「わっ」と短い悲鳴が聞こえたので、周囲にいた部員たちは釣られるようにその声のした方向を見た。悲鳴の主は黄名子で、彼女は尻餅をついていた。躓いたのかバランスを崩したのか、悲鳴の理由はこれかと納得した何人かはそのまま視線を外した。黄名子の直ぐ傍に立っている葵が、顔を真っ青にしていることにも気付かずに。
 具体的に葵が黄名子を突き飛ばした場面を目撃した人間はいなかった。朝練が終わり、片づけも終わりそれぞれ部室に向かおうとしている最中、ベンチの影にひとり背を丸めて立ち尽くしていた葵の姿を見つけた黄名子が後ろから気配を殺して近付いて飛びつくことは、悪意もなければ珍しさもないことだった。懐っこい黄名子は、部内唯一の同い年の女の子である葵にはより一層懐いてスキンシップと称してひっついていたし、葵もそんな彼女を出来る範囲で甘やかしていた。同い年というよりは、妹のような感覚もあった。突然抱き着かれても、危ないよと忠告するだけで怒りを覚えたこともない。黄名子に葵を困らせる意図はないということはいつだって明らかで、葵もそんな黄名子を突き放すなんて選択肢は持っていなかった。
 けれど。葵は黄名子を突き飛ばした。「葵ちゃん!一緒に部室行くやんね!」と背中に飛びついた黄名子を、葵は「ひっ、」と息を飲む声を上げた次に振り向きざまに突き飛ばしていた。思いもしないことに受け身も取れなかった黄名子は踏みとどまる子も出来ずそのまま尻餅をついた。集まった視線に怯んだわけではなく、葵は自分が彼女に拒絶の態度を取ってしまったことに呆然として手を差し伸べることも出来なかった。黄名子も、まさかあの葵に突き飛ばされるとは思っていなかったから、立ち上がることも出来ないでぽかんと彼女を見上げている。当事者にはやけに長い体感時間。実際は、きっと数十秒のことだった。流石にいつまでもグラウンドに残っている女子二人にキャプテンである天馬が急ぐよう声を掛けた瞬間、葵は弾かれたようにその場から駆け出した。去り際に僅かに動いた唇が確かに「ごめんね」と呟いたことを見つめながら、結局黄名子は天馬が彼女を起こしにくるまでへたりこんでいた。
 その日、黄名子は何度校舎内で葵を訪ねてもまともに顔を合わせることすら出来なかった。爛漫に、他者の悪意を汲み取ることをしない彼女ですらも避けられているのだとその棘を理解するほどに葵の態度は露骨だった。ただ、救いにはならなくとも気休めになったのは葵が黄名子だけを避けていた訳ではなかったということ。葵は幼馴染の天馬すら遠ざけていた。彼も、他のサッカー部員たちもどこか具合が悪いのかと心配していたし、実際彼女は保健室で午前中前半の授業を休んでいた。途中から教室に戻ったが休み時間に黄名子がやって来ると気まずそうに顔を逸らしそそくさと教室を出て行ってしまう。そんなことの繰り返しだった。

「うち、何か葵ちゃんにしちゃったんかな…」

 しょぼんと効果音が付きそうな、日頃の快活さを削ぎ落とし俯く黄名子が駆け込んだのは二年生の茜と水鳥の元だった。いつもなら一年生サッカー部員全員で取る昼食も葵が体調不良を訴えて保健室に引っ込んだ為自然と黄名子もいつもの集団から抜けてしまった。
 笑顔で飛びつかれることはあれども泣きそうな顔で縋りつかれたことはなかったので、茜も水鳥も面食らったようにどうしたのと黄名子を抱き締めた。その温かさに、堪えていた不安が揺らいだのか溢れたのか、最大の懸念、葵に嫌われたのではという恐怖が湧き上がりわんわんと声を上げて泣き出した黄名子を、二人は幼子をあやすように背をさすり宥める。廊下では視線が集まるからと連れ出した屋上には、幸い誰もいなかった。

「……」
「泣き止んだか?」
「葵ちゃんのことでしょ」
「――!」

 水鳥と茜、二人の言葉に頷いて黄名子は目尻に残っていた涙を拭うと無言で「どう思う?」と彼女等を見つめた。水鳥はなんのこっちゃと首を傾げるだけだったけれど、茜はいつもの柔和な笑みを少しだけ深くして、膝を屈めて黄名子と目線を合わせる。それから数度黄名子の頭を撫でてから、先程潜ったばかりの扉を指差して、言った。

「葵ちゃんに聞いておいで」

 まさかの言葉に、黄名子の瞳が翳る。それが出来れば苦労はしないのだと、八つ当たりだとしても茜に噛みついてしまいたかった。けれど確かに、それが一番正しい答えを手に入れる手段なのだろう。何かしてしまったのならば謝りたい。けれど、それでも拒まれてしまったら自分はどうすればいいのか。それが黄名子には皆目見当もつかない事態なのだ。

「葵ちゃん、保健室にいるんでしょう?大丈夫、そろそろ落ち着いてきちんと話せる頃だよ」
「……ほんと?」
「うん」
「なあ、あたし何のことだかさっぱりわからないんだけど」
「うふふ、後で教えてあげるね」
「ふーん」
「水鳥ちゃん拗ねた?」
「べっつにー」
「………、」
「行っておいで、黄名子ちゃん」
「――うん」

