リノリウムの床をできるだけ軽やかに歩いて来た。意味はなく、効果もない。ただ落ち込んでしまわないように、いつからか抱いた夢の漂流地だとは思いたくなかった。桃源郷でもないけれど、現実に目指した通りの場所にいる。
 ――私の夢はここで終わりかしら。
 手に馴染んだ仕事は、夢のようには煌めかない。胸を弾ませ、遥か遠くを見つめることもうない。不満だとか、退廃でもない。冬花は大人になった。子どもの夢は、大人になったら何になりたいのという疑問文でしかなかった。だから冬花は看護師になった。何も間違えていない。誇らしいと胸を張ってもいいだろう。それなのに、冬花は時折考える。今、甲斐甲斐しく看護師として働く冬花に、無神経に、無邪気な眼差しが注がれたとして、貴方の夢は何ですかと尋ねてきたとしたら私は何と答えるのだろうかと。出世とか、結婚とか、出産とか、貯蓄とか、邸宅とか。望めば現実的な範囲で算段を成せるから夢とは呼びたくなかった。それは、幼さの延長の夢をしっかりと掴んでいる冬花に残されていた、最後の輝きかもしれない。
 手を焼く腕白が愛しい。勿論恋ではなく、腫れ物を扱うでもなく、他の人間と平等ではあったけれど、愛しかった。病に侵された身体で、夢を引きずって足を振り抜いては項垂れていた。その頭を、撫でてしまった。それがいかなかったのだ。もしも冬花が、大人として、子どもであるその腕白を尊重するならば、項垂れた顔が上がるまで待つべきだった。この大きな箱の中。何十、何百といる病人のたったひとり。雨宮太陽は、弱気に開いた心の隙間に冬花を招き入れてしまった。迂闊に足を踏み入れたのは、冬花からだった。
 懐きは狭い部屋の中だからこそ露骨に見える。接する人間が少なければ当然の親密が唯一であれば、それを特別だと勘違いすることは容易い。けれど否定するには、太陽は賢い子どもだった。それが猶更冬花を悲しくさせる。それを恋と呼ぶことに、その先に続く困難を予期して覚悟を決めてしまうことほど厄介なことはないのだから。

「体温計の先を指で弄ってはダメよ」
「指先でも温度は測れるの?」
「どうかしら、正確ではないでしょうね」
「身体の熱より心の熱の方が大事だとは思わない?」
「先立つ資本がなければ比較対象にすらならないわ」
「冬花さんは厳しい人なんだね」

 言葉はなく、返しなさいと太陽の前に差し出した手に、彼は大人しく持っていた体温計を乗せた。ベッドで上体を起こし、枕元にはサッカーボール。綺麗に磨いていても、病室の白とは明らかに異質な白、そして黒。何度注意しても、太陽はこれ以上引き離せないと頑なに拒んだ。僅か数十センチ、ベッド脇の棚にすら置きたくはないのだと。
 中毒のようだった。嘗ては、太陽と同じように浸っていた少年たちの傍に冬花もいた。同じだった。学業とスポーツ、比重が偏り過ぎていた、彼ら。出来る人間は出来るのだと、テスト前に撃沈する何人かの隣で参考書を開きながら冬花も思っていた。いいな、羨ましいな。身に着けた学問は、少しだけ専門に寄って冬花はここにいる。あの頃より、確実に遠ざかった情熱。分野を違えただけだろうか。見守る場所にいることは変わりなく、だけど自分が見守る必要などないことも彼女は知っているのだ。そしてそれが、悲しむに値しないということも。
 厳しい人などと称されたことはなく、冬花は困った。太陽の質問には、口を噤むのが正解だったのかもしれない。病床に気弱になりながら、だから多少の我儘への譲歩を求める子どもには、言葉はあまり意味がない。それでも叱責は飛ぶのだ。冬花の夢の場所を、忌まわしいとすら思っているであろう子どもは、どうして効率よく最短でこの場を去る為の忍耐を疎かにするのか。問うつもりはなく、子どもだからと、退屈に唆されてしまったのだと勝手な理由づけは簡単だ。太陽の言う、心の熱が高すぎる。それもきっと、子どもだから。

「今日は中庭にも出てはいけませんよ」
「――どうして?」
「午後から雨が降るの。貴方この間中庭のベンチでうたたねしていたでしょう」
「あの日は…とても暖かかったんだ」
「覚えていますとも」

 ばつが悪そうな太陽の頭を、冬花は撫ぜた。ふわりと撥ねて、受け入れる。細められた瞳は、無邪気ではあるが純粋ではなかった。見抜きたくはない熱を、検温のつもりもなく測って、冬花は沈鬱な気持ちになる。何の罪もない少年は、広い世界を知るはずだろうにこんな狭い箱の中で恋を済ませようとしている。早くその傍らのボールに手を伸ばしなさいと祈る。それはお守り、こんな場所振り返られずに出て行きなさい。念じても、想いは病を治さない。

「冬花さん」

 太陽が、呼ぶ。視線は窓の向こう。白いカーテンが、曇天の輝きで灰色に濁っていた。閉めきった窓の所為、はためかない布地は重苦しい。すっと表情が消えるのがわかった。とてもとても白衣の天使とは思えない、能面のような無表情。カーテンを閉めていて良かった。窓越しに、太陽を怖がらせる心配はない。
 雨が降る。天気予報など縋らず、冬花にはわかった。独特の、湿気を含んだ匂いと暗い部屋。明かりを点けましょうかと言えば太陽は首を振る。彼は、瞼を閉じていた。

「ねえ冬花さん」
「何かしら」
「雨の冷却効果はどれほどのものだと思いますか」
「――さあ、どれほどかしら」
「雨はサッカーができないけど、強制的に僕の心の熱を冷まそうとするけど、嫌いじゃないんだ」
「そう」
「だって、雨の下でサッカーができないのは僕だけじゃないんだもの」

 澄ました声だった。強がりだった。雨の中、走れないのはやはり彼だけだった。身体を濡らす、子どもの、爽快な好奇心すら許されなかった。太陽の夢は、雲に覆われては叶わない。冬花にはそれを掃うだけの力などあるはずもない。ただ表情を削ぎ落したまま、カーテンに遮られた窓の向こうを凝視していた。やはりこんな日に、太陽は外にでるべきだはないと思った。 息を吐いて、もう一度太陽の頭を撫でた。太陽の瞼が震え、唇がきゅっと結ばれる。

「少し眠る?」
「…そうします」

 冬花の提言に、太陽は大人しく布団を被った。眠れるだろうか。こんな時間に。あやす様に、最後にもう一度冬花は太陽に触れた。優しい夢を見られますようにと願いを込めて、おでこに手を当てた。太陽の瞼は閉じたまま。
 ――おやすみ、よい夢を。
 叶えることのできる夢よりも、今は眠りの浅瀬で漂う幻夢で遊びなさい。傍らのボールも持って行って構わないから。振り抜いた足、弧を描くボール。そこでは項垂れず、追い駆けて、走って、転がって。ここが自分の在るべき場所だと心の熱を取り戻しておいで。可能な限りの、大人らしさを振り絞って、冬花は念じた。僅か数秒の中に、驚くくらい全力を集中したのだと思う。だから、太陽の唇が象った言葉を汲み取りかねても責めないで欲しい。
 こんな薄暗い部屋で受け取るには、あまりに眩しいものだった。いつか、夢見た外へ羽ばたいて戻っていく太陽を見送るだけの冬花には、痛すぎるくらいの、静かで、短い告白だった。



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Title by『弾丸』




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