※イナクロ終了後設定


 左手の薬指に嵌まった輝きに何度も目を落とす。ふとした瞬間に映り込んだ光を意識せずに通り過ぎることができない。それが夏未の幸せの象徴で、この先決して失われることのない幼いあの日、円堂守と出会った日から歩み続けて行く道の途中の出来事なのだと思っていた。

「――夏未?」

 名前を呼んでも、夏未はいつものように「どうしたの?」と尋ね返してはくれなかった。気の強さは凛とした表情に名残を残して大人になるにつれ穏やかさを常とした。それでも照れ屋な一面は克服する機会を得ないままやってきて、夫婦となっても日常的にべたべたと相手に纏わりつくようなことはなかった。ましてや夏未の方から円堂に抱き着いてくるなんてことは滅多なことがなければありえない。
 しかしその滅多なことがあったから、夏未はこうして円堂に抱き着いたまま離そうとしないのだ。円堂が名前を呼べば、その声が今抱き締めているのは円堂であるという確かな証拠となりまた彼女自身もここにいるという実感を生んで、ただ抱き締める力が強くなるだけ。それでも円堂を痛がらせるだけの力を夏未は持っていなかった。中学時代ならまだしも、あの頃の夏未が円堂にこんな風に抱き着くなんてことは羞恥心と周囲の目を気にして絶対に出来なかったことだ。いつの間にか夏未の背を追い越して、相変わらずのサッカー馬鹿で、心配しかさせてくれなかった円堂の傍にいられること。夫婦という特別は、円堂と夏未を何よりも強固に結びつける証の筈だった。
 ――それでも、後ろを振り返らずに駆け抜けて行ってしまう癖は直らないのね。
 キーパーとして、仲間たちを背後から鼓舞してきた円堂は自身の背後に対する周囲力があまりに散漫だった。変わることのないサッカーへの情熱は、雷門の後輩たちを見守るのに発揮して貰っても夏未とて一向に構わないのだがそれはあくまで無事に自分の元へ帰って来てくれることを大前提としての寛容だったらしい。

「…交通事故で死亡だなんて、ちっとも円堂君らしくないわ…」

 漸く絞り出した答えの恨みがましさに、夏未は思わず唇を噛んでそれ以上の言葉を噤んでしまう。そして声を出して初めて、自分が今にも泣きそうなことに気が付いた。
 非現実的な展開には多少免疫を持っていたつもりだったけれど、大人になる内に降りかかる災難の度合いも強くなっていたのか。未来からの干渉でサッカーが奪われることを阻止しようとして捕まってしまった円堂と、その消失への辻褄合わせとして顕現した世界のことを夏未は覚えていない。けれど全てが解決して久しぶりに帰って来てくれた円堂が、笑い話の類として人づてに聞いたらしい自分が捕まっていた間の話を打ち明けた瞬間、夏未の背筋は凍りついた。
 円堂の言う通りならば、夏未は一度彼に先立たれたことになるのだから。そんなもしもを想像しただけで、何処にもいかないでと円堂にしがみつかずにはいられない、まるで今がこの世の盛りと疑わない少女のような一途さだった。

「――ごめん、でももう何処にも行かないから…泣くなよ、夏未」
「……まだ泣いてないわ」

 些細な意地を張るくせを見抜かないでいてくれる。その鈍感さを通り越した先で結ばれた、そんな恋だった。察して貰うことも、気遣われることもなくありのままで向かい合った想いだった。だからきっと、まだ泣いていないことが事実だとして、円堂が泣くなと言っているのだから、夏未はきっと泣いてしまうだろう。困らせたくはないけれど、困らせてもいい、それが夏未にとっての円堂で、夫という存在なのだから。
 キーパーとして、何度もチームの窮地を救ってきた大きな手が夏未の柔らかな髪を撫でる。その手の感触も、押し付けた鼻先から香る匂いも全部身近な、記憶から薄れることのなかった数々の物。それが最悪永遠に遠のいてしまっていたかもしれないだなんて。勿論、雷門の後輩たちを夏未とて交流を持たずとも信じてはいるが、信頼と心配は別物として同時に存在し得る感情なのだ。

「円堂君」
「……ん?」
「何処にも行かないでってお願いするのは無理なの、わかっているわ。だから遠くに行ったっていいの。何処までだって追いついてみせるから。だけどお願い、黙って消えてしまったりはしないでね」

 円堂の顔を覗き込みながら、懇願する。円堂の瞳に小さく映り込む自分の瞳がぐらぐらと揺れていて、頼りない幼子のようだった。円堂は何も言わず、夏未の言葉を咀嚼するように数秒の間静止して、それからあの、太陽のように温かく、そして力強さよりも優しさを湛えた笑顔を浮かべて夏未と額を合わせての至近距離で彼女の顔を覗き込み返してくる。

「なあ夏未、俺はさ、サッカーが凄く好きで、ずっとそればっかりできっとサッカーがなければ出会えなかった奴らとばっか付き合いが続いてて、それはたぶんこれからも変わらないんじゃないかなって思ってる」
「ええ、そうね」
「だから夏未の言う通り、色んな所に行って、サッカーしたい」
「それが円堂君らしいもの」
「でも、夏未を置いてなんか行かない」
「――――、」
「追いつく必要なんかない。今だってこれからだって、夏未の居場所は俺の隣。そうだろ?」
「……良いの?」
「良いも何も、夏未は俺のお嫁さんだろ?」
「…うん」

 今更、何を言葉に出して確認することがあるのだろう。直球的な物言いに気恥ずかしくなって顔を背けることは初めてじゃない。それでも、今覗き込んでくる円堂の瞳から逃げるように俯いてしまったのはとうとう堪えきれなくなった涙が零れ落ちてしまったから。けれどこれは、もしもの恐怖に流す涙ではなく円堂が決して自分を置いて行かないと誓ってくれたことへの喜びだった。
 涙を零したまま、夏未は自然と口元を緩めていた。そして見えていないはずなのに、夏未が微笑んでいることを見抜いた円堂が不思議がる気配に肩を震わせて笑った。このまま笑い続けて円堂を拗ねさせてしまっても、ご機嫌取りなど夏未には容易いことだけれどそれよりも。今すぐ円堂の顔をまた覗き込んで唇を重ねることの方がずっと甘美で幸せなことのように思えて、夏未は爪先に体重を乗せた。腰にしっかりと回されている腕も、窮屈に俯いている背筋も、ただ夏未が飛び込んでくるのを待っている。いつだって、いつまでだって、きっと。


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多分わたしがだめになりそうだった夜に
Title by『ダボスへ』





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