朝、目が覚めると目の前に杏の寝顔があって驚いた。驚いたけれど、「ああ、杏か」と頭が理解してしまうと存外冷静になれてしまうようで、取りあえず起こさないように一人分のスペースを開ける為に後退り。そうしてみると、杏は凄まじく自分に密着して眠っていたようで、これほど近くに人の気配があって目が覚めなかったのだから昨晩の自分はよほど熟睡していたのだなと思い知る。視線をぐるりと巡らして見える景色は、見慣れたいつもの自分の部屋。枕元に置いた目覚まし時計が示す時刻は後少しならば眠っていても許されるであろう範囲。そういえば、今日は休日だからもう少し余裕を持って見積もっても良いかもしれない。
 段々とクリアになる思考が、茂人が昨日体調を崩して早めにベッドに潜ったことを思い出させる。小さい頃は身体が弱くて、体調不良を訴えると問答無用で寝かしつけられたものだった。それが成長するに従って体調管理が自己責任になってくるとつい油断してしまう。薬を飲めば、空き時間に眼を瞑っていれば、熱さえ出なければ。そんな適当な妥協点を自分の中に設けて周囲にはばれないことを大前提に事を考える。そういう時に限って一番厄介な人間に眼を付けられたりするものだ。茂人の場合、それは晴矢と杏だった。幼馴染と恋人の眼だけはどうにも掻い潜れないまま、示し合わせなければ滅多に遭遇しない大学のキャンパスで出会った晴矢は茂人の顔を見るなり怪訝そうに眉を顰め、直ぐに携帯を取り出して杏を呼び出した。次の講義に出る為に教室に向かおうとする茂人を引きずって外のベンチに腰掛ける。何も言わないことが何よりも有効な圧力だと、あの晴矢が学んで実行しているならば見直さなければならない。痛む頭の片隅で考えながら、此処は喫煙スペースに近いから嫌だなあとも思う。
 数分後にやってきた杏は、突然の召喚に対する文句を晴矢に告げながら横目で捕えた茂人の顔色にすっかり事情は呑み込んだと言いたげに仁王立ちする。茂人の真正面で行われたことに、当然彼に影が落ちる。俯いた顔は気まずさより純粋に気分が優れないからだ。元来忍耐強い性分ではない杏だから、あっさりと溜息を零して茂人を立たせるとそのまま彼の自宅に引き上げた。晴矢は着いてこなかった。
 何時に家に帰って来たのかは覚えていない。けれどベッドに入ってから暫くの間は部屋を漁る杏が風邪薬の類が全く置かれていないことに文句の声を上げていたことならばぼんやりと頭の片隅に残っている。付き合い始めて期間の浅い初々しいカップルの時期は通り過ぎた。それなのに、違和感を浮き彫りにすることなく杏が自分の部屋で動き回っていることを茂人は不思議な面持ちで眺めていた。それもきっと、徐々に悪寒と共に上がって来た熱に浮かされていたのだろう。
 茂人が杏に告白したのは高校生の時で、激しい緊張と諦めが渦巻いていたことだけは覚えている。だからか、その前後の記憶の繋がりはひどく曖昧だった。それでも杏が自分の告白に真っ赤になりながら頷いてくれたことは確かなのだから、記憶の引き出しからその一場面を取り出すたびに茂人は幸せで仕方がないのだ。
 風邪を引くとどうにも感傷的になっていけない。小さい頃はひとり布団の中で寂しさを紛らわそうと必死だった。寂しいから声を上げたいのに、これ以上の迷惑を掛けないようにと縮こまる。どうにもできない板挟みを壊す様に騒がしく茂人の部屋に続くドアを乱暴に開け放つのはいつだって晴矢だった。「暇だから早く治せ」とサッカーボールを抱えて会いに来てくれる彼の期待に応えようと、必死になった。いつからか、そんな晴矢の隣に彼を叱る少女の存在がプラスされるようになった。病人の枕元でうるさくしてはいけないと、きっと誰か大人に言われた通りの文句を繰り返しているのであろう少女。それが杏で、晴矢のお目付け役を自称している彼女も結局売り言葉に買い言葉で晴矢と言い合いになり茂人の部屋を揃って追い出されていた。懐かしくて、茂人を憶病にした愛しい記憶だ。茂人の目が鏡を前にしなければ自分の姿を映せないことは当然だった。けれど思い出の中の杏が自分の隣にいる映像よりも晴矢の隣にいる方が多かった気がするのは、結局茂人が主観であり性格として当事者より一歩引くことを常とするが故の思い込みだったと、今自分の隣に居る杏自身が証明してくれている。
 有り触れた朝に、風邪の寝込みを一晩挟んだだけで随分柔らかい幸せが満ち足りた気がして茂人は人差し指で杏の頬をぷにぷにと突いてみた。柔らかい。女の子だからそれもそうかもしれない。流石にやりすぎたのか、杏の閉じられていた眉がぴくりと何度か反応する。けれど、まだ目覚める気配はないようだ。
 普段勝気な印象を与える瞳が瞼に隠れ落ちる影が彼女の睫毛の長さを教えてくれる。口を開かなければ、つまり遠巻きだけの印象ならば杏はモテる。より正確に言うならば、晴矢との口喧嘩を目撃されると杏は観賞用のレッテルが似合う。友人関係にしか目が行かない連中ならば男女問わず交友は広いが。無論、茂人という恋人の存在を隠している訳でもないから、杏がやたらと異性の眼を引いても無意味だしそれは茂人の心の平安的な意味でよろしくない。

