土の匂いがした。砂ではなく、湿った、重い土の匂い。神童の鼻先を掠め、導くにはあまりに粗野だった。昼前から上昇した気温が、ここ数日の寒暖の忙しなさが、こめかみから汗を伝わせ匂いを運ぶ風を擁護する。目眩に近い、倒錯的な、錯覚だろう。逃げ水を見るような心地。それにしては、まだ幾分季節は追いついていなかった。触れる肉が、汗ばんで吸いつくようだ。上腕から下り、肘を過ぎ、下膊を越えて手を取った。彼の手より少しだけ小さい、華奢で細い指を絡めとる。急いて指を折ってしまわぬように。怯えてすり抜けようとするから、神童は瞳で動くなと釘を差す。射竦められた少女は、恥じらいよりも悲しみに濡れていた。
 浅ましいことをしている。屋外で、体育館の壁に押しつけられた少女を誰も助けにはやって来ない。慰みに、涼にもならない風が揺らす雛罌粟だけが二人の密着を監視している。視界の端に映り込む花は清らかであるが為に神童の神経を不快に撫でた。手折りに歩を踏み出せば逃げ出すだろう。取りこぼしは許されない。忌々しい花の視線は、風と共に消える。ならば耐える。それができる。目の前の、怯え、惑い、震える少女の、海の干満に似せた足取りに焦らされるよりも容易い。憧れの瞳に宿る期待を気取れば即座に翻るスカートのはためきを何度やり過ごし、枠線の中を移動するだけの戯れに付き合ったことか。上手く立ち回っているつもりの、その迂闊。思い知らせるように、神童は少女を捕まえ叩きつけた。羽などない、人科の雌。だから愛せるのだと、足掻く少女を屈伏させるよう、両腕で塞ぎ閉じ込めた。
 熱い。気温ではなく、絡む視線と、指先が。顔色は、建物の影が落ちて蒼白にすら映るのに。接吻は、陥落させてからが望ましい。魂を吸い上げるように、口腔の奥から引きずり出したい、露わな本音が眠っている。唇が最後の砦、雄弁な眼差しは言葉で嘘を着込んでは神童の前から立ち去ってきた。だからもう、逃がさない。首筋に唇を押し当てて、感じる頸動脈の振動は力強い。生きている、ただそれだけを神童に示し、間違っても喰い千切れない命の管。舌でなぞれば振られて逸れた。可愛くない抵抗に眉を顰めても、少女はキツく目蓋を閉じている。都合の悪い、受け入れがたい現実の直視を拒んでいる。そこには神童もいるのだろう。少女の憧れからはみ出した、肉を纏う、煌めかない、汗を零し、欲を孕んだ、神童拓人という雄。少女の憧れる神童は、きっと彼女に触れてはならなかった。何故――神童は知らない。身勝手な理想と妄想を背負うのは飽きた。耐えようがないほどの苦痛ではないが、愉快ではなかった。神童が少女に押しつけていた、迫れば容易く拓かれるという理想と妄想もまた崩れ、力尽くの先に結果が同じならば差異は認められない。

「――山菜、首、噛みたい」
「んっ…や、ああっ!」

 願望ではなく、意志だった。首と、シャツの合間の付け根に潜り込んで歯を立てた。犬歯が皮膚を裂き、血の味が神童の舌を覆う。白い布地の襟を当ててやればジワリと染みた。小さな血溜まり。ずっとこのまま、洗い流されずに残りますように。鮮やかな朱が黒ずんで褪せても、猶、ずっと。人間に噛まれて負傷する。悪餓鬼の喧嘩ならまだしも、女の子ならば一生経験することもないであろう、痛み。恐怖がせり上がり、涙は落ちて、息が上がる。ぐらぐらと定まらない焦点を、神童は尻軽と咎める。どうして留まっていられないのか、一カ所に、此処に、この腕に。だけども少女は逃げたいのだ。あっちこっち、行ったり来たり、捕まえないで、見つめないで。恋とは違うものだから、不用意な接近は悲しみを招く。そんなこともわからないで神童は――!
 背中を押しつけた壁が冷たい。高まる体温の逃げ道にはなってくれない。身を捩り、その都度軽蔑するような、怒りの視線を浴びる。太陽はどこにいるのか。傾きの変化は空間すら覆い隠す濃い影の所為で見つけられない。ただ酷く暑いのだ。暑くて、熱くて、涙と汗が結託して水溜まりになり、海になればいいのに。そうなれば少女は、波に合わせて浮かび、沈み、挑み、逃げる。言うなれば一人遊びだった。憧れに居座り、恋に小石を投げては波紋を作り、その上を渡るような、ごっこ遊びだったのに。水底から這い出した手が、少女を引きずり込んで、引きずり出そうとする。

「シン様、ごめんなさい――謝るから、もう…」
「要らない」
「ごめんなさい、だから!」
「謝罪は要らない。弁解も、抵抗も、本音も要らない」
「シン様…」
「黙って、俺に委ねてくれればそれでいいんだ」

 傲慢な瞳が、指先が。同じ名称を持つ少女の部位と合わさって絡まって、神童はそれを解かない。憧れならば、どうか尊重して欲しい。恋の我儘、寄る辺ない衝動の受け皿になってしまったと諦めて、割れてしまえば。粉々に散った心の欠片を素早く隠してしまえ。そうしたら、少女は神童の手に落ちてくる。光を反射して煌めく水面しか知らない、水底の深淵、重苦しさも、汚さも知らないで手を翳した、その軽率を神童は祝福しよう。噛み切った肉と、垂れた鮮血の生々しさが執着を生む。
 はらはら、惜しげもなく流される涙を舐めとって、少女の白昼夢は悪夢にすり替わる。絡め取られていた指は、いつの間にか片方だけとなり、健全な全力を注げば振り払えるはずだった。身体が重く、億劫だった。土の匂いがして、それが質量を持ってのしかかりとても立っていられないと思った。ふらついた身体を、腰に回された腕が支えた。捕まえた獲物を傷つけてみたり、労ってみたり、神童は手当たり次第に少女を試す。まだ拓かない、唇の奥に舌を這わせたい。
 ――でも、まだ。
 焦らない、焦らなくてもいい。もう少女は逃げ出す力はない。檻もない、足枷も手錠もない、ただの体育館脇の影の中。神童が腕を解けばくたりともたれるだけ。
 少しの暇。休息という恵みからは程遠い小休止。青ざめて死体のように動かない少女を見下ろし、神童はふと目障りな感覚を思い出した。見れば、未だ揺れる雛罌粟がじっと此方の様子を窺っていた。もう一度、神童は少女を見、花を見る。どちらの対象も決して逃げない。その確信を得、しかし神童は風に揺れるだけの花をへし折る為に歩き始めていた。



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屈折したロンド
Title by『弾丸』




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