探すのは勝手だけど、瀬戸にげんこつ食らう前に現実見ろよ」
「こっちはマネージャーの数が減って仕事の割り振りが変わったから色々大変なんだもの」

 ぷいっとそっぽを向く茜の手の中にカメラはない。帰り道にまで抱えているはずがないかと蘭丸は気にも留めない。寄り道は好まなかったが余計なことを考える時間が減るのはいいことだと立ち寄ったチェーン展開の大手コーヒーショップは学生や社会人たちで混み合っている。
 積もる話も何もなく、道行く人の職業予想クイズも正解が示されないのだから数分で飽きる。嫌いな教師の悪口から始まり生徒間で話題の噂話など持ち出してみてもお互いクラスメイト以外の顔と名前が一致しないものだから盛り上がらなかった。二人してまあ、視野の狭いこと狭いことと肩を竦めてみせる。何の不自由もしない暮らしが望ましい。それはきっと、ほんの数日前まではぴったりと満たされていたはずのラインだった。
 神童がいなければ何もできない二人ではなかった。ただモチベーションの問題で、見栄を張って生きてきたつもりはないのだが神童という基準を失くした途端自身へのハードルがとことん低くなってしまう。神童がいないから、これくらいで。プライドはあるし主張しないだけの我ならば割と強い。それが他人とぶつかり合う方向に、自身を圧迫しない程度に働いてくれるならばどこまでもひたむきに上を目指す人間であれたかもしれない。蘭丸も茜も、他人とぶつかり合う以前に他人などどうでもいいと排他的になる人間だった。二人にだって友だちはいて、大切だった。そんなに神童がいいならば切り捨てろと言われても二人は嫌だと首を振るだろう。
 友だちとは優しいものだ。叱ってくれるし、甘やかしてくれるし、厳しくしてくれるし、支えてくれる。だからここ数日の不調を咎められたとして、蘭丸は真摯にその言葉を聞くだろう。原因がはっきりしすぎていて、解決方法がわからないので、その声に応えてやれるかどうかは別問題としても、その気概はある。それはたぶん、水鳥に対する茜の心境も似たようなものだろう。そこに蘭丸の邪推を挟み込ませて貰えるならば、茜が神童に向ける視線の意味が恋愛であるならば友だちの声などどれほど有効なのか。偏見だろうなと苦々しくはある。しかし傾倒しすぎている少女の盲目が他者に対する聡明さと並び立てるものであったら、蘭丸は茜に対してまで敗北感を味合わされそうで、嫌だった。

「霧野君、シン様とメールしてる?」
「してない。あいつも気を遣ってるのか、それともあの面子だからなあ、自分のことで手いっぱいなんだろ」
「シン様、結構視野が狭くなりがちだよね」
「……そうだな」
「悪いところも見えてるつもりだけど、好きになっちゃうと、やっぱり見えてないことの方が多かったりするのかな」
「お前、神童のどこがそんなに好きなんだ?」
「……どこだろう?霧野君は?」
「付き合い長いからなあ…今更好きとか嫌いとかで括れるもんでもないんだけど…」
「でも、シン様のここが一番好きって挙げるなら、どこ?」
「うーん」

 水滴を纏うカップを手に、ストローを噛んで神童の姿を思い描く。付き合いは長く、嫌いではない。やたら目につく背中に、引き離されたくないと思う。異様な執着とは呼ばせない。幼い頃、自身の技量を見定める天秤の片方の皿に神童を乗せてしまったから、その日から蘭丸の基準と対抗は神童が相手だ。勿論、同化を望むのではなく向き不向きは吟味して今の役割を選び取ったつもりではいるけれど。
 友だちは多くない。けれど少なくもない。顔だけ広くて軽薄な付き合いを繋げるよりは断然マシだった。張り合うこともなく、ただ軽口を叩き合うことが気楽な関係もある。サッカーなんてまるで興味を持たない人間も、馬は合わないが好ましい人間も。それでも蘭丸は彼等と神童を比較して、後者を選ぶ。その理由、時間の比重だけでは語れない何か。

「―――俺にあんまり興味なさそうなところ、とか?」
「霧野君それマゾっぽい」

 そう憐れんだような目で見つめてくる茜に、その瞳に浮かんだ冷たさに一瞬ときめきかけてしまったなんて、そんなことは。感じ取った茜の強さに、蘭丸は心惹かれる部分があることを否定しない。
 蘭丸は、癇癪じみた自身の稚拙な感情の刃などものともせず、傷付きもしない人間が好きだった。その最たる例が神童拓人であり、今は山菜茜にもその兆しを見つけている。そういう人間は大抵蘭丸を最優先することのない存在なのだから、茜の指摘は微妙に正しい。
 ――あれ、俺マゾなの?
 答える声は、ない。



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冷たくないですか?この世界、
Title by『るるる』





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