「―――茂人?」
「ああ、起きちゃったか」
「具合、どう?」
「もう大丈夫。杏に移ってなければ良いんだけれど」
「平気」

 その根拠はどこから来るのだろう。思ったけれど聞かない。根拠とか、背景だとか証拠だとか。そういうものを列挙することを杏に求めるのは得策ではない。杏が平気だと言うならば彼女は本気でそう思っている。ならばこちらに疑うだけの根拠がなければ余計な言葉を積み重ねるのは無粋という物だ。
 目は覚めたものの、まだまだ眠っていたいのだろう。とろんと微睡んだ瞳が目の前の茂人を捉えると、顔色から確かに回復を読み取った杏はふっと安心したように微笑んだ。そしてすとんと再び瞼を閉じてしまう。

「……杏?」
「んー?」
「ありがとう」
「……?何が?変なの」
「看病とか。俺昨日家までどうやって帰って来たのとか覚えてないし迷惑掛けちゃったなって」
「―――、」
「杏?寝ちゃった」
「…変なの、茂人。私彼女だから、そういうの、普通なんだよ。知らなかった?」
「………そっか」
「そうだよ」

 瞼を閉じたまま、杏は寝惚け半分で茂人の言葉に澱みなく言葉を返す。ある意味純粋な本音ばかりが飛び出してきているに違いない。一度開けたスペースを詰める。見つめ合うことは出来ないけれど、鼻先が触れそうな距離で茂人は杏の腰に腕を回して僅かな距離すら引き寄せた。身動ぎひとつされなくて、これはよほど眠いのだなと苦笑する。もしかしたら、昨晩は遅くまで自分の看病をしていてくれたのかもしれない。それだけが理由じゃないけれど、寧ろそれは今回加味された一要素にしか過ぎないけれど茂人の胸には杏への愛しさが溢れて広がっていく。伝えるには、彼女の意識が沈み過ぎているけれど。だからせめて心の中で唱えることにした。照れ屋な杏には雰囲気が許さなければ滅多に面と向かって伝えることが出来ないこと。本当は、いつだって思っていて伝えたいこと。「愛している」の一言が不釣り合いなんて、そんなことは有り得ないのだ。
 満たされて、昨日から散々眠ったはずの茂人も徐々に意識が微睡んでくる。休日だし、このまま二度寝してしまうのも良いかもしれない。愛しい恋人を抱き締めながら眠るなんて、幸せ以外の何物でもない。そして枕元、傍に放っていたらしい携帯が着信を知らせていることに気が付いた。けれど、この時ばかりはずるをしても良いだろう。発信者には晴矢の文字。きっと心配してくれているのだろう。それでも気の短い彼のことだから。耐えに耐えきれなくなってこの部屋に乗り込んでくるまでは眠っていても構わないだろう。思いながら、茂人はまた眠りの中に落ちて行った。



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やさしい海には骨がある
Title by『ダボスへ』





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