※捏造


 仕方のないことなのです。それはつまり手段も方法もなく、行く当てもなく途方もなく耐え難いことなのです。けれど仕方のないことだから、どうすることも出来ないのです。
 女は何度も繰り返す。仕方のないことなのだと。さめざめと流れる涙を桃色の着物の袖口で拭いながら嘆いている。そんな女の後姿を眺める制服姿の葵もまた浮かされたかのような虚ろな瞳のまま呟くのだ。仕方のないことなの、と。
 一生に一度。そう思い込める程の恋をした女の堕ちていく場所など、初めから一つしかないのだから。


 瞼は閉じている。けれど広がるのは暗闇ではなく明るい光。ならばもう朝が来たのだろうと、ぴたりと合わさった瞼の心地よさを名残惜しく思いながらも葵はそっと目を開いた。そこに広がっていた天井を、はてここは何処かしらと空恍けてみるものの、驚いて跳ね上がることのない心音はどこかでこの現状に適応し始めている。背にしている布団の感触もいつもと違うと感じた次には「一体何処が?」と思ってしまう。上体を起こして辺りを見渡すと、葵が眠っていたのは見慣れない和室の一室だった。自分の物だと主張できる部分が一切ない部屋。けれど葵は此処が自分に与えられた場所だということを知っている。都合よく、記憶が改変されていくような状況にそれすらも疑問に思わなくなっている。此処は居心地がいい。きっと、此処には葵を悲しませることはなにもない。そんな予感を胸に抱きながら、正確な時刻を把握できないまま葵は布団から抜け出て外へと続く障子戸を開けた。

「――葵?」
「………沖田さん、」
「そんな格好で出歩くな。また具合を悪くするぞ」
「具合?」
「昨日も寝込んでいただろう。もう良いのか?」
「……はい」
「……?そうは見えないぞ。もう少し横になっておけ」
「大丈夫です」

 廊下に出た途端、素足で触れた木材のひんやりとした肌触りに思わず背筋を震わせた。やけに眩しいと思っていると、庭には見事に雪が積もっていた。太陽の光が反射して葵の視界を邪魔する。眼を細めてしっかりと庭先の景色を把握しようとしていた所に、優しく咎める声が降ってきた。
 顔を向けた先に立っていた沖田は既に身支度を整えたあとで新撰組の羽織までしっかりと身に着けていた。彼は襦袢一枚で何も羽織っていない上に廊下で身を縮こませている葵の姿に一瞬眉を顰めた後、案じるように歩み寄ってその肩を抱き寄せた。どうもこの娘は自己管理能力に欠けている様に思える。それを言うと、沖田とて大差ないと言い返されるのが目に見えている。他愛ない口喧嘩に興じるよりも、今は一刻も早く彼女に寝床まで戻って欲しかった。目に見えて心此処に在らずな葵の姿を放っておくことは、沖田自身どこか落ち着かなかった。
 葵は少しずつ、沖田の言う昨日の出来事を思い出せそうな気がした。不思議な話だ。葵が初めて沖田と出会った時、身体を壊していたのは彼の方だというのに。史実上、その病は快方に向かうことなく沖田総司という偉人を死に至らしめたはずだ。けれど今目の前に居る沖田は胸を押さえて痛みに苦しむ様子が全くなかった。それどころか、具合を悪くしているのは葵の方だというのだ。どうりで、身体を動かすのがどことなく億劫なはずだ。一歩踏み出すだけでひどく体力を消耗し肩が重い。左胸に掌を押し当てる。心なしか、鼓動の音が小さい気がした。
 沖田に促されるまま、葵は先程まで横になっていた布団に戻る。僅かばかり起立していただけなのに、何も履いていなかった素足はすっかり冷え込んでしまっていたので、布団にまだ温もりが残っていてくれて良かった。指先も、外に出たのは本当に短い時間だったのにすっかり赤くなっていて上手く動かすことが出来なかった。けれど、何も経験したこともないような極寒に放られたわけではない。真冬に水に手を張られてもここまで動きが制限されたことはなかった。
 ――私、こんなに不便だった?
 自分のことがわからない。過去の経験を思い出して現在の不明瞭を問い質している筈なのに、その過去がどこにあるのかがわからない。此処が過去で、私の現在は未来なのではなかったか。そんなことを考えていると、葵の手の赤みが痛々しく映ったのか布団の隣に腰を下ろしていた沖田が自分の両手で彼女の両手を包み込んだ。その手はとても暖かくて、葵はほっと息を吐く。やはり此処は心地が良い。そんな心の充足を微笑みに託してみれば、沖田も同じように微笑み返してくれた。そのことに、葵は何の違和感も覚えないのだ。
 未来を過去として置いてきてしまった葵は、沖田のいる場所でのみ己の存在を認識していた。彼と離れてしまう途端、彼女は自分のことすら覚束なく、母親と逸れた幼子の様に畳に伏してはらはらと涙を流すのだ。こんな筈じゃなかっただとか、こんな弱い私では駄目なのにだとか涙の理由は諸々にあるはずだった。けれど口を衝いて出てくる言葉はいつだって一つだけだった。
 ――仕方のないことなのよ。
 選んでしまった、一歩を踏み出してしまった。沖田総司という人間に恋をしてしまった。その日から、葵は沖田にだけ異分子として紛れ込んだことを許される女となった。沖田に求められ、抱かれ、愛される為だけに葵は彼に寄り添っている。不健全だろうかと逡巡したこともある。けれど同じ褥で無防備な寝顔を晒して自分を抱き締めている男を葵は手放したくはなかったし、手放して欲しくもなかった。行燈の薄暗い明かりにもいつしか慣れて、宵闇の中であっても葵は隣に居る沖田をはっきりと感じ取ることが出来る。
 言い淀むことなどない。葵は確かに幸せだった。だから、これはその代償だと思うことにした。そうであれば、何も辛くはないからと。ここ最近の葵は、めっきり体調を崩しがちで床に伏せっていることが殆どだった。あまり人の行き来がない奥の座敷を療養の場として日がな一日人通りがないことを良いことに開け放った障子戸から外の景色をぼんやりと眺めていた。
 沖田は暇を見つけては葵を見舞う。葵が沖田に寄り添うようになってから、彼の胸の痛みはきれいさっぱり消えてしまったのだと言う。複雑怪奇な恐ろしいことだと誰かは言う。何か物の怪に憑りつかれているのではと案ずる人もいた。耳を澄まし拾い上げた無遠慮な言葉たちに、葵は声を上げず口元だけで微笑んだ。もし沖田に悪い物が憑いているならばそれはきっと自分だろう。そして消えた彼の病は今少しずつ自分を侵しているに違いない。やがていつかの沖田のように胸を押さえ苦しむ日が来る。それでも、葵の口元に浮かんだ笑みは崩れないし、不安も恐怖も一向に訪れる気配はない。ただ穏やかに、葵は沖田の傍にいることを望むのみだ。

