吹雪は寝室でテレビを観ている。夕方のニュース番組の中で取り上げられている全国各地の絶品ラーメン特集を眺めながら、今日の夕飯はなんだろうと考える。腰を上げることもなく、声を上げることもなく、台所の方に意識を向け、そこから伝わってくる気配を感じ取る。丁度流し台のシンクに何か落としてしまったらしく、やかましい音が鳴り響いた。反射的に目を閉じて、何故耳を塞がなかったのかと自分で自分が不思議になる。大丈夫かと声を上げそうになって、あちらに聞こえなかったら虚しいなと思い、吹雪は「よっこいしょ」と掛け声に合わせて立ち上がる。それから台所をこっそり覗き込むと、短い髪を後ろでひとつに結んだ春奈が夕飯の準備をしている所だった。

「――ねえ、」
「あれ、吹雪さん起きたんですか?」
「え?僕寝てないよ?」
「え?お昼寝してたんじゃないんですか?」
「ごろごろはしてたけど起きてたよ」
「それならそうと早く言ってくださいよ」
「あれ、僕悪いことしてる?」
「いいえ?」

 できるだけ驚かさないように、そう意識した丁寧な声は功を奏して春奈を飛び上がらせはしなかった。作業の手を止めた春奈は今まで吹雪が寝室に籠もって物音も立てないものだから寝ているとばかり思っていたらしい。どうりで、恋人の自宅にやってきたというのに一向に本人の前に顔を見せにこないはずだと納得する。途中でつけたテレビの音も春奈には届いていなかったのだ。
 吹雪が自宅の合鍵を春奈に渡して好き勝手出入りしていいと許したのはもう半年ほど前のことで、初めは彼に了解を得てから足を踏み入れていた春奈も徐々に慣れたのか自分の判断で出入りするようになっていた。それを初々しさがなくなったと嘆くような倦怠期など飛び越えて、それだけ自分たちの距離が近いのだと吹雪は頬を緩めていた。春奈はもう少しだけ恥じらうべきだったかしらと顧みて、けれど演じるようなことでもないと吹雪の隣で彼と同じ類の心地良さに感じ入っていた。
 プロリーグで世の女性たちから圧倒的な支持を受けている吹雪と春奈の付き合いは、彼がファンはファンと割り切っているが故に他者を憚ることなくありふれた恋人たちの姿に落ち着いていた。幼少期に大切な人を失ったことのある二人は、大切とそうでないものの線引きが自分の中でより明確だった。人当たりのいい二人は大切だと認めた相手にはとことん甘やかして欲しかったし甘やかしたかった。まあ、吹雪に至っては内面の屈折が激しく、大切でない人間にも無関心のまま平等に優しさの紛い物を差し出しては世間をのらりくらりと渡り歩いていたので春奈は多少の警戒心を持って彼に接しなければならなかったのだけれど。それだって、春奈が吹雪を異性として特別意識すればこそ必要な結界だった。
 今では大人になって、恋人になって、夕飯を準備して、だけどまだ家族じゃない――そんな関係を二人は平穏の中で好ましく思っていた。万が一この平穏が崩れ去る日がきたら、それはきっと外敵の仕業以外では有り得ないと思っていた。表面上ではしっかり者を装う春奈だって、吹雪と歩いて行く道に何の障害物も認めていなかったのである。

「今日の夕飯は何だと思います?」
「さっき何落としたの?」
「…ボウルですよ。今聞くタイミングじゃないでしょう全く…」
「カレー!」
「材料見て答えましたね!?でも残念、今日は肉じゃがです」
「わあ、僕春奈さんの肉じゃが好きだよ。そっか、ラーメンじゃなかったかあ」
「え?吹雪さんラーメン食べたかったんですか?」
「ううん、ちっとも」
 先程まで観ていたテレビの内容を突然引っ張りだしてきた吹雪に、春奈は当然何のことを言っているのかわからずに首を傾げる。その両手に人参とじゃがいもが握られている様が彼女を僅かに幼く見せていて、吹雪はそんな姿も可愛いと内心で唱えている。にこにこと浮かぶ笑顔に、そんな彼の心の声が滲んでいたのか春奈は唇を尖らせると恥ずかしそうに顔を背けてしまった。唇を合わせたり、触れられたり、そういった密着よりも微妙な距離のまま笑顔で見つめられることの方が春奈は恥ずかしかった。そういう時の吹雪は大抵春奈に甘い想いを膨らませているのだけれど、その影は触れてくれさえすれば春奈にも浸透し彼女も同じように返すことができる。けれどただ見つめられるというのは、対抗しようがないものだから春奈はつい視線を逸らしがちになってしまう。勝ち負けではないけれど、悔しい気がしないでもない。
 途切れてしまった会話をいいことに、春奈は夕飯の準備を再開しようと吹雪に背を向けて流し台に向かう。野菜を洗って、切ってからと頭の中でレシピと時間とを照らし合わせて、七時までにはできあがりますよと伝えるべく視線だけ吹雪がいるはずの背後を意識する。しかし吹雪は足音を忍ばせて、いつの間にかすぐ春奈の背後に立っており、彼女の腹に腕を回して抱き着いて来た。流石に驚いて、洗っていた野菜を取りこぼす。ごつんと鈍い音がして、それからは蛇口から出しっぱなしの水音だけが聞こえる。

「――吹雪さん?」
「んー?」
「どうかしました?」
「好きだなあって思って」
「ふふ、知ってますよ」
「そりゃあそうだよ」

 でなければ、こんな風に春奈は自宅でもない場所で夕飯の準備なんてしないだろうから。春奈の肩に頭を乗せて甘えてくる吹雪を振り落とさないように、春奈はゆっくりと手を動かして落としてしまった野菜を広いボウルに戻す。雑に扱っているわけではなくて、次の吹雪の一手を気長に待っている。今の春奈にはそれができる。小さい頃は、他のことに目移りしているのではと吹雪を急かすしかできなかった。
 水を止めると、不意に春奈の耳に小さな雑音が届いた。辺りを見渡すことはできない代わりに耳を澄ますとそれは人の声のようで、春奈は吹雪に寝室でテレビをつけっぱなしにしているのではと尋ねるとそうかもという不明瞭な答えが返ってくる。勿体ないから消してくるようにすぐさま注意できないのは、それは吹雪に自分から離れるよう進言することになるからだ。今では珍しくもない密着を惜しむ自分の気持ちが不思議で、春奈は思わず苦笑してしまう。
 ――随分欲張りになっちゃった。
 それを許した吹雪に責任を押し付けて、その代わりに自分も同じくらい彼の欲張りを許しているつもり。水に濡れたままの手で腹に回されていた吹雪の手をぽんぽんと柔らかく叩いてやる。それが、ちょっと離しての合図。不満げに顔を上げる吹雪にテレビを消してくるように言う。あからさまにもうちょっと甘えさせてくれてもいいじゃないと訴えながらも寝室に向かう吹雪の背を見送り、春奈は先程から滞りがちな調理のペースを上げる。
 きっと吹雪が戻ってきても抱き着くことはできないだろう。それにまた不満げな視線を感じたら、春奈は如何にも仕方ないですねという体を装って今日は此処に泊まっていく旨を伝えようと思っている。この一言が、どれだけ吹雪をご機嫌にするかを春奈は知っている。そしてこの呪文に絶大な効果を与えることができるのは、世界でたったひとり春奈ひとりだということも知っている。そのことを教えてくれたのは、紛れもなく彼女が愛し、彼女を愛している吹雪士郎ただひとりなのである。


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40万打企画/花織様リクエスト

もうどこまできた、呪文
Title by『ダボスへ』




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