オレンジジュースの一口目、そんな酸味。酸っぱいのか甘いのかよくわからない。けれど二口、三口と流し込んで行く内に慣れてしまう。空になったグラスの底を縁どる橙色は、どれだけ垂直に傾けても最後の一滴まで完璧に飲み干してしまうことはできなくて少し悔しい。
 唇がまだ冷えている内に、そんな悪戯心を携えて、葵は剣城の唇に自分のそれを押し付けた。戯れのキスを、恥じらいを押し隠して微笑めるようになった。初心なままの方が彼の好みだっただろうかと想像してみても、葵は剣城の女性の好みなど正確に把握していなかった。
 ――私は剣城君に好かれている。想われている。愛されている。
 その自負こそが的確であり真実である。伸ばされる腕に身体を強張らせることもしない。頬に添えられる手に擦り寄って葵の手よりも大きな、骨ばった手を何度も両手で包み込んだ。瞼を閉じて、伝わる熱だけを感じようと意識を傾ける。並んで座るソファと、正面のテレビからは録画放送の海外リーグのサッカー映像。今朝の新聞でもう試合結果を確認してしまった葵と、この放送を楽しみに日課のスポーツ欄のチェックを遅らせている剣城。女の子のお喋りな口先がむずむずと疼く。けれど葵は堪えられる。大好きな、剣城の楽しみを奪うような粗相はしない。

「……オレンジ」
「飲んだの。オレンジジュース」
「そうか」
「剣城君も飲む?」
「いや、俺はいい」

 目は閉じたまま、心地よいテノールが葵の鼓膜を震わせる。先程のキスの後、唇を一舐めすれば微かな違和感を覚えたのだろう。これが口に含んだ液体を彼の唇の間に舌を捻じ込んで移すような悪戯は度が過ぎるのだろう。戯れはいつだって軽やかであるのが望ましい。逃げるつもりはないけれど、逃げ道の確保は抜かりない。剣城の自宅、広々としたリビングに二人きり。ダイニングへと続く部屋から逃げ出す扉は葵がここへやって来る際に使用した一カ所だけ。普段から、生活サイクルの違いから両親と顔を合わせる機会がないという剣城が座るこの部屋はどこか寒々しい。差し込む陽光も、清潔に保たれた家具たちもありふれた、何処かに在りそうな光景。その中央に剣城がいて、それだけで葵には事足りて、それでいて物寂しい。触れた手が温かすぎるのかもしれない心地のいい感触が、葵の意識を浚っていく。テレビから流れる解説と実況の掛け合いはぼんやりと上滑りしていく。きっと剣城の視線は小さな人影が忙しなく動き回っている画面に戻されている。それはそれで構わない。手を引っ込めようとしないその意識の片隅にいつだって葵が掛かっているのならばそれだけで充分だ。
 不意に遠のいていた雑音が大きくなった。恐らくシュートが決まったのだろう。淡々と流れて行く映像を、剣城はどんな眼差しで追い駆けているのだろう。頬の手は、サッカーで最も盛り上がるべき瞬間を過ぎても微動だにしなかった。応援しているチームの得点ではないのかもしれない。剣城が海外リーグにお気に入りのチームを作っているのか、葵は知らなくて、尋ねてみてもいいけれど、知らないチーム名を列挙されても上手い反応はできそうにないから知らないままでいいと思っている。剣城もまた、自分の好きな物を積極的に他人に薦めて共有するタイプではなかった。
 ゆっくりと閉じていた瞼を開ける。白い壁と明かりが目に優しくなかった。日頃屋外でボールを駆け回っているにも関わらず白い肌と、紺色の髪を捕まえて漸く視界がクリアになった。それから液晶の画面を確認すればやはり得点はホームチームに加点されており、それが先制点。チームはその得点を皮切りに勢いを増し今もボールをキープして積極的に攻め上がっている。しかしこうして優勢に立っているチーム名を、葵は今朝の新聞とこの液晶以外の場所で見聞きした記憶はやはりなかった。
 ソファに片膝を立てて、その上に顎を乗せながらやる気を感じさせない姿勢で画面に見入っていた剣城が横目で葵を見る。じっと動かずにいた彼女の気配の動きに気が付いたが故の所作だった。先程まで剣城が見ていた画面を見つめている葵と視線は絡まらない。そこに目くじらを立てても仕方がない。好きな女の子を家に招いておきながら、サッカーの試合を見ている時点で剣城に恋人らしさを語る気概はない。けれど葵には、文句も要求も突きつける権利があるはずで、剣城は少しだけそれを待っていたのかもしれない。彼女が自分の腕を引っ張ること、唇を尖らせて晴天の外を指差すこと。何処に居たって同じで、何をしていたとしても変わらない。二人でいることが肝要で、それを果たすにはお互い気安くなり過ぎた。終点はずっと先で社会の模範をなぞれば同じ墓に入るなんて将来を語るのだろうが生憎二人はまだ若い。着飾って、はしゃいでデートでもしている内が恋の華なのだろう。実際は、剣城の家でテレビを見て、葵は彼の許可を得て冷蔵庫からオレンジジュースを取り出しては飲み干している。そうして受けた戯れのキスは、ほんの少しだけ酸っぱくて、甘かった。
 薄まっていく恥じらいを嘆いたりはしない。快活が魅力の少女だった。慣れない恋愛に頬を染めて俯く姿も可愛かったけれど、遠巻きに、日常の中で見つめた葵に恋をした。だから時間の経過と共に形を潜めて行く初心さは文字通りの意味を果たして消えて行けばいい。気を付けなければいけないのは、気安さが先行して葵とその幼馴染のような関係に向かってしまわないようにすることだけ。

