※バダップは名前だけ

 使われもせず、真新しいままの救急箱を手にしたまま、ルシェはいつもぼんやりと遠くを見つめている。
 前触れもなく、次への確証もなく淡い期待だけを幼いルシェに抱かせながら、ふらりと現れては去っていく寡黙な男を、彼女は無意識に待ち望んでいるのだろう。心配そうに、救急箱を持つ手に力を込めながら、表情は穏やかにどこか喜色を浮かべているようにも思えた。

「ルシェ、冷えるから中に入ろう」

 ルシェの自宅の玄関から呼び掛ける。彼女は自宅の敷地と公道のぎりぎりに立ったまま俺を振り返る。素直に分かったと頷いてくれたことは、残念ながら未だにない。
 今だってにこにこと微笑みながら、身体の向きすら変えてはくれない。変に頑固なのは絶対ルシェの待ち人の影響だと思う。

「もう少しだけ」
「…予報だとこれから雨だよ」
「でも…」
「ルシェが具合を悪くしたら、彼が悲しむよ」
「……うん」

 間違ったことを言っているつもりはない。それなのに襲い来るこの罪悪感は一体何だろうか。ルシェが体調を崩したら彼は絶対に自分を責めるだろう。生真面目が過ぎる彼は義務感をとおの昔に通り過ぎた只の過保護だ。
 とぼとぼと此方に歩いてくるルシェを迎え入れる為に玄関を押さえながら彼女の後ろに目を凝らす。広がる一本道に、彼女の待ち人の姿は影も形もなかった。

「彼はいつも怪我をしているのかい?」
「いつもじゃないけど…」
「けど?」
「バダップお兄ちゃん…怪我を隠すから…」
「そっか、」

 予め救急箱を用意して置けば、此方の手当ての準備は万端だから、隠す理由などないと思うのだろう。安直だけど、素敵な考え方だと思う。それと同時に、やはりルシェは彼に、バダップに似てきてしまったなあと思わざるを得ない。過保護な愛を受けた彼女は、過保護な愛を彼にそっくりそのまま返そうとしている。
 救急箱を手放さないまま、掛け時計と窓の外ばかりを、ルシェの目線が行き来する。
 実は、まだバダップがこの家を訪れる時間には余裕があるのだ。時間と言っても、正確な日時を決めている訳ではない。平均的に考えて、来るならばこの時間、曜日だろうという、あくまでも予想に過ぎない。
 同じ子どもとはいえ、軍という組織に属する彼は俺たちより遥かに忙しいのだろう。破る確率の高い約束はしたがらない彼の性格も知っている。それと同様に、バダップはルシェが今日自分がやってくるのではと待ちわびていることを知っている筈だ。
 甘やかすなんて柄じゃないと戸惑いながら、ルシェの為ならそんな必死になるんだね、とは陳腐過ぎる野次は言わない。俺はあくまで部外者なのだから。
 ルシェは、いつもこの家でバダップを待っている。大人しくとは言い難いが、ちゃんと自宅の敷地内で彼を待っている。その理由をルシェに直接尋ねれば、案の定そうバダップと約束したからだと言う。自分は凄く遠いところに住んでいるから、迎えに来ようとしてはいけない、と。ルシェが迷子になったら大変だから。
 上手く回避したものだと思う。確かにルシェが彼を追えば迷うだろう。道も、心も同様に。世界の何処を探しても、彼にはルシェを見つけられるのに、ルシェが彼を見つけることは非常に困難だ。それ以前に、迎えに来るなど諭しても無駄だろう。現にルシェはこうして彼を待ち続けている。

「ルシェ、お菓子食べる?」
「バダップお兄ちゃんが来たら!」
「そう、」

 健気で強情だ。バダップが来ないかもなんて微塵も思っていないのだろう。ここまで無条件に想われては、彼も決して裏切れまい。無垢な笑顔が、きっと何よりの手綱となって彼を現在に繋ぎ留めるのだろう。
 そして俺は、バダップを待つルシェの面倒を見ながら、特別関係も感慨もない彼を彼女と一緒に待っているのだから可笑しな話だ。
 バダップもバダップで、ルシェを自宅とはいえ一人にさせることを心配するくせに、こうして俺が付き添うことも面白くないと言いたげに毎度胡乱気な視線を寄越して来る。はっきり言って俺は彼に感謝されてもいい筈なんだけどね。

「バダップお兄ちゃん…遅いね」
「大丈夫だよ。彼は君が大好きだからきっと来るさ」
「ルシェもバダップお兄ちゃん大好き!」

 こんなノロケにまで笑顔で付き合ってくれる人間、そうそういないだろう。
 窓を見れば幾つか水滴がぽつぽつと弾ける。予報通り、既に雨は降り出していた。
 仕方ないなあ、とバスタオルを取りに風呂場へ向かう。恐らく彼はルシェに会う為に必死で傘など差さずに走って此方へ向かっている最中だろう。
 途中、玄関のベルが鳴る。ルシェは元気よく返事をして玄関へ駆け出す。恐らく、手には救急箱を持ったまま。どうか慌てて転びませんように。
 そして俺も、バスタオルを手に急いで玄関へと向かう。ルシェに会ったバダップが、ずぶ濡れのまま彼女を抱き締める前にこのタオルを投げつけてやらなくてはならない。
 全く、とんだ善良なお邪魔虫もいたものだ。



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木星が帰還した
title by『オーヴァードーズ』






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