正しい言葉を探している。語彙とか文法の問題ではなく、自分の気持ちがそっくりそのまま相手に伝わるような、そんな言葉を。それこそ、超能力でも身に着けなければ到底不可能な域での疎通が望ましい。円堂が常日頃眠気に負けず現代文の教科書と格闘し教師の板書を丁寧に写し取り解説に身を入れて聞き入っていたのならば、今頃彼はヒロトの薄い背中を奮い立たせてやれたのだろうか。小難しいことを考える為に脳みそをフルに稼働させても、学問に秀でていない円堂の頭に浮かぶ言葉はどれも陳腐でいけない。問題ではないと放り出したばかりだが、語彙力があるに越したことはないなと、円堂はあっさりと己の無学を認め落ち込んだ。 「なあヒロト」 「何だい、円堂君」 「俺は男だよ」 秘密を打ち明けるように「知ってたか?」というニュアンスで投げた言葉に、ヒロトは「知ってるよ」と笑う。それもそのはずで、だって円堂だってヒロトが自分を男と知っていることを最初から知っていた。そもそも性別を間違われるような事態に陥ったことはこれまで一度もない。普段の生活態度、言動、男子サッカー部に選手として在籍している等、円堂が女の子である疑惑が湧いて出る要素がまず存在しない。日本代表に選ばれてから、合宿で風呂を共にしたことだってもう何度もあるのだから。 どうであるにしろ、今のは円堂の言葉のチョイスが悪かった。円堂は別に、自分の性別を問題にしたかったわけではない。 風呂上がり、ソファに座っていた円堂の隣に後からやってきたヒロトも腰を下ろした。二言三言、言葉を交わして、少しの沈黙。そうして突然ヒロトが円堂の膝に向かって倒れ込んで来た時は珍しいけれど何かの悪ふざけかと思った。けれど何も言わず、膝枕状態で円堂の下腹部に耳を当ててうとうととされてしまったのでは流石に困る。身動きが取れないほど疲れて眠いのならばさっさと部屋に戻るべきだ。間に合わず円堂が部屋に運ぶことになったとしても一人では難しいので、助けを呼ぶためにもまだ誰かが通りか掛かる可能性のある内が好ましい。毎日相当な練習をこなしているだけあって、合宿所では皆何かと就寝時間が早いのだ。 部屋に戻ろうかと声を掛けようとした瞬間触れたヒロトの髪はまだ少し湿っていた。けれどこれで彼が既に入浴を済ませて寝る準備が万端だということは確認できた。円堂も、風呂上りに火照った体を冷ましていただけで出来るならばさっさと自室に戻ってベッドに潜り込みたい。何より、枕代わりにされては堪らない。 冷静に、今の体勢は困るとじっとヒロトを見つめる。何だかこの体勢は妊婦のお腹に旦那が耳を当てる姿を連想させる。他人の腹に耳を当てる場面なんて、円堂にはこれくらいしか思い当たらなかった。 勿論先に確認したように円堂は子どもであるし何より男の子なので、妊娠なんて未来永劫経験することはないけれど。 「――何だか妊婦さんと旦那さんみたいな格好だよね」 「…俺もそう思ってた」 「でも円堂君は男だから何の反応もないよ」 「いやいや、仮に俺が女でも今反応あったら可笑しいだろ?」 誰との子だよなんて最後まで突き詰める必要のない下世話な問いは噤む。ヒロトはヒロトで「円堂君なら引く手数多に違いないよ」なんて頓珍漢なことを眠そうな顔に苦笑を浮かべて呟いている。そしてその苦笑を、直ぐにただの微笑に変えてしまったから、円堂は彼の言葉を咎めることが出来なかった。冗談として終わった言葉を掘り返すには、何と言うのが正しいかがわからなかった。 ヒロトの瞼は降ろされて、先程までの穏やかな口調と相俟って何故だか幸せだと言われているような気がしてしまう。それが、円堂をどうしようもなく落ち着かない心地にさせた。それでも膝の上のヒロトを振り落とそうなどという考えは一向に頭を過ぎらないし、浮かんだとしても実行はしないだろう。 今この場でそれを選ぶということは、ヒロトを突き放すということに違いない。そして突き放すには、今目の前に居るヒロトはあまりにも弱々しく円堂の目に映っていた。 