「――悪い空野、ちょっと手、離してくれ」
「…どうして?」
「喉乾いた。コーヒー淹れてくる」
「そう」
「飲むか?」
「ううん、苦いから好きじゃないの」
「砂糖とかミルク入れればいいだろ」
「だけど飲み込む時にやっぱりちょっとだけ苦いでしょう?」

 葵の両手に包まれていた左手が自由になるのと同時に立ち上がった剣城は、彼女の幼い主張に耳を傾けながらキッチンに向かう。勝手知ったる自宅のことだと、距離が開いて葵の言葉を聞き漏らさないようにと注意を彼女の方へより傾けていても作業の手は記憶を頼りに動いている。

「ねえ剣城君」
「――何だ」
「コーヒー飲んだら暫くはキスしないからね」
「…は?」
「キスして後味が苦かったりしたら、私いやだもの」
「…………ココアにするか」
「あ、それなら私も頂きます」

 取り出したマグにインスタントの粉を掬い入れようとした寸前、葵の言葉に剣城の手が止まる。ソファから上体を乗り出して、剣城に向かい顔の前に腕でバツ印を作る彼女は本当にコーヒーを苦いものと嫌っているようだ。
 コーヒーを仕舞い、戸棚からあまり消費されていないココアを取り出してから、沸かしていたお湯の火も止めた。冷蔵庫から牛乳を取り出して振り向けば、葵はコーヒーの苦味を訴えていた渋い顔から打って変わって今か今かと剣城が傍に戻ってくるのを待っている。その姿が可愛らしかったので、剣城は作業の中断と、再度カップを取り出す二重の手間すら全く厭わしくは思わなかった。
 誰にも見られていない液晶画面の中で、剣城の応援していたチームが追加点を決めていた。しかしその歓喜の音声は、牛乳を温めていたレンジの音で聞こえなかった。葵は歓声を上げる画面の中を振り返ることなく、一心に剣城を見つめ続けている。
 このリビングには、正真正銘、剣城と葵の二人しかいなかった。


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カロリーは高めかも
Title by『魔女』




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