夏の夜、小さな縁日に連れ出された葵の手を引く沖田は、日頃身に纏っている新撰組の羽織を脱いで一般市民に溶け込んで、うっかりこの手を離してしまえばもう見つけ出すことはできないのではないかと思わせるほどだった。今夜の為に彼が用意してくれた浴衣は時代のせいもあって別段真新しい心地に浸ることはなかったけれど、自分の為だけに沖田が選んでくれたものだから、葵にはこの先ずっと大切にし続けたいものとなった。だからできるだけ汚したくない。すれ違う小さい子どもたちが手にするりんご飴が葵の浴衣に触れそうになる度に彼女は必死に身をよじらなければならなかった。淡い水色の布地に泳ぐ赤い金魚が窮屈そうに皺を寄せる。呑気に笑い声をあげて駆け抜けていく子どもらは葵の苦心など知らぬまま去っていった。
 この人混みの中、誰かにぶつかって転んでしまわないのかしらと周囲に視線を廻らせる。葵の記憶にある祭りとは景観がまるで違う。けれど賑やかさはひょっとしたらこちらの方が上かもしれない。人と人の隙間から覗く出店のバリエーションも葵に馴染みのある食べ物屋は少ないように思えた。中には農具まで売っている所もあって、それが祭りのイメージと結びつかない葵は心底驚いた。しかしそれもそれで当然のことと頷きながら、葵はこの密集した空間を無事通り抜ける為の唯一の生命線である沖田と繋いだ手に少しだけ力を籠める。応えるように握り返されるそれに自然と頬を緩ませながら、何処からか聞こえてくる祭囃子に耳を傾けた。

「疲れたか?」
「――え?」

 そう沖田から声が掛かったのは、もうどれだけ歩き回ってからのことか。人混みから外れた神社の鳥居の下までやってきていたことに葵はまったく気が付いていなかった。縁日の喧騒はまだ傍にあるのに、店が途切れてしまえばここまではっきりと明確な境界が生まれるものなのか。繋いだ手を離す時分は、この辺りなんだろうとは思いながら、葵は益々この手だけが頼りだと縋るように手を握った。振り払われないことを安堵して、葵はじっと騒がしい方向を見つめている。吊るされた提灯の火が煌々と葵の瞳を輝かせて、沖田はそれを見ていた。
 この喧騒と静寂の境界線は、きっと沖田と葵の境界線に似ていた。曖昧で、けれど気付いてしまえば明白なもの。こうして触れ合うこともできるのに、並んで歩けばその睦まじさを誰も疑いはしないのに、どうしても葵の生きるべき世界をここに根付かせることはできなかった。きっといつか、離れてしまうに違いない。世界とは、あるべき姿に戻ろうとする力が働くものらしいから。大きな流れに抗えないちっぽけさを胸に刻み、こんなにちっぽけな私のことくらい取り零してくれないかしらと願ってみたりもするけれど、そういうのは喪失の痛みを増すだけだと必死で打ち消すようにしている。
 橙色の灯を見つめている内に乾いてしまった瞳を労わろうと伏せて瞬いた視線の先に、自分の浴衣の金魚が映る。そういえば、この縁日には金魚すくいはないのだろうか。思い返しても、また顔を上げて目を凝らしてもそれらしい出店の姿は見えなかった。葵からすれば縁日の屋台では定番のそれも、もしかしたらこの時代ではまだ定着していないのかもしれない。こうして浴衣に象られるくらいだから、存在自体は浸透しているのだろうけれど。

「金魚、いないんですね」

 思わず声にしてみれば、沖田は意味が伝わらなかったのか沈黙したまま彼女の次の言葉を待っていた。だから、本当はあまり気乗りしなかったけれど言い出したのは葵自身だから、仕方なく自分の時代の縁日の風景を語った。最低限、金魚すくいのことだけに話題を絞って。未来の話を沖田の前でするのは好きじゃない。足を引きずって曖昧にぼかした境界線がまたくっきりと引かれてしまうような気がするから。こんな躍起になる気持ちを、沖田がどれだけ察しているかを葵は探らない。飾らずに、出会った頃よりもずっと打ち解けた姿を晒してくれる沖田に、何故わざわざ障害を話題にしなければならないのかが葵にはわからないから。落ち込みたくない、笑っていたい。そう願うのは、好いた人の前であればあるだけ至極真っ当なことだと信じている。例えその裏にいつか離れてしまうのならば猶更という言葉を隠していたとしても。
 葵の説明を一通り聞き終えた沖田は、確かに金魚すくいなる出店はみたことがないなと感心しているようだった。けれど簡単に手に入る物だとも言い、飼っている人間も多いだろうと葵の浴衣の金魚に目を落とした。

「流石にいくら庶民の間で流行っても屯所にはいないが…。飼いたいのか?」
「――いいえ、私にはこの浴衣の金魚だけで十分です」
「…そうか」

 微笑んで、遠慮するでもなく浴衣を摘まんで見上げてくる葵に沖田は安心したように目を細めた。気に入ってくれたのならばそれはとても嬉しい。女性に物を贈ったことなど家族以外では全く経験がない為選ぶ際は何かと苦労したがそれも報われたと言っていいだろう。病とは関係のない原因で胸を痛め頭を悩ませる日がくるとは思ってもみなかった。冗談なのか、ただの事実なのか判別のつかない言葉に、葵はできるだけ浮かべたままの微笑みを崩さないように意識した。
 通り抜けた出店の群に視線を戻し、もう一度見てみようかと一度も離すことのなかった手を念の為と確認してから歩き出す。喧騒に飲み込まれてしまう前、沖田がもう終わったと思っていた金魚の話題をまた持ち出して、葵にこの時代の金魚の飼い方について教えてくれた。尤も、彼自身実際に飼ったことはないのであくまで聞いた話だと前置きをして。電気を使った便利な飼い方はできない時代、けれど陶器や盥に水を張ってそこに金魚を放すところに大差はないようだ。そんな現在と未来、過去と現在の変わらない場所を見つけては意地になる。
 ――この人と離れたくないの。
 唇を噛んで、俯けばもう何度目かわからない金魚がいる。きっとどれだけ呆気ない別れが訪れたとしても、葵は絶対この浴衣だけは手放さないと固く誓う。そして一生金魚は飼わない。縁日だって、きっと遠巻きにしか見られないだろう沖田と共有した時間を保存するように、葵は思い出だけを頼りに生きていく。小さなガラスの金魚鉢に放られて逃げ出せない金魚のつがいでもなれれば一番いいのだろうけれど、そうしたら今度はこんな風に手を繋ぐことはできない。
 全く以てままならない。再度飛び込んだ人混みの熱気はまだまだ収まることを知らないまま。夏の夜の蒸し暑さに風通りが悪ければ汗だって滲むだろう。だから今、葵の頬を伝う水の感触は涙なんかじゃないと、そう思うことにした。



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Title by『ハルシアン』





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