※捏造
※沖田(→)←葵←剣城。暗い


「――触れても良い?」

 そう尋ねる葵の声はいつだってか細く震えていて、きっと剣城が当然有していたはずの拒否の言葉を紡ごうものならそれが最後、彼女は絶望の海に落ちて二度と引き上げることは出来ないような、そんな気がした。


 葵はいつも、ひどく怯えたような目で剣城に触れた。何が怖かったのか、それは未だに剣城にはわからない。触れて良いかと問われ、意図の読めないまま彼女の雰囲気に押され頷いてしまったあの日、彼女はそっと右の掌で剣城の胸板に触れ、そこから伝わる心音を感じ取った瞬間彼女の顔はくしゃくしゃに歪み大きな瞳からはとめどなく涙が零れ落ちて行った。安堵などでは決してなく、どちらかといえば悲しんでいる涙のように思えた。けれどそれは、剣城の心臓が動いているからではない。彼女は剣城に恨みがあるわけでもなく、寧ろ楔のような存在として自らが内側に抱え捨て去ることの出来ない想いを守る為に彼を必要としていた節がある。それは勝手な面影の投影で、剣城は声を荒げて迷惑だと葵を突き放す権利があった。剣城自身、葵の涙を見る前から薄々感付いてはいたのだ。彼女が自分に重ねている他人の影を。だからこそ、その影に覆われている自覚があったからこそ、剣城は葵を冷たく拒むことが出来なかった。自分が彼女に向けている感情の名前を持ち出すまでもなく、弱々しく何度も伸ばされてくる葵の腕を振り払うことが出来るような人間はただの人でなしだと思った。


 沖田総司という人のことを思い出すとき、剣城は間違いなく兄である優一のような人という印象を添える。時代から考えれば、その表現は間違っているのだろう。歴史上の人物として名の知れた沖田総司が、剣城たちにとっては既に死という最後を通り過ぎてしまった存在だということを当たり前として、だからこそ決して意識などしたことはなかった。信長にせよジャンヌダルクにせよ劉備や孔明にせよ、歴史に名を馳せた人物であればあるほどその最後とて後世に伝わっているというのに。出会い、心を通わせた人間がこの先どんな道を辿り朽ちていくかを知っている。けれど誰もが不思議とそのことを出会いの中では思い出さなかった。死は身近になく、生きている彼等にこそ用があるのだと言わんばかりに。そんな中で出会った沖田総司は、いつ死ぬとも知れぬ病に侵された人だった。癒えることのない胸の痛みを抱えながら、己が生きた証を求めて押し寄せる歴史の転換期に諦めることなく信じた道を貫いた。そんな所がどことなく兄に似ていたのだと剣城は思う。そして賢明であるが故に意固地になりただ目の前に在る現実から目を背けるような所は、自分とも似通っていたのかもしれない。兄を救いたいがあまり、彼の気持ちを汲んでやれなかった少し前の剣城自身に。
 剣城と沖田の邂逅は二度ばかりだった。坂本竜馬討伐に拘る沖田と、サッカーの試合が関わる範囲でしか触れ合わなかった。それが、お互いにとってどれだけの影響を齎したかは問題ではない。剣城にとって、沖田はいつだって過去にいて振り返る思い出の中にのみ現れる人となった。歴史を綴った書物の中にしか彼の存在を見つけられない世間の人間よりはよほど身近だったろう。けれど、剣城にとってもやはり沖田総司は自分とは違う時代を生きた人間だという割り切りがあったに違いない。
 葵は沖田総司を思い出すとき、決まって泣きそうな顔をする。もう会えないことを、死んでしまっている人を生きている人だったと認めてしまったことを、沖田総司という人が今の時代に残されている史実通りに振る舞い去って行ったのかと思うと辛い。胸の痛みに咳き込む沖田の背を擦ったときのことを葵は頻繁に思い起こす。頬笑んでくれた、ありがとうと言ってくれた。あれほど目の敵にしていた坂本竜馬と一緒にいたというだけで敵視されてもおかしくないと思っていた。聡明な人だったのだろう。だからこそ盲目に振舞わなければ立ちいかないことが、あの時代は何かと多かったのかもしれない。命を懸けるに値するものとは何なのか、葵にはわからない。刀も銃も遠いのだ。けれど今ならば言える。きっと、この恋の為ならば自分は命を懸けることを厭わなかっただろう、と。
 葵の沖田への恋心の自覚は、非情なことに現代に帰って来てからのことだった。兆しは当然沖田に触れ、言葉を交わした最中にあったのだろう。しかし葵は咄嗟の心の動きに名前を付けることは出来なかった。過去の人々に会って回ることがどれだけ特別で例外的なことかを葵は理解しているつもりだった。時間の流れに干渉することなんて本来は出来ない。少なくとも未来の技術に頼らなくてはならないという時点で、葵の現在には無縁の事態だった。
 好きな偉人に会えると喜ぶ人もいた。だから、彼等を前に思うことは尊敬であり興味であり憧れでなければならない。共感にしろ失望にしろ、決して自分からは与えてやれない感情しかそこにはないと思っていた。
 苦しまないでほしいと願った。剣など置いて、安らかに過ごしてほしいと願った。傍にいたいと願ってしまった。葵はきっと沖田のことが好きだった。咲いてしまった恋を、葵は散らす術を持たなかった。だって沖田は優しかったから。

