絵を見ていた。全国展開のファミレスチェーン店の壁に掛けられている絵画の真贋など問うまでもなく、円堂はただ瞳をその絵に注いでいた。熱心に見えただろうか、しかし彼の知り合いが見ればあからさまな怠惰な印象を受けただろう。例えば、円堂の前にサッカーボールを置いたときと、絵画を置いたときの反応の差など実験するまでもないことなのだから。
 直前まで河川敷でサッカーをしていた円堂の体温は店内の冷房に寒気を覚えるまで冷やされて、急な待ち合わせでもないのだから余裕を持って一度自宅に帰ってからくればよかったという微塵の後悔を生む。しかしボールを持って家を飛び出した時点で、待ち合わせとサッカーが彼の中で天秤に乗せられてどちらに傾くか。付き合いの長い人間を傷付けるような結果は予想すらしたくない。円堂は、彼にサッカーの一語を付随させるだけで大抵のことを大目に見て貰える生き方をしてきたという自覚を、最近とうとう得たのである。それが、同じようにサッカーをしてきた全員にではなく、円堂にばかり偏った贔屓目であることにも気が付いて、項垂れた。自己分析に優れない、他者の下心に気付かない、他者の善意を信じていられる彼は特別という言葉を知ってはいても自身に当て嵌められなかった。多くの人に特別を与えられながら、与えたことのない円堂はサッカー以外のことはいつまで経っても不得手なままだ。

「円堂君」

 名前を呼ばれて、まじまじと視線だけを注いでいた絵から身体ごと振り向いて、そこに立っていた人物に笑いかけた。待ち合わせの相手だった基山ヒロトは、普段あまりよろしくない顔色とは違い、血色のいい、僅かに赤みの差した頬で、肩で息をしながら立っていた。そこで初めて円堂は彼が予定の時間より遅れて到着していたことに気が付いた。いつもならば、ヒロトの方が先に着いて円堂を待っていることが殆どで、だからこそ今日の彼は手持無沙汰に店内を眺めて、興味もない絵を見つめていたりしたわけだけれど。
 申し訳なさそうに眉を下げているヒロトは、短い謝罪を述べると円堂の正面に腰を下ろした。円堂は気にするなだの、そんなに待っていないだの、そういうフォローが必要だとも思わずにただ彼にメニューを手渡してやった。

「円堂君はもう何か頼んだの?」
「ん?いや、頼んだっけな…たぶんまだ何も頼んでない」
「どうしたの、具合でも悪いの」
「何で?」
「だって妙にぼうっとしてるじゃない」
「別に、暇だったからだろ」
「……ごめん」
「だから何で?」

 円堂のこういう、他者の謝罪を気に留めない部分はある意味欠陥といっても差し支えないのではないか。ヒロトは申し訳ないと歪めた表情のまま円堂を見つめる。彼が待ち合わせに遅刻するようなことがあれば焦って走って来るだろう。相手が先に待っていれば遅れて済まないと謝るだろう。それなのに、他人が同じことをするとそれほどのことじゃないと全く理解が及んでいない。思いやりがないというよりも、他者に罪悪感など求めていないおおらかさが巨悪なまでに肥大している。斟酌するまでもなく、許容が大前提だった。これがヒロトに対してだけであったのならば、幾分心地もよかっただろう。だが円堂の超然なありさまは誰に対しても一定で平等だった。国境を越えても、付き合いの長さをひけらかしても、敵と味方を区分しても変わらない。深いようでいて浅い、そんな円堂の人柄に救われた身としては、今更文句を言うこともできやしない。
 メニューを開いてはみたものの、走って来たこともあり喉は乾いていたが空腹は感ぜられなかった。ファミレスを待ち合わせ場所に指定したのはヒロトの方だったが、食事がしたくて誘ったわけでもないので決まりが悪いということはない。円堂に会いたいと、そう言い放つのに憶病になっていては生きていけない。拒まれることは恐ろしいが、それはいつだって彼の都合がつかないという理由で、誘った相手ヒロトだからということは一度としてなかった。結局それも、ヒロトだから断らないということすら打ち消す喜びと落胆の紙一重の現状に過ぎない。

「ドリンクバーだけだと高いんだよね」
「あ、俺もドリンクバー頼む」
「じゃあ他に何か食べる?」
「んー、ちょっと待って」

 テーブルにもう一部置かれているメニューには目もくれないで、円堂は身を乗り出してヒロトが開いているそれを覗き込んでくる。彼の見やすいように向きを変えてやるべきだろうかと迷い、それなら別の方を手渡してやった方が楽で、けれど円堂の気安さを突き放したくもなくてヒロトは動けない。頁を捲るタイミングもわからないし、自分が何を食べたいのかもわからない。ファミレスで何でも良いは通用しないのにヒロトはメニューの文字をなぞるだけでそこから何の情報も汲み取ろうとしなかった。

「俺ヒロトと一緒のでいいや」
「え」
「ヒロト何頼む?」
「…まだ、決めてない」
「そっか、じゃあ待ってる」
「……」

 妙なことになってしまったと、円堂の丸投げにヒロトは内心で狼狽する。適当でいいものが突然義務になってしまった。困惑でメニューに目を落としながら、ちらりと窺った円堂の視線が遠くに向いていて、おや、と後を追う。円堂の視線は、またしても、店内の壁に掛かった絵画に向けられていた。その一枚に、円堂は何の感想も抱かず、綺麗とも上手いとも、知っているとも知らないとも思っていない。ただ見ている。その絵の中にいる、小さな天使を凝視していた。今度は、穴が開くほどの力を籠めて。

「――なあヒロト」
「何?」
「天使っているかなあ」

 ああいう絵って、天使をモデルに描いたのかなあと呟いた声が、ヒロト以外の誰にも聞こえていなかったことに安堵した。そんな疑問、中学生になっても未だに抱けるなんて信じられなかった。軽蔑や嘲りではなく、純粋に驚愕していた。どうして、天使なんて信じられるのと思った。まあ、河童はいるとヒロトは頑なに主張しているが。
 以前一緒にサッカーをした天空の使途は、今円堂が見つめている天使とは微妙に違う気がした。だって彼等はサッカーをしていたから。絵画の中にいる天使は、サッカーなんてしない。聖母マリアやキリスト、その他聖人たちと描かれる天使たちの傍らにサッカーボールが描かれている絵なんてみたことがない。

「天使がいたら、どうするの?一緒にサッカーでもする?」

 ヒロトの返答に、円堂はきょとりと瞬いて、絵から視線を外してまじまじと彼を見た。何か変なことを言ったかなと今度はヒロトが首を傾げる。円堂は何も言わず、サッカーをしている時よりも穏やかな微笑を浮かべて「天使はきっと、サッカーできないだろ」と言った。
 どうしてか、ヒロトはその円堂の言葉を否定したくなって、だけど根拠もなくてまたメニューに齧りつくように視線を落とした。円堂も、また絵に視線を戻す。だって円堂はサッカーをしているのになんて、浮かんでしまった言い訳がどれだけ頓珍漢な内容であることか、ヒロトはきちんと自覚していた。天使に愛されているだとか、天使そのものだとか、それなら円堂の博愛にも納得しようがあるんだけどなあと嘆息したヒロトの腹の虫が、漸く鳴った。


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薄情な子ども
Title by『告別』





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