単純な話、括るには長さが足りないだけなのだ。春奈が手首に通した白いシュシュを不思議がる鬼道に、女の子なのだから、珍しい振る舞いでもないのにと少しだけ焦燥で下腹部が痛んだ。必死に映ったらどうしようと俯いた。括れないなら、必要ないもの。眼鏡の置き場所を間違えていて、髪飾りなんて興味もなかった。けれど周囲の女の子たちが春奈を取り巻いてお揃いをせがむから。同じ店、同じ物を買い揃える窮屈さからはどうにか逃げ出して、体裁だけを整えた春奈の左手首はむず痒い。
 ――可愛かったから、でも似合わなくて、此処にしたの。
 手首を兄に向けて翳しながらの言葉が完全なる言い訳だったことを、鬼道は見抜かないでいてくれた。その聡明な兄の贔屓心が春奈をいつだって泣きそうになるほどに満たす。拾い上げられた呟きの表面ばかりをなぞった鬼道が降らせる無償の愛に苦笑する。こんな時ばかりは、静かに微笑むだけでいい。
 一部の先輩にやかましさんと苗字をもじったからかいを受けることは腹立たしいが、いつまで経ってもそのイメージを払拭できないでいるのは春奈自身の性分だ。殊勝な性格をしているわけでもない。明朗快活であることが他人に心配を掛けないことへの近道で、騒々しさが子どもらしく映って大人を安心させるのならば春奈はそれを好む。早く大人になりたいと願いながら、子どものまま戻りたい時間を抱えて生きている。それでも、人間にはどう足掻いても操作できないものが時間の流れであるから、その中で上手く立ち回って生きることの方が重要だった。傷付くことは避けられなくて、それならばその傷を隠す術を身に着けて。年齢にそぐわない背伸びは爪先が痛くなる。痛みは涙腺を刺激する。涙は春奈の大切な人たちの表情を曇らせる。直線上に詳らかだ。春奈はいつだって笑っていたかった。
 髪を伸ばそうと思ったことは何度かあって、その度、日常の中で名前を呼ばれて手招かれれば駆け出して、好奇心が働いても駆け出して、中途半端な長さの毛先が首筋をくすぐっては鬱陶しくて諦める。定期的に美容院で切り落としてしまった髪。緩い癖っ毛の毛先を弄ぶ。何人かの友人はそのウェーブを可愛らしいと羨んで、当人はその一応の褒め言葉を笑顔でやり過ごす。嫌いではないけれど、一度くらいは真っ直ぐな癖のない髪に憧れる。春奈にとっては友だちよりも身近な先輩たちの髪型を思い浮かべて、ああでも私にはどれも似合わないかなと想像は終わる。それでも、この先暑くなるばかりの気候に、汗ばんでも首筋に貼りつかない、結われた長い髪は快適で風に揺れて綺麗に見えたりしてとそんなことを期待しただけ。

「――髪を、伸ばそうかな」
「そうか」
「これから暑くなるし、結べた方が涼しいかなって」
「特別快適というわけではないぞ」
「…そっか、」
「それに――春奈にはその髪型がよく似合っている」
「――ありがとう」

 言い訳の続きは、きっと嘘を吐くことになってしまうとわかっていたのに春奈は黙り込んでいることができなかった。何度その思いつきを易々と断念してきたと思っているのよと心の中で呆れてしまう。毎日覗き込む鏡に映る姿が何ら代わり映えのしない髪型の自分であっても、春奈は落胆などしないのに。
 春奈の性格を熟知して、そうしたいのならば反対はしないけれどといった声色で鬼道は彼女の現在を褒めた。離れ離れになる以前から、一定の長さ以上に伸ばされたことのないその髪型が、一番らしいと言ってくれる。それは当然無関心ではなく、兄の本音だと春奈にはわかっている。けれど迂闊すぎるわと飲み込んだ唾が頭の奥で一際大きな音を立てて下っていく。
 ――お兄ちゃんがそんなこと言うと、私、ずっとそのままになっちゃう。
 鬼道の言葉だけだから、特別という意味を持った。彼が褒めてくれるならば、春奈はそれを損なうような脇道に反れていくことはしない。
 他人からの過剰な干渉は好きじゃなかった。余計な心配を掛けることも同様だった。だからそれを防ぐために笑って、はしゃいで生きてきた。たった十二年と数か月、それでもそれ以上をまだ生きていない春奈の全力を注いできた。そしていつだって、その他人たちの先頭と春奈の中にいるのは兄である鬼道だった。誰よりも兄には面倒を背負わせたくなくて、けれど他の誰に見抜かれなくてもいいから鬼道には自身の全てを見抜いて欲しいとも思った。矛盾があって、春奈はまた手首の白いシュシュを見つめる。結べもしない髪を飾る為の道具。

「やっぱり髪を伸ばすのはまたの機会にしようかな」
「いいのか?」
「うん、伸ばそうとしてる間に夏が終わってたら意味がないもの」
「冬は温かいかもしれないぞ」
「でもどうせ冬でもサッカーしてるんだもの、マネージャーだって動き回ってればそれで充分温かいと思う」
「それもそうだな」
「あ、そうだお兄ちゃん!このシュシュお兄ちゃんに着けてあげようか」
「勘弁してくれ…」
「もう、冗談よ。そんな逃げ腰にならないでよ!」

 手首からシュシュを外して構えれば、春奈の言葉に鬼道の口元が引き攣るのが見えた。見抜いたり、見抜けなかったり、本音だとか嘘だとか、春奈が鬼道に向けて放つ言葉を全て正面から受け止めていれば取りこぼすこともあるのだろうか。優しい人だから、春奈には輪をかけて優しく、甘く、真摯な人だから。春奈は鬼道のことが世界で一番大切で、好きなのだ。それはきっと、鬼道も同じだと信じている。
 数日後、髪を伸ばさずにそれでも暑さで鬱陶しさを覚えることがあればと鬼道に小さな白い花の飾りがついたヘアピンを贈られて、春奈は破顔する。そして、やっぱり自分はこの先も髪を伸ばすことはないのだろうなと単純な思考回路を笑いながら兄に抱き着いた。



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Title by『ダボスへ』





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