「葵ちゃんが迎えに来てるわよ」

 秋の言葉に、天馬は布団から跳ね起きた。役目を果たさなかった目覚まし時計に縋るように掴みかかるもセットし忘れた自分のミスが跳ね返ってくるばかりで、刻まれる時刻はどうやら正確そのもののようだった。
 慌ただしく身支度を整えながら細かく朝練までの時間を計算していると、そういえば今日の朝練は休みではなかったかと思い至った。途中までしか留まっていない制服のシャツのボタンと学ランも羽織るだけ、部屋の窓を開けるとやはりそこには天馬の愛犬であるサスケと戯れる葵がいた。荒々しい物音に顔を上げた彼女は天馬に気付きそのだらしない格好にぴくりと眉を顰めた。サスケを撫でていた手を止め、気持ちよさげに瞳を閉じていた彼に詫びると天馬へと駆け寄り少し身を屈めるよう要求する。大人しく言うとおりにすると、彼女は慣れた手付きで天馬のシャツのボタンを全て留めた。次いで学ランにまで手を伸ばして来た所で、流石にそこまでしてくれなくて良いと身を引くと葵はどうしてという風に首を傾げた。

「学ランもボタンしなよ」
「ん、今日朝練ないよね?」
「…ないよ。だから明日一緒に学校行こうねって約束したじゃん」
「そうだっけ」
「忘れてたの?」
「目覚ましのセットをね!」

 天馬の言葉に、葵は唇を尖らせる。忘れたのは目覚ましのセットではなく約束自体ではないのかと追及しようと息を吸い込んだ瞬間、玄関の扉が開いて秋が中で待つよう勧める。一度目はサスケと遊んで待っていると断ったけれど、天馬もこれから朝ご飯だからと暗にまだまだ時間が掛かると示されてしまうと今度は葵も大人しくその申し出を受けることにした。
 食卓に座る天馬の学ランはまだ前が開いたままで葵が注意するよりも先に秋が「ボタン閉めなさい」と促せば彼は大人しく従った。そのことに、葵は少しだけ不満。言葉に滲み出る優しさの度合いの差か、年齢差によるものか。確かに自分は天馬の母親でもそれに代わるものでもないけれど、同じことを注意して秋ならば従い葵だと身を引くというのはどういうことだ。蔑ろとは言い過ぎだが無視するには重要なことだった。開いていた天馬の隣の椅子に腰を下ろすと、一瞥で視線を合わせ直ぐに食事に集中してしまった彼に、これは普通だと納得する。じっと天馬を観察する葵の前に、秋がココアを淹れたマグカップを置く。お礼を言って、口を付ければ温かさと甘さが広がり刺々しくなっていた気持ちが落ち着いていく。
 葵も手持無沙汰ではないと思ったのか、それまで朝食を掻き込んでいた天馬は口に放り込んだ料理をしっかりと咀嚼し始める。朝練さえなければまだ時間には余裕があるので葵もそのペースダウンを咎めたりはしない。食事は良く噛んで食べた方が良いとは世間一般の常識なのだから。

「葵迎えに来るの早かったんだね。何かあったっけ?」
「別にー?朝練はないけど、いつも通り目が覚めちゃったから天馬もそうかなと思って来たんだけど、違ったの」
「ふーん。でも葵が来なかったら完璧寝坊してただろうからある意味助かったのかも」
「それは良かった。あ、数学の宿題やった?」
「え、」

 待たせてしまっていることは申し訳ないけれど、そもそも時間を設定していなかった。待ち合わせをする上ではどうしようもないミスを二人して犯したわけで、こうして家まで迎えに来ることは確実ではあるが恐らく朝練がある日と変わらない時刻に家を出たであろう葵の行動に、天馬は少しだけ疑問を覚えた。それに対する葵の答えは習慣だからと言われれば有り得ない話ではなく寧ろ自然で健全だ。早起きをしなくて良いという油断で目覚まし時計のセットを忘れる自分よりはずっと。そう納得しかけた矢先、葵が何気なく繋いだ言葉に天馬の箸を動かす手が止まる。掴みかけていた味噌汁の具がぽちゃんと容器の中に落ちた。
 そろりと葵の顔を伺えば、彼女は天馬の表情から事情を見抜き「まさか」と呆れた表情を作った。何故だか今日は妙に葵にこういう表情ばかりさせてしまうと、天馬はおかしいなあと首を捻る。先程も、秋がココアを渡すまで物言いたげな視線を自分に送って来ていたことを彼は気付いている。ボタンの件のように、箸の持ち方等行儀作法のことを口煩く言われるのではと自分から話を振ることは出来なかったけれど。

