誰かさんほどやっかんでなんかいなかったのよと、背中から掛かる声にヒロトは足を止めた。途端に振り返らない出と悲鳴のような声が上がったから、大人しく言う通りにした。足元に視線を落とせば数歩分彼の後ろに立っている布美子の方に向かってヒロトの影が伸びていた。届いているか、気になったけれど、振り返るなと言われているので確かめることはできなかった。
 布美子の言う誰かさんの顔を思い浮かべてみる。玲名であったり、晴矢であったり、風介であったりするのだろう。お父様の愛情は、お日さま園にいる全員の渇望対象で、一種の動力源でもあったから。純粋に寂しさを埋めるための優しさだと信じていられたら、ヒロトはもう少し幸せに、穏やかに、歪んで、彼等を切り捨てることもできただろう。けれど基山ヒロトに投影された、お父様の昏い瞳に揺れる死霊を見つけてしまえばヒロトはヒロトに縋り付かずにはいられなかった。誰にも言えない、俺は吉良ヒロトの代用品なんだよと唱えたとして、何人が親身に耳を傾けてくれただろうか。同情が欲しかったわけではない、ただ愛情が欲しかった。偽物ではなく、どこまでも澄んだ本物の。否、濁っていても構わないから、独占できる基山ヒロトに注がれる愛情が欲しかったのだろう。
 本心を隠すことに長けた子どもは小賢しかろう。この世はどこまでも生きづらいのだとヒロトは沈みかけの夕焼けを見た。死んでいく太陽は夜を経てまた生まれてくる。そんな風に、ヒロトの中に吉良ヒロトは沈み、浮かぶ。繰り返し、何度も。大好きなお父様を前にする度、彼はヒロトを苦しめる。だからヒロトは待っている。あの夕日がさっさと沈みきってしまうこと。夜はどこまでも自由だから。自由に基山ヒロトとして出歩けるから好きだった。

「お日さま園、出るのね」
「少しの間だけだよ。勿論、代表に選ばれたらの話だけど」
「選ばれるわよ。ヒロトなら」
「だといいなあ。それ、緑川にも言ってあげてよ」
「いやよ、接点ないもの」
「どうして、家族じゃない」
「――違うわ」
「………そっか」

 傷付いたわけではない。お日さま園の面々をどう捉えるかは、個々の自由だ。ヒロトは家族だと思っている。布美子は違うようだ。親しい人間もいる。疎遠な人間もいる。当然、家族と思えるほどの情愛もあればそうでないものがいても不思議ではない。
 エイリア学園を名乗っていた時期、その為の準備期間を含めてお日さま園はサッカーの実力で明確な組分けをされていたこともあって、親密さはチームメイトだった面子との間の方が圧倒的に深い。けれどそうなるとヒロトは自分と誰がより親密なのか、対象相手が思い浮かばずに苦笑するしかない。その諦めが、布美子を初めとするお日さま園の面々には評判が悪いということを、割と敏い人間である筈のヒロトはいつまでたっても気が付かない。だから布美子はヒロトに振り向くことを許さない。顔見ても汲み取っては貰えない心情を無様に晒せるほど、布美子のプライドは低くなかった。
 他人の輪を遠くから見ているような子どもだったと、布美子は今よりも幼いヒロトという子どもを記憶している。お父様がお日さま園にやって来るたび我先にと駆け寄っていく子どもたちの群れから外れた場所で、決してその愛情を期待しないわけではない瞳でじっと賑やかな集団を見つめていた。そういう人間だった。諦めは悪い癖に、諦めた風に振舞う。大勢の後ろで積み重ねた努力の成果は、ひけらかさない性格が災いしてやっかみに繋がって、それを理不尽とも怒らない。張り合いがなくて、気味が悪いといわれてもヒロトは自身を変えなかった。
 布美子が特別ヒロトに理解が深いというわけではない。ある程度ヒロトを無視できなくなれば、誰でも見抜けると彼女は思っている。ヒロトは見抜かれないと思っている。詰まる所、彼とてお父様以外の人間に対する認識が薄いのだ。そのくせ偽物の愛情に傷付きながら本物を求める、愛されたがりの捻れた心を救ってやれたのはエイリア学園という枠の外で出会ったサッカー少年だというのだから、布美子は自嘲の混じった笑みを浮かべざるを得ない。

「円堂君だっけ」
「ん?」
「またサッカーできるの、嬉しいんでしょ」
「…そうだね、うん、嬉しいよ」
「じゃあ、さっさと行ってしまうといいわ」
「みんなみたいなこと言うんだね」
「素直じゃないのよ。誰もが素直じゃいられなかったの、わかるでしょ」
「うん」

 だったら、もう私たちの言葉に傷付いたりはしないんでしょう。布美子が見つめる背中に、細い、貧弱な気配は見当たらなかった。お日さま園を出て、大切な友人とサッカーをして、ヒロトはただヒロトらしく戻っていく。帰るべき家は、彼を安らぎでは満たせなかったから。ひょっとしたら、これからは。そんな想いもあるけれど、今回ばかりは間に合わなかったということ。サッカーを取り上げることのできない自分たちの単純さ。足に沁みついたボールを蹴り上げる感触、それだけが、布美子がヒロトと共有できる思い出だ。

「ねえ布美子」
「なに」
「俺が世界一になって帰って来るまでに、俺がただいまって帰ってきたらおかえりって迎えてくれるくらいの素直さは取り戻しておいてよ」
「………いいわよ」
「ほんと?嬉しいな」

 やはり、代表に選ばれる気満々ではないか。そうでなくては、嘗て自分たちのキャプテンを務めた男とはとても認められないか。
 いってらっしゃいも言ってやれない意地っ張りは望み通り、ヒロトが帰ってくる日までに溶かしておこう。大人ぶるのは得意な方だ。物分かりよく、けれど子どもの無邪気を取り繕って彼の健闘を讃えてやれるように。布美子以外の、彼女よりもずっと意地っ張りな連中の代わりに。当然、彼の帰還を待つ気持ちに彼女とて偽りはないのだから。
 いつの間にか布美子の言いつけを破って振り向いていたヒロトの湛える微笑みは、彼女の心に思い出として浮かぶものよりも心なしか逞しく見えた。

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いつかまた会うときがあったら
Title by『ダボスへ』



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