 着いてきてはくれまい。理解して、黄名子はゆっくりと歩き出す。水鳥と茜の姿が見えなくなるまで何度も振り返った。二人ともずっと応援するように黄名子を見送ってくれていた。だから、心細くなってしまわないように扉を潜り二人が見えなくなった瞬間から黄名子は一目散に保健室を目指して走り出した。途中教師に注意されても、誰かにぶつかりそうになっても脇目も振らずに走り続けた。伊達に運動部で鍛え抜いた脚力ではない。あっという間に辿り着いた保健室の前の廊下は、昼休みということもあり利用者さえいなければ昼間とは思えないほど静かだった。
 手を掛けて、音を立てないよう戸を開く。僅かな隙間から覗き込んだ教室には都合よく保健医はいなかった。そのままもう少しだけ戸をあけて、するりと中に忍び込む。きっと葵はベッドで横になっているのだろう。白いカーテンに区切られた中へそろりそろりと近付いていく。ゆっくりカーテンを開こうと伸ばした手が布に触れる瞬間、意識し忘れた影に気付かれたのか、中から先に名を呼ばれてしまった。

「――黄名子ちゃん?」
「―――っ!」
「………お見舞い、来てくれたの?」
「……うん、」
「そう、」
「…入ってもいい?」
「うん」

 黄名子がまず顔だけ覗かせると、葵はベッドの上で上体を起こしていた。具合は良くなったのかと尋ねようとしたが、彼女の顔色はまだ若干青褪めていて、本調子でないことは明らかだった。ベッドの枕元まで近付いて、話し掛けようにも切り出し方がわからない。そもそも病人に、友人に、不躾に「うちのこと嫌い?」なんて聞けるはずがなかった。そうでなければ良いと心底願っていることならば猶更だ。
 しかし、突破口を開きあぐねている黄名子を前にまた葵の方が先に口を開いた。

「――朝は、本当にごめんね」
「――!ううん、うちもいきなり後ろから飛びついてごめんね!驚いたやんね?」
「うん、でもね、それだけじゃなくてね…」

 葵は一度、気まずそうに口を噤んだ。この保健室には二人きりなのに、一度周囲を見渡してそのことを改めて確認する。黄名子は不安のきっかけとなった事案に葵が嫌悪を籠めていたわけではないと知りただ安堵している。だから、大人しく彼女からの次の言葉を待っていた。

「生理が来たの」

 ぽつりと呟かれた言葉に、黄名子は一度瞬いた。それから、唇だけで葵の言葉を反芻する。聞き覚えはある。だが聞き馴染みはない。ふと葵の手元を見ると、彼女は下腹部に手を当てていた。「お腹痛むん?」と問えば「とっても」と返ってきた。そしてその理由が生理なのだと言った。

「気付いたの、朝練の途中でね。私初めてでどうしていいかわからなくなって、茜さんが助けてくれたんだけど…。急に凄くお腹も痛くなって動けなくて、茜さんがロッカーに薬あるからって取りに行ってくれてたの。その時に黄名子ちゃんに後ろから飛びつかれて……びっくりしたのもあるんだけどそれ以上に怖かったんだ」
「――怖い?うちが?」
「ううん。何だろう、生理になったって気付かれることかな?授業では何度も女の子だからいずれなるって教わってたのに、いざこうして自分がそうなるとね、他人に言えない怖いことが降りかかったんじゃないかって、不安で仕方なかったの」
「……でも葵ちゃん、ちゃんとうちに話してくれたやんね!」
「うん。友だちだもの。――あ、でも天馬たちに言っちゃダメだよ?」
「――?どうして?」
「男の子には言っちゃダメ!約束だよ!」
「二人だけの?」
「うん、そう。絶対だよ?」
「…!任せるやんね!」

 実際にはもう同性とはいえ茜が知っているのだが、今の黄名子はすこぶる上機嫌だった。葵は未だ顔色は優れないものの、気安い誰かと話している方が気が紛れるのか声音にはいつもの調子が戻ってきている。
 初潮の混乱で思わず突き放してしまった友人が、今日一日ずっと思い詰めていたことなど葵は知る由もない。黄名子も既にそんなことは頭から忘れ去っている。ただ大好きな葵が自分にだけ打ち明けてくれた事実を秘密として共有できることを喜んでいる。それから少しだけ退屈な授業の記憶を掘り返して、生理とは女の子が将来赤ん坊を生む為に身体を作り上げていく営みらしい。本人が一生涯生むつもりはないと主張しても無駄で、女として生まれてきた時点でそうなると宿命づけられている。その所為で、葵は今日一日不安と痛みに責め立てられていたのかと思うと、黄名子は生理とは何てはた迷惑なのだと憤慨せずにはいられない。自分にはまだ訪れていない赤い痛み。
 黄名子は今の所サッカーをして動き回ることが楽しくて仕方がないので、腹痛を伴う生理なんて来てほしくはない。本当は腹痛だけではなく更に重い症状を見せる人間もいることを、彼女は知らないし、知ったら猶更事態を厭うだろう。それに女の子同士では子どもは作れないのだから、やはり生理なんていらないと思う。自分にも、葵にも。その発想の意味を、黄名子はどこまでも無自覚なまま自分の手を葵の手に重ねた。彼女の痛みをどうにかしてやることは出来ない。それが歯痒くて悔しいけれど、せめて痛みが引くまでは傍にいてあげたかった。
 そして、本当は生理なんて来てほしくないけれど。もしも来てしまったその時は二人きりの秘密へのお礼として自分もいの一番に葵に「生理が来たよ」知らせるのだ。



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生を知ること
Title by『≠エーテル』





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