「宿題、やってないの?」
「…あったっけ?」
「一昨日出されたじゃん。たぶん今日天馬当たると思うよ」
「嘘!助けて葵!」

 宿題の存在自体心当たりがない天馬は葵の小さな脅迫にあっさりと両手を合わせて助力を乞うた。答えを見せてくれとは言わないので範囲だけでも教えて欲しい。本当は答えも写させてくれたらこの場はそれが一番助かるのだが、それをすると定期考査の結果に響くことを知っているので最低限は自分で足掻くつもりでいる。それを葵は知っているから、寧ろそんな拝み倒さなくても範囲位教えてあげるのにと足元に置いておいた鞄から数学のノートを取り出す。

(――あ、食事中だし別に今じゃなくて良かったのか)

 はっとするものの、もう取り出してしまったノートを抱えて天馬の方を振り返れば彼は期待に満ちた瞳で彼女の方を見つめていた。大袈裟なまでの輝きに気圧されて、それでも「仕方ないなあ」とお姉さんぶってノートを手渡す。「今回だけだからね」というありがちな戒めは何の効果もないので言わない。効果がないのは天馬なのか、葵自身なのか。こんなに傍にいるのだから、似たようなことを繰り返して仕方ないねと諦めてしまったとしても良いだろう。
 今宿題をやるわけにもいかないのに、早速手にしたノートを開き始める天馬に一応汚さないようにと忠告をして、葵は残っていたココアを一気に飲み干すと空いたカップを持って秋の立つ流し台へと向かった。先に食べてしまった人たちの食器を洗っている彼女に再度お礼を言って、指示された通りシンクにカップを置いてまた天馬の元へと戻る。彼は一度止まってしまった箸を動かすことなく葵のノートに目を通している。

「天馬早く食べちゃいなよ」
「そうよ、お行儀悪いわよ」
「秋さんだって天馬の分の食器洗えなくて困るんだから!」
「ふふ、ありがとうね葵ちゃん」
「ええ?何で葵が秋ネエの味方なんだよ」

 二対一では圧倒的に不利だと怯んだ天馬は葵のノートを自分の鞄に仕舞ってからまた慌てて食事を再開した。残っていた味噌汁とご飯を平らげると、大きな声でごちそうさまと挨拶し食器を纏めて秋の脇からささっと置いて足早に玄関へと駆け出す。その素早さに待たされていた葵が追い駆ける形になってしまう。秋に頭を下げてから同じように玄関へと向かえば既に靴を履き終えた天馬が葵を急かすものだから「ずるい」と訴えればそれもそうだと彼は頭を掻いた。

「葵と一緒に玄関出るって変な感じだね」
「そういえばそうだね。でもそれだって天馬の所為なんだからね?」
「ごめんってば。でもわざわざ迎えに来てくれてありがとうね」
「そりゃあ私と天馬の仲ですから?」
「何で疑問形なんだよー」
「はいはいもう行こう」

 食い下がる天馬の背を押して、葵は玄関を潜る。秋の見送りに二人揃って「行ってきます」と返して、これはこれで妙な感じだと心地よい気恥ずかしさを覚える。遅刻は免れそうだが、天馬が宿題をする為にはゆっくり歩いている余裕もない時間帯、ちらほらと出くわす生徒たちを小走りで追い越しながら葵は彼の鞄にちらりと視線を送る。彼の鞄に収められた葵のノートは、きっと急かさなければ彼女の手元に帰ってくることはないだろう。範囲を確認して、机に向き合ってしまえばそれ以外には目もくれない天馬の姿がありありと想像できる。だから葵は、天馬の邪魔をしないように、丁度設問を解き終えて次に取り掛かる合間を見計らって声を掛けなければならないのだ。
 何も知らない友人たちは、その絶妙なタイミングを幼馴染としての賜物だと盛り上がったりもするけれど、実際そんな簡単なことではない。幼馴染だからといって悠長にばかり構えてなどいられない。身近にいる優しい年上の女性に憧れたり密かに張り合って落ち込んでみたりもする。折角朝練がない日にいつも通り起きて相手の家に押しかけて見たりする。これらが全て幼馴染だからなんて、そんな訳がないだろう。



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不鮮明な均衡
Title by『にやり』





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