乗り慣れない電車を前に、ぼんやりと過ぎ去っていく車両を見送った。何度目か、都会のダイヤはめまぐるしくてわからない。小さな紙切れ一枚抱き締めて、目的地まで運んでくださいな。ゆらり揺られてうっかりうたた寝なんてしようものなら、見たこともない光景に放り出されてしまうんでしょう。反対ホームに駆け込めば帰れるかしら、葵は未だそんな冒険に飛び込んだことはない。
 ここが生まれ育った場所でしょう、私にとってはその通り。貴方は少しだけ違ったのね、そう今更呟いた。それが少しだけ寂しいのだと、葵はついぞ言い出すことはなかったが、無垢と鈍感を併せ持ち、優しさと無頓着で葵を救ってきてくれた天馬だから、何かしら汲み取っていてくれたのかもしれない。二人並んで座るベンチの周囲に人影はまばら。誰も彼もが他人に無関心を貫いて視線を地面に落としている。そんな親の仇を見るような目で己のつま先を睨みつけて何になるというのだろう。うっかり線路に飛び込んでしまわない為の見張りなのか。そう、だけど今この駅のホームでそんな物騒な事態に辺りが絶叫に包まれたら、数時間は天馬を見送らなくてもいいのだと暗い考えが芽生えた。有り得ないことだから、不謹慎を咎めないで欲しい。何も言ってはくれない天馬の瞳は眩しかった。それが恨めしかった。葵は何かを言いたかった。けれど結局何と言っていいのかわからない。突如横たわった他人行儀な沈黙を、どうか蹴飛ばして欲しかった。
 ほんの少しだけ出掛けて来るよと天馬は鞄ひとつで旅立つらしい。どうやら今度ばかりは一緒に連れて行っては貰えない。ならばせめて見送ろうとする一連の流れはいとも自然に行われた。別れの日が近付くにつれ、どうしようもない焦燥に身を包む葵とは対照的に、天馬は相変わらずいつまでもボールを蹴っている。サッカーばかりの少年は、そのサッカーに誘われて幼馴染の少女を置いて行ってしまえる。
 薄情なのねと詰るには、きっと幼馴染とはそれだけのことだった。ただ、人より顔を付き合せた時間が長いだけなのだと、特別ではないのだと、葵はカレンダーの日付を罰印で潰す度に理解した。別れの次には出会いが待っている。そして天馬は葵の知らない場所で、葵の知らない誰かと出会って、きっと容易く親しくなるのだろう。経験が知っている。彼は本当に、仮に容易くなかったとしても人の心に根付くのが上手い少年だった。余計な縁を引き寄せてしまいやしないでしょうねと案じても、あの白と黒のボールさえ抱えていれば葵の心配などお構いなしに乗り越えてしまうのだろう。困難すら、二人には別々に降るのだ。

「――元気でね」

 長いお別れのようだった。永遠の断絶のようだった。そうであれば泣いただろう。そうでなくとも泣きそうだった。言葉にすれば惜しむ時間を振り返っているのは自分ばかりだと葵は惨めにすら思った。天馬は正面を見据えていた瞳の中央にゆっくりと葵を映して、それから驚いたように大きな、スカイグレーの瞳を瞬いた。そこに哀しみなど、やはり浮かんでいはしなかった。

「どうしたの急に、俺引っ越ししちゃうみたいだ」
「似たようなものじゃない」
「全然違うよ。俺、ちゃんと帰って来るよ」
「――うん」

 でも貴方は引っ越すんでしょう。私のいない場所へ。だからやっぱりお別れはちゃんとしておかなくちゃ、後悔することになるでしょう。そう長々と告げる気にはなれず、葵は天馬を見つめることをやめた。葵を置いていくことを選んだのは天馬なのに、どうしてそれを見送るだけの諦観を彼に責められなくてはいけないのかわからなかった。きっと葵のことは二の次で天馬はサッカーのことしか考えていないから、彼女を置いていくという自覚もないのだろう。何て酷い、そんな嘆きは本人にぶつけるわけにはいかなかった。もっと朗らかに見送ってやるはずだったのだ。ありきたりな、けれどその軽薄さを疑わない天馬には喜ばれるであろう応援の言葉を添えて、微笑んで手を振って、彼が乗り込んだ電車が見えなくなるまで見つめているつもりだったのだ。葵が握りしめた券売機で一番安い入場券と、天馬が握りしめる聞き慣れない地名が印字された切符の金額の差を覗き込み忘れた。けれどきっと凄く遠いのだ。運動靴ではない葵の足はきっとすぐ痛くなって、追い駆けるなんてとてもできない。

「ねえ葵、お土産は何がいい?」
「……何でも良いよ。天馬が選んでくれるなら、何でも」
「そういうのが一番苦労するんだよ。何でも良いって言っても変なの買ってきたら葵怒るんだもん」
「そんなことないよ」

 いつ帰って来るかもわからないのに、そんな約束を残していく。天馬は今日初めて葵との過去をなぞり唇を尖らせた。そして葵は、天馬がいなくなる数分後の未来を思い優しい言葉しか返せなかった。期待を恐れて、彼女自身思いも寄らなかった弱さを恐れた。明日から、自分は誰の隣を歩いているのだろう。きっと誰かがいるだろう、そんな楽観が裏切られないであろうことを確信できるほど大好きな人たちがいること、それが今は寂しかった。

「――天馬」
「ん?」
「お土産はいらない。だから――」
「……え?」

 葵の言葉は、丁度ホームに滑り込んできた、天馬が乗り込むことになっている電車の耳障りなブレーキ音に飲み込まれて彼の耳には届かなかった。それを理解しながら、聞き取れなかったことに困った顔を作る天馬に再度同じ台詞を伝えることを葵はしなかった。
 ――私を忘れないで。
 そんな、小さな願い事。届けられたとして、天馬は変なのと笑っただろう。忘れるわけがないと言ってくれただろう。けれどそんな言葉は、天馬のいない日々に耐えなければならない葵の心を奮い立たせてはくれないのだ。ベンチから立ち上がる天馬に倣い彼女もゆっくりと立ち上がる。そして最後に伝える言葉はどうしようか、電車の扉が二人を遮るまで、葵はそればかり考えていた。



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まごころなんて知らないから祈るよ
Title by『ハルシアン』





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