「紳士ってやつを売りにしてる人間を過信しちゃいけないよ」

 イギリスにルシェを送り出すフィディオの過保護から来る進言は数多くあったものの実際空港で彼女の顔を覗き込みながら真剣な眼差しで送られたのは、このたった一言だった。
 ひとりで危ない場所をうろつかない、食事はできるだけレシピ通りに作られたものを、就寝時間はいつも通りに、歯磨きは忘れないように、知らない人についていかない。フィディオがこれまで耳にタコが出来るほど言い募って来た注意事項のどれとも違う言葉は確かにルシェの中にすとんと落ちて、意味は理解できずともそのフレーズを残した。だからこそ、この忠言こそがフィディオが最も順守して欲しいという願いを持って寄越した言葉だということを知らずともルシェは彼に対して頷いた。
 イギリス人は紳士だから大丈夫だと、手術後の経過観察としてイギリスの病院に掛かることになったルシェの面倒を引き受けてくれたエドガーの顔を思い出すたびにフィディオは辟易してしまう。イタリア人とは根が違う、その真面目くさった顔の下に在る自尊心の高さがルシェを傷付けるとは思わない。女性に対して無体を振舞う人種ではない。それはイギリス人だろうとイタリア人だろうと大差ない。ただイギリス人は女性に優しくすることを自分が紳士であるからと思っているし、イタリア人はただ女性が女性であるからで済ませている。理屈をこねるのが好きなんだね、とフィディオは立ちはだかる人種の壁を越えようとはせず大声を張り上げて向こうのライバルたちと交流を持ってきた。しかしルシェは身一つでその壁を越えて行くという。着いて行こうかとも思ったが、血縁でも後見人でもない子ども同士、フィディオの過ぎる干渉はルシェの為にならないので止めた。代わりに自分を介して知り合いになっていたエドガーを頼ったらどうだろうと提案してみたところ、思いの外ルシェが乗り気になった為連絡を取り、彼女がイギリスに滞在する間の面倒一式を任せることになったのである。
 飛び立った飛行機を見送りながら、フィディオは精々紳士の称号に期待することにした。あの純粋無垢な瞳に人の作った肩書がどれほど通用するか、結果は見えているのだけれど。


 イギリスに到着してから大きく息を吸い込んだルシェがまず初めに思ったことは、自分が暮らしていた土地の方が空気が美味しかったということ。嘗て視覚を失っていたルシェは少しばかり聴覚と嗅覚に自信がある。しかし方向感覚に自信がないルシェは空港内の看板を見上げしきりに首を傾げていた。
 英語がいかに国際社会で当たり前に通用する言語であるとはいえ、幼いルシェは自国語の勉強すら修めていない。そんな幼子が外国語の看板を読み解けるはずがない。しかしここで混乱して泣き出すことをせず、大人しくベンチに座って迎えを待てるのがルシェだった。

「ああ、此方にいたんですねレディ」
「―――!」
「探しましたよ。フィディオが間違った到着時間を教えてくれたものでね」
「エドガーさん!」

 ぽつりとベンチに座り心細さと格闘するルシェを迎えにやってきたエドガーは僅かに息を乱していた。確かに真面目な、フィディオに言わせれば紳士ぶっている彼のことであれば本来時間に余裕を持って待機していても良かったはずで。それを見越したフィディオに悪戯で誤った情報を教えられ、ゲートも違えば待ち合わせ場所が間違っていることになり慌てて空港内を走り回っていたのである。
 エドガーを見つけるなり、俯きがちだった顔をあげて花が綻ぶように笑みを浮かべるルシェの輝きを、彼は異国の地でひとりぼっちだった心細さの払拭からくるものとみなした。それだけならば、フィディオがこんな迷惑な悪戯をけしかけることはなかったのだが。
 年少の純粋さが初恋の酸いに気付かないまま養分を得てしまうこと。フィディオはただそれを危惧して、それでもルシェをエドガーの元に送り出した。懐いてしまったと誰もが思っている。当事者であるエドガーは特に。ではルシェはどうだったか。彼女もまた無自覚のまま、いつの間にか自分に優しいばかりの人間に囲まれながらその中でそれぞれの差を見出した少女は気付かない。懐くことと、慕うことの微妙なラインを跨ぎきれないまま。
 病院に向かうのは明日のことで、今日は無理をせずエドガーの屋敷へ直行することになっている。小さな鞄をルシェから受け取ったエドガーは、そのまま車を待たせているからと歩き出そうとして立ち止まる。ルシェの、どこか期待と疑問をないまぜにした曇りのない瞳が何かを訴えている。

「――どうかしましたか?」
「手…」
「手?」
「フィディオお兄ちゃんたちとこういう人が沢山いる場所ではいつも手を繋いで歩いてるから…あの…」
「ああ、成程。ではどうぞ」
「…!いいの?」
「勿論」

 差し出された左手に、ルシェはその小さな右手を重ねた。フィディオを初めとする、彼女を構ってくる年長者と頻繁に手を繋いでいることは事実だった。しかし普遍化したその事実を言葉にした直後にエドガーと手を繋ぐというのは、どことなく気恥ずかしさをルシェにもたらした。自覚のない慕情だから、エドガーだからこそなんて発想には露とも至らないし、彼だってこんな幼い少女が自分に懐く以外の感情を持っているなんて疑わない。
 傍から見ていても、仲が良く映ることは間違いない。よっぽど近しく見えても兄妹止まりの身長差や雰囲気に二人して守られている。

「――それでねエドガーさん、フィディオお兄ちゃんったら空港でも凄く心配性で…」
「そうでしょうね」
「紳士を売りにしている人間ほど信頼しちゃいけないって言われました」
「……。彼は時々不躾なことを言いますからね」
「エドガーさんのことなの?」
「さあ、イギリス人のことを言ってるのかもしれません」

 自分より年少のルシェにまで敬語で接するエドガーの態度が紳士的であるか、それを彼女は判じない。自分に対してエドガーが紳士であるかどうかは問題にならない。蔑にされていないのならばそれだけでルシェはエドガーに向かって駆け出せるから。幼さとはそういうものだ。
 けれどもしフィディオがこの場にいたのならば、ルシェではなくエドガーを嗜めていただろう。――お兄ちゃんと呼ばれないことの特別を、幼さでは括れないよ、と。
 そういう察しの悪さすら、紳士の二文字で優雅に振舞っているように見えるものだから注意したのに。

「ねえエドガーさん、私イギリスに来てよかったです」
「おや、随分早急ですがそう言っていただけると嬉しいものですね」

 こんなお飯事みたいな会話、恋愛ごっことは呼べない。ただ幸せそうなルシェの笑顔だけがまろく場の空気を和ませていた。どうか中途半端に踏み躙ることも咲かせることもせずにルシェを送り出してくれますように。そんなイタリアからの念がエドガーに届くかどうか、それは誰にもわからない。



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ふわふわのはてな
Title by『魔女』



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