※人魚姫パロディ


 空の下を歩いてみたかった。海の下を泳ぎ回るのではなく、色々な人がとても綺麗と褒めてくれる尾ひれに未練もなく。だから奇跡を願った。この先じっとしているだけでは届くことのない場所。両の足を交互に動かして歩く人間になってみたかった。舟という大掛かりな乗り物に頼らなければ海を渡れない身を春奈の周囲の人魚たちは不便極まりないと謗っていたけれど、それでも。一度覗き込んだ船の上ではしゃぐ人間たちは皆楽しそうに飲み食いし、歌っていた。不幸な天災でその饗宴は一気に悲惨な現場となってしまったけれど、あの時海に落ちて意識を無くして春奈が助けた少年も人間なのだ。少年を浜辺に送り届けた時、昇り始めた朝日の輝きを受けて見つめた時、春奈は恋に落ちたのだ。もう一度会いたいと思う気持ちは日増しに大きくなって、元来人間への興味で海に沈んだ彼等の物を拾い集めている春奈の願いは破裂寸前まで膨らんでしまった。
 人魚たちを初め、海の中の住民たちは大抵人間たちを嫌っているのが常だった。何せ彼等は魚を捕えては身を割いて火を通して食べてしまうのだとか。春奈には火の概念がなかったので、それはどんなものか尋ねれば話題の趣旨はそこではないと怒られてしまった。いつもそう、春奈が人間について尋ねると、周囲は彼等の悪評を教え込もうと必死になって何一つ彼女の疑問に明確な答えを与えてはくれないのだ。だから、自分の目と耳で確かめねば何もわからないという春奈の憧れを増長させてしまうのだということに、誰一人気付かない。
 春奈は感情と行動が直結している部類の子どもだった。だから知りたいと思えば尋ねるし、人間が気になれば迂闊と理解しながら海面に顔を出して浜辺に居る人間を観察してみたりもする。隠し事は苦手で、問い詰められれば上手く言い逃れることも出来ない。普段からにぎやかに捲し立てる春奈を「やかましさん」と呼ぶ輩までいたくらいだ。だから、思い立ってしまったら春奈は即行動に移るしかなかった。それが、周囲に決して賛同を得られないであろうことを理解しているならば猶更。
 己の声と引き換えに、春奈は足を手に入れた。海辺に打ち上げられた彼女は寄る辺のない子どもだった。初めは自分の身体に足が二本は得ているとはしゃいでいたものの、直ぐに不安の方が大きくなって岩場の影に身を縮めてしまった。何せ声が出ないのだから、助けを乞うことも出来ない。海面から眺めたこの浜辺以外、春奈は人間が住む世界のことを何も知らないのだ。慣れない両足を格闘しながら、何とかその場に起立することが出来た。それで、少しだけ気分が浮上する。長い間格闘した末、たどたどしくはあるものの歩くことも出来るようになってきた。
 その後、人間からすると奇怪極まりない春奈の特訓を浜辺の崖の上にある城のバルコニーから見ていた人間によって彼女は保護されることになる。言葉も喋れない、当然ながら文字の読み書きも出来ない春奈は身寄りのない貧しい娘だろうかと思われたが、訳ありの世間知らずなどこかのご令嬢かもしれないという城の使用人間の憶測により一先ず客人としてもてなされることになった。

