そろり、そんな効果音が付きそうなほど慎重に、誰もいない周囲を見渡してから雷門中のサッカー棟正面玄関を覗き込む貴志部はあきらかに余所者の空気を醸し出していて、纏う制服も相俟って彼の心細さを助長していた。
 薄っぺらい封筒を胸に抱え込み、皺になってしまうことへの配慮など抜け落ちている。尤もその中身であるプリントは、木戸川清修の監督である照美が携帯電話で雷門の監督である円堂に連絡を入れてしまえば済むような内容だったので、最悪破り裂かれてしまっても問題はない。ただその場合、貴志部は際限なく落ち込む可能性があるのでできれば自分の力でこのお使いを果たして帰って来てほしいと部員たちは切に願っていたりする。
 練習の虫であった貴志部の中で己の技術を研磨することとキャプテンとしてチームを纏め上げることは別次元の問題だった。チームがばらばらであった時の方が、意識は自分に向いて練習には身が入っていたかもしれない。チームが雷門との試合を経て纏まり出すと、その状態を維持しようと意識する。キャプテンとしての自覚はずっと持っていたつもりだが、具体的に自分が何かをしなければと思い立つと却って何をしていいのかわからない。そして悩み始めるととことんその悩みに付き合うのが貴志部の性格で、それは真摯のようでいてお節介でもある。彼自身のことであるとはいえ、もう少し自分を軽くあしらう術を知っていて欲しい。とはいえ人間の性格など突然豹変するものでもないので、取りあえずキャプテンらしいことをさせれば落ち着くのかもしれない。そう考えた照美がわざわざ部員を雷門に向かわせて練習試合を取り付けてきてよと頼んだのにはそれなりの事情があったのだ。
 初めてのお使いの如く気合い満タンで出掛けていくキャプテンを見送る部員たちの視線が生温かったことに、果たして貴志部は気付いていただろうか。
 さて昨年日本一になった木戸川清修の設備が劣っているとはいわないが、十年前から常に日本一を争っている雷門のサッカー部施設は規模が大きかった。少なくとも貴志部を圧倒し、慌てふためかせる程度には。よくよく考えれば他校に試合の打ち合わせで出向いたことなどなくて、誰に取り次ぎを頼めばいいのかもわからない。通りすがりの生徒にサッカー部の部室を尋ねて、校舎並の大きさの建造物を指差された貴志部の衝撃は凄まじかった。
 ――え?これ勝手に入っていいのか?それとも呼び鈴があるとか?
 階段を登り終えた貴志部の悩みはサッカー棟の中に勝手に入っていいかどうかである。通りすがりの人も見当たらず、途方にくれながら事前に照美に自分が行く旨を連絡して貰えばよかったと思えども全てが遅い。うろうろと足を動かして、時折施設内を覗き込んで、終いにはしゃがみこんで溜息を吐く貴志部の上から突然影が降りてきた。

「何か用?」

 素っ気ないような言葉、けれど鈴のような声が付与した可愛らしいという印象が、どうにか貴志部の足を地面に縫い付けていた。これが恐ろしい響きを持っていたら、相手の顔も確認せずに逃げ出そうとしていたかもしれない。
 おずおずと顔を上げた先にいたのは、朧気に見覚えのあるおさげの少女。緩慢な動作が、ほぼ初対面に近い少女に自分が怯懦である印象を与えやしないかと彼は一瞬恐れたけれど、それは彼女には興味のないことだった。貴志部がどんな人間かではなく、見慣れない人間が自分たちサッカー部の縄張りに入り込んで不審な動きをしていることが問題なのだ。だから、可愛らしい印象を与えていた茜の第一声は、その実威嚇の意を多分に含んでおり貴志部の反応次第ではより攻撃的な言葉を吐きだす可能性だって十分有り得るのである。

「え…と、木戸川清修の者ですが…」
「――、キャプテン?」
「うん、今日は監督からのお使いで…」
「キャプテンなのに?」
「…?キャプテンだから」

 用件はまだ最後まで聞いていないが、用件があることはわかった。それさえ詳らかになれば茜の興味は次の対象へ移ってしまう。雷門中に負けたとはいえ立派な強豪校のキャプテンがお使いなんて頼まれるものだろうか。そもそも部員が任されるお使いなんてあるのか。茜は雷門のサッカー部に入部してから一年生と同程度であるが、神童がお使いと称して部活に顔を見せなかったことはないし、現在キャプテンを引き継いだ天馬が同じように不在だったこともない。一年生だからと雑用を押し付けられた結果そうなった場面を見たこともない。
 そして目の前に居る貴志部の態度がやけにへりくだっているように思えて、茜は益々不思議な面持ちになる。もっと凛としていた方が格好いいと思う。それは貴志部がではなく、キャプテンという存在が。

「――用があるのは監督?音無先生?」
「え、えっと」
「監督なら円堂監督、顧問なら音無先生」
「……練習試合組んだりするのって、顧問かな?」
「知らない」
「う、」

 つんけんした茜の態度に、貴志部は怯む。確かに初対面の人間に頼ろうとするのは相手の警戒心を煽るのかもしれないが、貴志部も必死だった。そんな悲壮感が顔に出ていたのか、茜は少しだけ彼に歩み寄った。己の力不足に下がってしまっている肩と、覇気のない表情。試合の時は、もっと凛々しくなかったかしらと振り返り、さほど意識して見つめていなかったことに思い当たった。茜は目の前の少年のことを何も知らない。知らないのに、あまり冷たくしては失礼かもしれない。コロッと態度を翻すのは、女の子にとっては一種の特権だ。それがどれだけ異性を混乱させるかなんてことはお構いなしである。

「入る?」
「え、いいの」
「いいよ。私が連れて行ってあげる。音無先生に話聞いて、それから円堂監督のところ」
「ありがとう…」
「ほら、早く。私が部活に遅れちゃう」
「え、わ、へ!?」
「うるさい」

 突然降って来た優しさに困惑する貴志部の手を茜はぞんざいに掴み歩き出した。歩幅の関係で、引きずられることもなく大人しく手を繋いでいる様にしか見えない光景に、貴志部は居心地悪そうにあたりを見渡している。
 女の子と手を繋いでいるという事実に赤らむ頬を、封筒を抱えた手でぺちぺちと叩く。その音に、茜は一度振り向いたが数度瞬いて何も言わずにまた前を向いて歩き出していた。

「貴方、可愛い」
「――へ」
「それじゃあ」

 グラウンドに着くとベンチ前に監督の円堂と顧問の音無が二人揃っていることを確認した茜は繋いでいた手を離し、貴志部の背を軽く押して彼等の方へと促した。そして踵を返すと部活の準備があるからとさっさと駆けて去ってしまった。
 その背中を見つめて呆然と立ち尽くす貴志部に音無が気付いたことで彼は無事照美からのお使いを果たすことができた。そして用事が終わったのならばこんな居心地の悪い場所からはさっさと撤退するべきなのだ。頭を下げて、元来た道を引き返す途中、神童に遭遇した。意外な人物との遭遇に驚く神童に、茜には上手く説明できなかった用件を恙なく伝える。それから名前も知らない、自分を助けてくれた少女の特徴から名前を尋ねた時の神童の微妙な表情はその後暫く貴志部に気恥ずかしさを抱かせることになる。
 別に、優しくされたから好きになるとか、そんな単純な性格を自分はしていないはずだと必死に言い聞かせながら、貴志部は木戸川清修への帰り道を駆けた。



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めろめろきゅん
Title by『魔女』





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