「――すまない」
「沖田さん?」
「葵の具合が良くならないのはきっと俺の所為だ」
「何言ってるんですか?沖田さんはお医者様じゃないんですから私の具合に責任を負う必要はないでしょう?」
「俺が葵を手放せないから、こうして葵の命が削られる」
「―――、」

 月の綺麗な晩だった。雲の陰りはないというのに、辺りに星は見つけられなかった。月明かりが障子の白を通り抜けて部屋の中を青白く照らし出している。行燈の灯がなくとも葵には今にも泣きだしそうな沖田の顔がはっきりと見えていた。彼は困ったように眉尻を下げた葵を抱き締めて、何度も詫びた。
 沖田の常識で言えば、誰かの病を誰かが引き取るだなんて有り得ないことだろう。葵だって同じだ。けれど、その葵という本来いない筈の存在を後生大事に引き寄せることに躊躇いを見せなかった彼だから、少しくらいの発想の飛躍はもう何の葛藤もないのかもしれない。葵の細い肩に押し付けられた頭、少し襦袢越しに冷たい水の感触が伝わってくる。泣かないでと伝えたくとも声が出ない。葵も同じように悄悄と泣いていたから。どう言葉を紡いだら、沖田の悲しみを留め置けるのか。確かに自分の命は削られている。けれどそのことを、彼女は微塵も厭わない。だから沖田にも厭うなと求めることは無理な話だった。彼は葵を愛しているのだ。その事実だけで十分だと言葉を発しようとした瞬間、葵は急激に咳き込んだ。咄嗟に抑える胸元と、その瞬間青褪める沖田の顔をぎゅっと目を瞑る前の一瞬で葵の網膜に焼付いた。

「…そんな顔…しないでください」
「葵、無理して喋るな」
「私は――沖田さんの未来を捻じ曲げて幸せな想いをしてた…我儘な女でしたから…、これくらい、…平気ですよ」
「喋るな!」

 荒げられた声に怒気はない。本当に、心底葵を案じているだけだ。呼吸を整えることも出来ず、葵の額には汗が浮かび前髪が張り付いて苦しみに寄せられた眉が月明かりではっきりと沖田の目に映り込んでくる。その病の痛みを沖田は身を以て知っている。だから猶更辛い。葵は当然のことだと受け入れて、平然と湧き起こる痛みに耐えている。そんな必要が、どこにあるというのだろう。彼女が捻じ曲げたという未来に、きっと彼女自身は存在していない。ならばそれを捻じ曲げてくれたことを沖田は喜んでいい。今自分の腕の中で沖田が囁く愛を拒むことなく同じだけの愛情を注ぎ返してくれる葵という存在を与えてくれたのだ。在るべき場所に還すなどと、到底思い至っても選ぶことのできない選択肢だった。
 だから沖田は決めている。葵の命が削られ尽きるまで、沖田自身の命が朽ち果てるまで、自分は決して彼女を抱き締めて離しはしないのだと。そんな薄暗くも揺るがない決意を、星々が姿を現して祝福するはずもなく。薄気味悪いほど近く感じる月明かりだけが、逃げられない二人の行く先を照らしている様だった。



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こんなに好きになっちゃってごめんね
Title by『告別』




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