「…お前、どこかで会ったか?」
「―――!」

 出会い頭早々に不躾な物言いを寄越してきたのは、この城の主である不動だった。王子という立場に見合った能力を持っていながら、権力争いの中で徐々に性格を歪めてしまったが故に一々まずは他人に突っかかってみなくては話を切り出せない損な性格をしている人物だった。そして彼こそが、春奈が先日海で助けた、もう一度会いたいと願っていた人物だった。ばっと瞳を輝かせて、彼の問いに頷き返そうとした瞬間、咄嗟の判断で思い留まる。会ったことがあると肯定したとして、一体それをどこでどんな風にと説明すればいいのだろう。喋れない、文字も書けない。何より自分が人魚であることを打ち明ける気には到底なれなかった。人魚が人間になって陸に上がっているだなんて知られて気味悪がられたらどうしよう、海の中の皆は人間は魚を食べてしまうとも言っていた。そう思うと、不安ばかりが先行して真実を打ち明ける気になど到底なれなかった。逡巡して首を横に振った春奈はすっかり忘れていたのだ。自分が、隠し事をするのに不得手であるということを。
 結局、不動の計らいで春奈は客人として扱われることに収まった。不動の幼少期からのお目付け役と教育係を付けられて、徐々に文字の読み書きも覚えて行った。ただ声の方だけは、どんな名医に診せても回復の見込みを見せなかったが春奈には嘆く要素には思えなかった。この両足が地面に着いている以上、声は戻らない。声が戻るということは再び海の中に戻るということに他ならないのだから。
 不動が春奈に寄越したもてなしは非常に親切な心配りといえたが、彼本人が彼女の前に姿を見せる回数は少なかった。忙しいと言われてしまえば、人間の生活組織の仕組みを知らない春奈にはどうしようもない。時折顔を合わせれば棘のある言葉も言われるが、直ぐに春奈が言い返せないことに気が付いてバツが悪そうな顔をする。きっと優しい人なのだろう。あの夜、海に落ちた不動を助けたことは間違いではなかったのだと、春奈は自信を持って頷くことが出来た。この胸に宿る気持ちは間違いなく恋なのだと、その想いを強く自覚した。
 けれど、文字が読めるようになり少しずつ人間の世界の常識を身に着けて行く内に春奈は悲しい現実を知る。王子という身分の者と結ばれるには、王女や貴族といった高い身分が必要だという。それは、海からやって来た人魚の春奈が持ち合わせている筈もないもの。現在だって、不動の庇護を受けている立場でありそれは決して対等ではないのだ。その日以降、目に見えて落ち込んでしまった春奈を城の人間たちは揃って心配してくれがその優しさも彼女の心を晴らすことは出来なかった。そして春奈の危惧通り、不動に婚姻話が持ち上がったとの噂が城中を駆け巡ると益々春奈は塞ぎ込むようになり、これまでは城下町に誘われると喜んで帯同していたことが嘘かのように日がな一日浜辺に座り込み海を眺めていた。
 ――陸を歩けただけで十分幸せなはずなのに。
 果たして自分は何を一番に望んでいたのだろうか。海から陸へ渡ることではなく、不動への恋心を実らせることだったのだろうか。だからこんなにも辛いのだろうか。全ての望みが叶えられるだなんて、そんな欲深い自分ばかりが幸せに塗れる世界等存在するなんて思っていない。けれど、確かに痛む胸の理由だって明らかだった。出せない声を枯らすように、春奈は海辺で一人静かに号泣した。

「お前、こんな所で何やってんだよ!」

 背後から思いきり腕を引かれる。驚いて、振り返ればそこには怒った顔をした不動がいた。春奈が泣いているとは思わなかったのか、振り向いた彼女の顔が涙でぐちゃぐちゃになっていることに不動は決まりが悪そうに頭を掻いてから自分の袖口で乱暴に涙を拭いてやった。されるがままの春奈に、もしかして痛かっただろうかと疑問に思うも尋ねることは出来ない。
 連日舞い込む求婚を手当たり次第に理由をこじつけて拒否するのが予想外に忙しく、春奈の顔を見る時間すらなかなか取れない日々が続いていた。漸く一段落ついたと彼女の部屋を訪ねると蛻の殻で、偶々近くを通りかかり彼女の面倒を見て貰っていた佐久間を捕まえて尋ねれば近頃彼女は妙に元気がないと聞いて探し回れば土地勘もないくせに城外に出ている挙句波打ち際に所在なさ気に佇んでいたものだから焦ってしまった。一際大きく波が寄せれば、瞬間あっさりと春奈は呑み込まれて消えてしまいそうだった。
 確信がない以前に、突拍子のない話だから。自分の言葉を笑い話にされることが苦痛な不動は言葉にできないだけで、以前船上で自分の誕生パーティーを催した際落雷によって海に投げ出された自分を誰かが助けてくれたことを彼ははっきりと覚えていた。その誰かが、意識を失う前の僅かな間に映った顔が今目の前に居る春奈に瓜二つだということも。だから、海辺で何も身に付けずふらついていた春奈を保護したのだ。普通ならば、不動は誰彼構わず城に招き入れたりはしないのだ。そのことを知らない彼女は、気紛れに自分を城に住まわせて放っている親切なのか良くわからない人と思っているのかもしれないが。

「――お前危なっかしいんだから、あんま勝手にいなくなるなよ」

 涙の乾いた頬を潮風が打って、泣き痕が目について痛々しい。眼を背けるように春奈を抱き締めて、精一杯の大切という気持ちを込めて伝える。不動の肩口に頭を寄せる春奈は、その温かさに微睡んでしまいそうだった。
 ――本当に、優しい人。
 そんな人に、こうして抱き締めて貰えること。好きな人の瞳に、確かに自分が映り込んでいること。それだけで、十分な気がした。想い合い、添い遂げることが出来なくとも。例えこの先、春奈を想う人の願いを込めた短刀が彼女の手の中に納まったとして、不動を殺せば人魚として海に戻れると道を示されても自分はそれを選ぶまい。春奈の背後に広がる海の中から見つめ続けた憧れを、何一つ燻らせることはない。全て果たして、溶けていく。
 最後の我儘と、そう決めて。春奈は不動の背中に腕を回した。



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誰に恋しても良いけど最後はわたしからキスさせてね
Title by『にやり』




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