『以前も言ったがもう俺は永くは生きられない。けれど、彼の中に俺の力が宿るならばそれは確かに俺が生きた証かもしれないな』

 葵たちが未来に帰る直前、見送りに来てくれた沖田は言った。視線の先には、剣城がいて葵は少しだけ彼を羨ましく思った。その時沖田の傍には葵だけがいて、同じように見送りに来た坂本の周囲は賑やかだった。どれだけ坂本の言葉が正しく耳を傾けるに値したとして、沖田は新撰組の人間だった。直接顔を合わせれば剣を抜かないわけにはいかない。けれど葵たちがいるこの場に限って目を瞑るという心積もりでいたらしい。二人きりに近い状態だったのは、葵が沖田に駆け寄って体調は大丈夫なのかと尋ねたからだ。沖田は微笑みを浮かべて、彼女の心遣いに礼を言うのみだった。改善に向かう余地はないのだから、大丈夫と答えればそれは嘘くさい。かといって見送りに来た場で無理をしてきたというつもりもない。そんな中間点の返事。
 沖田の言葉に、葵は頷いた。

「剣城君なら、きっと沖田さんの力を無駄にはしません」
「ああ」
「…それに、私も忘れません。沖田さんが、この京都で生きていたこと」
「……そうか」
「沖田さんに会えて、私本当に良かったと思ってます」
「面と向かって言われると少し気恥ずかしいな」
「そうですか?」
「――そういえば、君の名前を聞いていなかったな」
「葵です。空野葵」
「葵――か。良い名前だ」
「ありがとうございます」

 葵が沖田と会話らしい会話を二人きりで交わしたのはこのときだけだ。そして見落とした。沖田が自分に向けていた瞳の中に浮かんだ慈しみ以外の熱を。見つけて拾い上げたところでどうすることも出来なかった。それでも、葵がもう少しだけ恋愛に於ける人の想いの機微に経験を積んでいたのならば彼女は沖田の瞳を逸らすことはしなかった。自分の中に芽生えた気持ちを種のまま持ち帰り今になって咲かせ持て余したりはしなかった。剣城に甘えるように触れたりはしなかったのだ。
 触れても良いかと尋ねてしまったのは、思わずといった突発的なことだった。試合をしていた剣城が、沖田から託された力を使う度にその背中に彼の影を見る。横顔に面影を探す。そして次の瞬間にはもう沖田はいないのだと現実を突きつけるように剣城ひとりがそこに立っている。当たり前のことで、剣城は葵に何かを働きかけようという意図は一切持っていなかっただろう。それでも一瞬で散る沖田の影に追いかけるように葵の足は彼の元へ向かっていて、気付いて此方を見る剣城の目が葵を案じるように細められたことなど構わずに言葉を放っていた。剣城はどうしてか、拒まなかった。おずおずと触れた、衣服越しの熱が不意に咳き込む沖田の背を擦った記憶を呼び起こした。この人は違うと言い聞かせて、ならばどうして触れたいのと問う。答えはない。
 伝わって来た心音は、初めは葵の振る舞いに戸惑う焦りからか速かった。けれど徐々にテンポは落ち着いて、穏やかに力強く生きているという証を葵に突きつけた。そして葵は泣いたのだ。剣城が目の前で生きている、単純にその事実に打ちのめされて、安堵して泣いた。こんなに力強く今を生きている人を、自分の恋心に巻き込んで過去に生きて死んでしまった人を重ねてはいけないと理解した。
 それなのにふとした瞬間に弱くなる。沖田は何処に居るのだろうと探したくなる。その度に葵の近くには剣城がいる。手頃な代用品だと悪魔がいたならば囁いただろうか。けれど葵は、一人の人間として剣城が好きだったからただ縋るだけ。何度も自分で自分に現実を思い知らせる為に彼に触れる。剣城からすればただ迷惑な話だったことだろう。それでも彼は葵を許し続けた。「俺は此処に居るからそんなに泣くな」と示す様に。「貴方が此処に居るからこんなに泣くのよ」なんて言える筈もなく。葵は誰にも打ち明けられない恋心に振り回されて、剣城を傷付けていた。
 今日もまた、葵は剣城に縋る。拒まれないお願いを口にして、彼の心音を手繰る。もしも葵が、このとき毎度悲しみに俯かず彼の顔をしっかりと見つめていたのなら、力強い心音の裏でどれだけ辛さを押し殺してくれていたかを理解しただろうに。

「――ごめんね、剣城君」
「……空野の気が済むようにすればいい」
「…ありがとう」

 こんなに優しい言葉をくれる人が目の前にいるのに。それでも葵の鼓膜を震わせるのは、たった一度だけ彼女を葵と呼びその名を褒めてくれた彼の声だった。




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彼を愛していたこと、彼が大切だったこと、彼のためなら死ねると思ったこと、そのすべてに嘘はなかったのに
Title by『彼女の為に泣いた』




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