ぽつり、聞こえない音が確かに地面に落ちた。突如現れた黒点は次々とアスファルトを濃く染めて行く。朝の天気予報を思い返そうとしても見ていないのだから仕方ない。だけど昨日の夜に見たじゃないかと反省。降水確率80パーセントは伊達じゃないね。だって朝から如何にも降りますと言わんばかりのどす黒い雨雲が空を覆い尽くしていたんだもの。傘を忘れるという己の迂闊さが何だか清々しくなってきて、昇降口に立ち尽くしながらその表情は満面の笑み。誰かに見られたら、絶対胡乱気な視線を向けられるに違いない。止む気配のない雨に生徒たちは濡れるのを厭ってもいられずにさっさと下校してしまっていて、静まり返った屋内と雨音の騒音が少しだけミスマッチ。冬の雨は暗くて冷たくて、確認した時計の時刻が予想よりもずっと早かったことに天馬は驚いた。吐く息は白く、このまま突っ立っているだけではどんどん体温が奪われてしまうこともわかっている。だからいっそ、傘のない現実を受け入れて、木枯し荘に連絡して風呂の準備を整えて貰ってから一気に駆け出してしまうのが天馬にとっての最有力候補。学ランの上着が濡れてしまうことも歓迎されないから、脱いで教室のロッカーにでも放り込んでおけたらいいのだけれど、真冬にそれをすると確実に風邪を引くだろう。季節と天候を問わないサッカー馬鹿である天馬には、それはどうしても避けたい事態であった。
 今日は部活もなかったから、動き足りないと思っていたことは事実だが決して好都合だとは思うまい。何度かの屈伸と足首を回したら準備完了。いざ行かんと飛び出しかけた天馬の襟首を、突然背後から凄まじい力が引っ張った。その反動で、天馬は思わず尻餅をついてしまった。

「コラ天馬!今何しようとしてたの!?」
「へ?え?――葵?」
「まさかこの雨の中傘も差さずに走って帰ろうとしてたんじゃないでしょうね!?」
「だ…だって俺傘忘れちゃったんだもん…」
「は?朝から明らかに降るって天気だったのに?」
「ちょっと寝坊しちゃって…」
「何やってるのよ…」

 コンクリートの冷え込みに耐えかねて、天馬はさっさと立ち上がる。その際、葵が差し出した手を迷いなく掴んで手伝ってもらう。尤も、思いきり引っ張り上げて貰うにはもう葵の腕力は女の子の枠の中に納まりきっているからあくまで形だけ。ただこの冷たい地面に手を付かないで済むことは心底ありがたいから天馬は素直に礼を言う。
 天馬の忘れ物に呆れていた葵も、ここで一度言葉を止めてしまう。二人して、激しい雨脚をただ眺めている。けれど彼女より先に既にその光景を見ていた天馬は一足先に飽きて視線を逸らす。横目で窺う葵の表情には帰り道を案じる気配はなく、きっと自分の様に仕方なく学校に残っていたわけではないのだろう。日直ではなかったはずなのに、こんな大半の生徒が帰ってしまった後にまで何をしていたのか。悩みながら、いつの間にか葵も天馬を見ていることに気が付くのが遅れてしまった。というよりも、今更突然目が合っただけで慌てふためくような関係でもなかった。

「――何?」
「いや、葵はこんな時間まで何してたの?」
「………」
「…聞いちゃまずかった?」
「別に」
「もしかして先生に怒られてたの?」
「違う!ちょっと先輩に呼び出されただけ!」
「先輩?サッカー部?」
「…違う」
「え!?まさか葵先輩になんかされたの!?」
「違うってば!そういう物騒な意味じゃない!」
「じゃあ何だったのさ?」
「………」
「葵?」

 黙り込んでしまった葵の頬が徐々に紅潮していく。そのわかりやすい変化に、天馬は何故だか胸騒ぎを覚えた。二人きりの昇降口、さっさと電気を消してしまってくれていれば気付かなかったかもしれない。羞恥なのかときめきなのか、他人の感情を見抜くほど人間関係に敏くない天馬が本能的に悟ったこと。
 これは、駄目だ。

「――告白、されたの」

 流石に面と向かっては打ち明けられないのか、葵は俯いて、それでも決して二度は言わないで済む声量できっぱりと告げた。聞き馴染みのない恋愛のキーワード。天馬は衝撃を受けるよりもやっぱりねと直前の予感を肯定する。それはそれで、立派な逃避の一種だとは思えないでいた。
 それから徐々に葵の言葉を受け取って、解読して、大声を上げて驚いてやることも出来ないで普段のトーンよりも低く「そう、」と返すだけで精一杯だった。葵がサッカー部でもない先輩に告白されたという事実を疑う気はないけれど、やはり想像するには難しい。天馬が先輩と呼べる人と、彼女が先輩と呼ぶ人はいつだって同じはずだったから。

「告白ってさ、付き合ってくださいとか…そういうのだよね」
「…うん」
「付き合うの?」
「ううん。知らない人だったし、好きな人でもないのに付き合わないよ」
「そっか。……でも」
「――?」
「葵、好きな人に告白されたら付き合っちゃうの?」
「…そりゃあ、好きな人が告白してくれたら断る理由はないけど――」
「けど?」
「そんな日はこないんじゃないかなあ、だってその人、すっごく鈍いんだもん」
「え!?葵好きな人いるの!?」

 探りを入れたのは天馬の方なのに、核心を突かれてあからさまに動揺した声を出してしまった。その反応が愉快だったのか、葵は人差し指を口の前に立てて「秘密」と微笑んだ。その微笑みが、天馬の中の葵から僅かにずれている。天馬は慌ててこれ以上のズレを直さなくてはと思うものの咄嗟に言葉が出て来ない。その一瞬の沈黙を、葵は話題のお終いと位置付けてしまったらしい。
 端にある傘立まで駆けて行き、そこから一本の傘を取り出して戻ってくる。天馬も見たことのある彼女のお気に入りの花柄の傘だ。葵はそれを天馬に差し出す。それを受け取ってから、天馬は「何?」と首を傾げた。

「傘、一緒に入るでしょ?天馬が差してよ」
「え、いいの?」
「置いてくわけないじゃん」
「わ、ありがとー!」

 先程までの焦燥感も何処へやら、天馬は突然の恵みに感謝して葵の提案を受け入れる。相変わらずの雨脚に、きっと靴下は犠牲になるねと苦笑し合っても二人一つの傘に入ることには何の抵抗も見出さない。幼馴染と異性の区別が曖昧な、天馬の幼さの名残。葵はそれを咎めたりはしないから、きっと沢山の時間を必要とするだろう。女の子の葵が一足先に天馬を幼馴染から好きな人と自覚したように、いつかはきっと天馬も気付くと信じている。
 例えば、雨の日の相合傘で二人肩を濡らさないようにと肩が触れ合うことを恥じらって、天馬が肩を濡らすようになるのはもう少しだけ先の話だ。


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Title by『魔女』





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