「時々だけど、円堂君が男で良かったって本気で安心することがあるんだ」 「――どうして」 「ずっと一緒にサッカーが出来るじゃない」 「ああ、そうだな」 「それに――」 そこで一度、ヒロトは言葉を切った。言おうか言うまいか迷っているのか。はたまた言葉が上手く纏まらないのか。ただ円堂は焦らなくても、きちんと最後まで待っていられると伝えたくて、てっとり早く膝の上に乗っていたヒロトの頭を出来るだけ優しく撫でた。その途端、ヒロトがほっとしたように息を吐いてけれど泣きそうに眉を下げるから、自分はまた何か間違えたのかと円堂はぎくりと心臓をちくちくと刺された気がして思わず手を止めてしまう。 「それにもし円堂君が女の子だったら、きっと俺は円堂君を好きになってたと思うんだ」 「――そうか?ヒロトは変なこと考えるんだな」 「勿論、今だって好きだよ」 「うん、俺もヒロトのこと好きだ」 「…ありがとう。だけどね、円堂君が女の子だったら、きっと俺は許されてしまう気がする」 「――何を?」 「君を好きでいることを」 「だから円堂君が男で本当に良かった」と安堵するヒロトに、円堂は自分の胸の内がすうっと冷え込んでいくのを感じていた。言葉にしたのは、同じ「好き」の二文字でしかなかった。けれど、円堂の性別次第ではその意味合いが大きく変わってしまうらしい。 では、たった今ヒロトが自分に告げてくれた好きは一体何だというのだろう。自分たち以外に他の第三者が介在して、四六時中監視しているとでもいうのだろうか。ヒロトの言う、許す許されないを決める誰かが、本当にいるのだろうか。自分が女だったら、ヒロトは一体誰に許して貰えるというのだろう。そんな許しが、どうして必要になるのだろう。例えば円堂が男のままで、けれどこうして触れ合いヒロトから告げられた「好き」という気持ちを純粋に嬉しく思うことはいけないことなのだろうか。誰かに許しを請わねばならない咎なのだろうか。 湧き上がる疑問は、このまま果てしなく続くような気がした。答えなど、誰も教えてはくれないとわかりきっているのに。自己完結に答えを導き出そうにも、円堂の頭は小難しいことを考えるに適していない。 けれど、ヒロトの言った言葉自体は決して難しいものではないのだろう。円堂には理解できなくとも、ヒロトには全て自身の内側で解釈し決めた答えがあるに違いない。そういう思い込みが妙な方向に傾くと、取り返しのつかない事態に発展することもあるだろうに。ヒロトは特に思いつめやすいタイプに見えるので。 兎に角、円堂の膝の上で眼を閉じたままのヒロトは、きっと心の内側に何かを閉じ込めて、許されることのない何かを願っている。そしてそれは、円堂を無関係の場所には放っておけないことなのだ。だから、寄り掛からないように、ほんの少しだけ甘えている。この僅かな繋がりだけで十分じゃないかと自分を納得させる為に、諦める為に根底の円堂に拒絶と享受を求めている。円堂には、どちらも叶えてやれないのだけれど。 「俺もヒロトも、一緒に幸せになれたら良いのになあ」 するりと口から零れ落ちた言葉に、ヒロトは小さく震わせた。同じように震える声で「そうだね」と寄越された短い返事に期待の色は全くない。そんなことに、一瞬突き放されたような感覚に襲われてしまう。何もできない場所で、ヒロトからの言葉に拙い回答をするしか出来なかったのは円堂の方だというのに。そんな身勝手な不安を紛らわすように、円堂はもう一度ヒロトの髪を撫でた。 ――きっと今俺がヒロトの手を握りしめても、俺たちは幸せにはなれないんだろうなあ。 そんな風に思う。だって、円堂の腹には誰との子も宿ってはいないのだ。ヒロトだけを繋いでやれない自分は薄情なのだろうか。そんなことを考えながら、円堂も瞼をゆっくりと閉じた。 ――――――――――― 将来はあなた専門の翻訳家になるの Junkから回収・加筆修正 |